第3話 別料金の支払いに

「――連れ出すとして、どこに行けばいいのですかね?」


 高校の入学式の翌日。見舞いのために早足で坂を上って息が弾む中、病院の玄関で出会った聖人は顔を合わせるなり単刀直入に訊ねてきた。


「さぁ。菫が望む好きなところに連れて行ってあげたら良いんじゃない?」


 足止めされたくない気持ちが台詞に出てしまう。早いこと菫に会って、すぐにバイトに向かわねばならない。時間が惜しいが、聖人との計画の詰めもないがしろにはできない。


(あぁ、面倒くさい……)


 菖蒲はしぶしぶ足を止めて聖人と向き合った。


「それがどこかわからないから、聞いているんですが?」


 彼は入り口の壁に寄り掛かり、腕を組んだままにこやかな顔で訊ねてきた。菖蒲は苛立った気持ちを乗せて返す。


「担当している看護師なら、それとなく聞けるんじゃないの? 身体が良くなったら、どこに行きたいかって。それにあんたならしれっと言えるでしょ? いつもあたしに聞いてくるみたいにすれば良いじゃない」


 聖人は菖蒲の早口な台詞に、眼鏡の奥の目をきゅっと細めた。


「――君は残酷なことを言ってくれますね」


「残酷、だって?」


「希望を持たない者にそんな気休めにもならない問いを掛けるだなんて僕にはできませんよ。それでもやれとおっしゃるなら、別料金をいただきますよ?」


「くっ……」


 ぎりっと奥歯に力をこめる。菖蒲はただ聖人をにらんだ。


(あたしが菫に質問できないとわかっていてそんなことを言ってくるんだな……)


 細められたまま見つめてくる瞳に赤い光が滲んでいるのに気付いた。何かを企んでいるのだろうとわかる。そして、見透かされていると言うことも。


「……わかったわ」


「別料金を支払う、と?」


「いいえ」


 きっぱり答えてやると、聖人は怪訝な顔をした。端正な顔の眉間にしわが寄る。


「じゃあ、どうするおつもりで?」


「今、自由にならないとわかっているから菫は失望している。だったら、動けるようになってからその質問をすれば良いでしょ? 本人の意思に委ねればそれで良いじゃない。行きたいところがないって言うなら、やりたいことをやらせてあげてよ」


 両手を腰に当て、菖蒲は胸をそらして堂々と言ってやった。彼の理屈に合わせるなら、これで問題がないはずだ。


「へぇ……」


 聖人は舌で自身の唇をそっと湿らせた。そしてふっと笑む。


「本当にその注文でよろしいですか?」


 冷たい微笑み。


 菖蒲はびくっと身体を震わせ、しかししっかりと足を踏ん張り直して対峙した。


「良いわよ。菫が喜んでくれるなら、その代償は払うわ。そう契約すればいいんでしょ?」


 要求はしっかりと伝えてくるのが聖人だ。何度かこのやり取りをしている菖蒲には、彼にこう宣言すればすんなりと応じることを知っている。


 わかった、そう答えて今日は引いていくと思っていたのに、聖人は菖蒲の予想とは違う態度をした。


 冷酷さで溢れていた表情が、悲しげな色を滲ませ始めたのだ。


「菫ちゃんが喜ぶなら、ですか……」


 言って彼は壁から離れ、菖蒲のあごに触れるとくいっと強引に持ち上げた。


「んっ……」


「君は、本当にそれで良いのですか?」


 赤い瞳がかすかに揺れる。


「良いかって……どう言う意味よ?」


「菫ちゃんが喜ぶことは、君にとっても喜びになるのか――その確認ですよ」


 じっと向けられる視線。それをそのまま菖蒲は見つめ返す。真っ直ぐで揺るがないその瞳で。


「そんなの決まっているじゃない。菫の笑顔を見るためにあたしはあんたにお願いをしているのよ? 菫の笑顔を守れればそれでいいの。菫の笑顔が見られればあたしは頑張れる。失われた菫の笑顔を取り戻すためなのよ、これは。だから充分にあたしのわがまま。あたしが勝手に思っていること。菫が喜んでくれれたのが見られたら、あたしは喜ぶわよ。そんなこともわからないの?」


 理解できない。感情を食い物にしている聖人がどうしてそんなことを言うのか、菖蒲には想像できなかった。


「そう。それならいいんです。君がそう望んでいるのなら、その思いを力に奇跡を起こして差し上げましょう」


 そう告げると聖人はあごに触れていた手をどかし、その手を菖蒲の腰に回して引き寄せた。


「ちょっ……」


 契約の度にキスをした。愛情のない口付け。菖蒲はそれを儀式として受けいれていたが、こうして触れ合うことは一度もなかった。聖人の硬い身体の感触に、女の子のそれとは違うものを感じて菖蒲は焦る。異性の他人に抱き締められたのは初めての経験だった。


「しかし、もう少し先のことも、君自身のことだけじゃない回りのことも意識を向けたほうが良いこともありますよ?」


「そ、その話とこの状況は何の因果があるってわけっ?!」


 菖蒲は抵抗した。だが、思うように動けない。体格差が、菖蒲の自由を奪う。


(放せ、放せ放せ……)


 どうしてこんなに恐慌状態に陥ってしまっているのかわからない。菖蒲はばたばたともがく。


 そんな様子が面白かったのか、くすっと笑う聖人の声が耳に届いた。


「――君がこんなに動揺するだなんて珍しい」


 菖蒲の長い黒髪を指で梳きながら、顔を寄せる。


「あたしをからかうなっ! 契約だけのビジネスの付き合いでしかないのに、馴れ馴れしくするなよっ! そんな気もないくせにっ!」


 叫び喚く菖蒲に、落ち着いた声で諭すように聖人は続ける。


「ビジネス以外の付き合い方だってできますよ? 君が望むなら」


「はぁっ? 何? 口説いてるわけ? あんたにとってただの食料にすぎないあたしが、なんでそんなことを望むのよ?」


 混乱する。どうして今、彼がこんなことを言い出したのか理解できない。


「君の中にある感情は恨みや怒り、妬みや悲しみだけではないはずですよ? どうです。年相応の少女らしく、恋や愛から感情を生み出しては?」


 甘く囁かれる言葉は、しかし菖蒲の心には届かない。傾きもせず、なびくこともせず、ただ拒み続けるのみ。


「ふざけんなっ! あたしは菫さえいてくれれば充分なのよ! あたしにそんな冗談を言ってて楽しい?」


「動揺している君を見ているのは、普段の攻撃的な君を見ているのと同等、いやそれ以上に楽しいですよ。それに――」


 髪を梳いていた指先がいつの間にか菖蒲のあごを捉えていた。そのまま強引に持ち上げて強制的に顔を上げさせ、口を塞ぐようにキスをする。いつもの触れるだけの軽いものではなく、その舌先が菖蒲の唇を優しくなぞる。


「んぁっ……」


 仰け反るように身体を捻った菖蒲を、聖人はすぐに解放した。菖蒲は唇を手の甲でごしごしと拭う。にらんでいる菖蒲の瞳には苛立ちと戸惑いが半々ずつ滲む。


 そんな様子を見ながら、聖人はくすくすと笑った。


「君が抱く負の感情も美味しいですが、今のもなかなかのものでしたよ」


「く、喰ったからには、あたしの願いを叶えなさいよねっ!」


 ぺろりと唇を舐めて笑顔を作る聖人に菖蒲は吠える。


(な、なんなのよ、今日は……)


 心臓がばくばくと力強く、そして早く脈を打っているのがわかる。聖人が指摘してきたように動揺しているのは明白だ。


「これは菫ちゃんの願いを叶えるための分ですよ。これだけの感情を伴った精気があれば、それなりのことは叶えてあげられるでしょう」


「そ、それなら了解よ。――ってか、変な食べ方しないでちょうだい。いつものじゃ駄目なわけ?」


「たまには違う刺激も良いかな、と。僕も飽きてきちゃったんですよ」


「飽きるなっ! あんたは食事の方法に文句をつけるのかっ!?」


 文句を並べる菖蒲に聖人はその細くて長い指先を向ける。


「ふふっ……顔、赤いですよ? どうしてですかね? そんな顔で菫ちゃんに会ったら、何を聞かれることやら」


「くっ……からかいやがって……」


 視線を外したら負けのような気がして、菖蒲はずっと聖人をにらみ続けた。悔しいが、それしかできなかった。


「では、僕はそろそろ行きますね。仕事がありますから」


「さっさと行きやがれっ! 油売るなっ!」


「はいはい、ではまたのちほど」


 音が戻ってくる。そこに広がっていたのは日常――そのはずなのに、菖蒲にはいつもとはどこか違って見えた。

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