十五 真名

 黒猫だった神様が、ゆっくりと目を開く。


 神様の周りを渦巻いていた光や力場がゆっくりと消えていき、彼は地に足を付ける。すると、完全に場は鎮まった。


 神は己を調伏した少女を見ている。先ほどまで戦っていたのだからお互い見つめているのは当たり前ではある。


 と、神代かみよの少女がひざまずいた。



「──神よ、人々をお守りください」


「……顔をあげて」



 神様が言う。それはねこわらしとは似ても似つかない声、雰囲気、表情。


 離別の少年は険しい顔をした。



「ねこどの、私がわかるか? ちなみに真名しんめいは相変わらず呼んではならないようだ」


「……真名しんめいを呼んではいけない……? ……ここは一体……いや、問われたことにお答えすると、私はあなたが何を司るかたであるかは知識で分かります。ただ知り合い、と言えるかという問いでしたら、私はあなたを知らない」


「……そう、か」


「いえ……そもそも私はたった今生じた概念でしょう。今以前に≪私≫として私があったなら、私はそのかたの『代替わり』、ということでしょうね」


「……なるほど」



 水色の彼女は淡々と返してうつむき、離別の少年は同じくうつむいているが、水色の彼女とは正反対の雰囲気を醸し出していた。


 それは、怒り、悔しさ、そういった負の感情。





 神を呼び捨てにした少年に、彼以外の全員が驚愕した。



、って……こういう戻り方かよ!!!」



 少年は絶叫する。



「あぁ……確かに、戻ってきたさ、その思考実験の神は! でも、俺が聞いていたのは、『ねこわらし』に戻れるかどうかだ!!」



 少年はなおも絶叫する。


 神の代替わりだなんて、ということは、『先代ねこわらし』は死んでいるということにほかならない。



「俺は……ねこわらしを殺したんだ……! あいつは……あいつはっ」



 少年は己の怒りを言葉にすることができなかった。


 どれだけ叫んでも足りない。


 笑顔で別れを告げた姿が、頭に焼き付いて離れない。


 水色の彼女はうつむいたまま、呟く。



「今更言い訳にしかならないが……私も知らなかった結果だ。ねこわらしが身を挺してまで『神へ戻す方法の実演』と、『戻したらどうなるのか』を私たちに示したかったのかは……理由がある。私はそれを言いたくない」


「なんでだよ!!!」



 少年はやはり絶叫する。



「……悲しみしか生まないからだ」



 やはり水色の彼女はただ暗い表情でうつむいていた。


 もし彼女が動けたなら、うちひしがれて座り込んでいただろう。



「言えよ!! これ以上悲しいことなんてあるかよ……! あいつは……あいつは、死んだんだ、もういないんだ……あいつは……」



 片手で顔を覆い、眉間にしわを寄せて、少年は叫ぶ。



「……言え!!!」



 それに対して、水色の彼女はしばらく落ち着かなげに迷っている素振りを見せていたが、とうとう……暗い顔で淡々と呟いた。



「……そう。たとえば怒りに任せればどんな者でも何をしてしまうか分からないし、ふとミスをすることもある」


「あぁ今俺は実際怒ってるさ、釘でも刺すつもりかよ」


「ここでは、真名しんめいを呼べばそれだけで可能性があることが分かった」


「……だから何だよ!!!」


「ねこわらしは、お前の真名しんめいを、知ってしまったのだろう?」


「……!?」



 彼は動揺した。



「だから、何かの拍子でお前の真名しんめいを呼びたくないから、自分がいなくなっても構わないと、言われた」


「な……ん、で」



 彼は一転して青ざめる。



「俺は……≪現世うつしよ≫に帰らないと、言ったぞ……」


「お前の意思に関係なく、何かが起きて≪現世うつしよ≫に飛ばされるようなことがあるかもしれない」


「そんな可能性があるなら俺はとっくに文字になってるだろう!!!」



 ──彼は自分で自分の真名しんめいを、呼んだのだから。



「そのパラドックスを修正しようとする力がまだ働いていないだけかもしれない」


「もし、とか言ってたらキリがないだろうが……どうしてそんな……」


「……そして、たとえば、あるはずのない場所として≪幽世かくりよ≫の存在自体が完全解析されてしまえば、あとはもう、本当にどうなるか分からない。我々自体が消滅するかもしれないし、お前たちも一緒に消滅するか、あるいは恐れている≪現世うつしよ≫に強制的に戻されるか……あるいは、解析結果の中にお前たちが居ればもちろん一蓮托生……」



 可能性の話はもう、うわごとのように彼女の口からこぼれているだけだった。



「もしもなんてもういらん!!!」


「そのもしもが、起きてほしくなかったから、ねこわらしはこうしたんだ」



 水色の彼女は、歯を食いしばっているような表情をしている。


 彼女は泣かないと決めているから、声は震えていても、涙はなんとか抑えつけている。



「……っ大馬鹿野郎が!!!!! ……お前ねこわらしが命かけるような相手じゃねえよ、俺は……っ!」



 離別の少年は、座り込んで頭を抱えた。


 泣いていた、のかもしれなかった。

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