十四 黒猫

 その黒猫が鳴いた。自分の存在を主張するように。


 それは鳴き声というよりは咆哮だった。


 周囲が振動するほどの大音量。少年少女は思わず耳を覆う。


 そして、その巨躯では信じられないほどの俊敏さで数十メートルを飛び跳ね、前傾姿勢で四人がいる方を睨んでくる。


 威嚇の唸り声が恐ろしい。



「……なんだよこれ!」



 離別の少年が水色の彼女を睨みつける。



「元に戻るんじゃなかったのか!!」



 その絶叫に、水色の彼女は少し陰のある表情を向ける。



「まだ戻せていないだけだ。この国にとっての≪神≫という存在はそもそも≪荒魂あらみたま≫……ないがしろにすれば祟るものとされている。そのため、≪祀る≫にはまず≪調伏ちょうぶく≫しなければならない」


「……この生き物を、倒せばいいのですか?」



 真剣な顔で巨大な黒猫を見つめながらそう聞いたのは神代かみよの少女だった。



「それではいけない。倒してしまっては≪神≫は≪祟り神≫としてヒトに殺されるだけだ。この国の≪神≫には死ぬという概念がある」


「ではどうすればいいのですか?」



 神代かみよの少女がさらに問う。



「動きを封じて祈るのだ。祈りの言葉はその時に言う。復唱してくれ」


「分かりました」



 言うが早いか神代かみよの少女は黒猫に向かって駆けだした。


 いつの間にか、その手には槍が握られている。


 物騒なものを手に走る彼女に離別の少年は心穏やかでなくなる。


 あの黒猫は水色の彼女の言葉を信じるなら、ねこわらしと無関係ではない存在のはずだ。


 武器を手にそれに向かったということは、傷をつけるということ、痛みを与えるということで……しかし、きっとそれは必要なことなのだと、少年は自分に言い聞かせた。


 そして自分のもとへ駆けてくる存在に対抗するために黒猫も少女に向かって走り出す。


 神代かみよの少女は黒猫と対峙すると決めてから、目の前に不可解な図形が複雑に展開しているのが見え、内心驚いていた。


 その図形たちは黒猫や少女自身の動きによって配置や形を変えていく。


 黒猫の前足が少女を踏み潰そうとしたとき、その図形たちは危機を知らせるように警告的な色に変わって安全そうな方向を示してきた。


 それに対して少女は困ったように笑う。


 こんなふうに教えてくれなくても、自分は生き物との戦いには慣れている。


 ただ、相手は少女にとって見たこともない生き物だ。


 この図形たちは視界の邪魔になるようなことはしないし、自分の勘だけに頼っていてはいけない気もしたので、今後を考えるとありがたいものに思えた。


 それに、少女は自身が、≪現世うつしよ≫にいた頃よりずいぶん身軽になっているように思った。


 黒猫ほどではないが、高く飛べるし、速く走れる。


 だからひょっとしたら、自分ができると思わないことでもできるかもしれない。


 それをこの図形たちが教えてくれる気がした。


 その様子を目にしていた共存の少女と離別の少年も目を見張っている。


 人間にできる範囲の動きではない。


 黒猫が左前足で神代かみよの少女を薙ぎ払おうとしたとき、少女はひらりとかわしたうえで、その左前足に槍を突き立てた。


 黒猫が痛みに絶叫を上げる。


 空気を震わせる絶叫に、共存の少女と離別の少年はまた耳をふさぐ。


 けれど水色の彼女と神代かみよの少女は平然としていた。


 神代かみよの少女は、黒猫の左前足が地面に串刺しになって動けなくなるまで、槍を押し込んだ。


 黒猫はそれでもなお右前足で少女を踏み潰そうとするが、いつの間にか神代かみよの少女の手には新しい槍が構えられていて、黒猫の前足は両方とも地面に縫い留められることになってしまった。


 離別の少年は痛々しい光景に口を引き結んでいる。


 黒猫はなんとか動こうともがいているようだったが、前足が両方とも動かないのでどうしようもない。


 このままでは前足の傷がもっとひどくなってしまうので、急かすように少女は叫んだ。



「みずいろ様!」


「荒ぶる御霊みたまよ、静まり給え」


「荒ぶる御霊みたまよ、静まり給え!」



 離れているというのに、神代かみよの少女の頭には、妙にはっきりと水色の彼女の声が届いた。


 それが調伏ちょうぶくの祈りだということを神代かみよの少女は確信し、復唱する。


 神代かみよの少女の足元から、何かの力場がふぉん、と立ち上る。



「これより尊き御霊みたまを、≪シュレーディンガーの猫≫としてあがたてまつる」


「これより尊き御霊みたまを、≪シュレーディンガーの猫≫としてあがたてまつる!」



 神代かみよの少女は、神に祈るのならば平伏していなければならない気がしたが、周囲に渦巻く謎の力場のせいで動くことができない。


 気を抜けば少女自身が吹き飛ばされそうだった。


 離別の少年は、思考実験として崇め奉るという節がどうしても奇妙なものに思えた。


 そして、あらためてここでは自分の感覚など通用しないのだろうとため息をついた。



「ひとふたみよいつむななやここのたり、ふるえ、ゆらゆらとふるえ」


「ひとふたみよいつむななやここのたり、ふるえ、ゆらゆらとふるえ!」



 神代かみよの少女が復唱し終わると、シャーンという澄んだ音が大きく鳴り響いた。


 黒猫がまぶしく発光し、辺り一帯が真っ白になる。


 少年少女たちは目を開けていられなくなった。


 鈴のような音の残響が消える頃には、強烈な光も収まっていった。


 そして黒猫の居た位置には、狩衣かりぎぬ烏帽子えぼしといういでたちのどうみても大人の男性が、目を閉じたまま浮いている。



(どういうことだ……?)



 離別の少年が眉間にしわを寄せながら水色の彼女の方を見ると、今にも泣きだしそうな表情で、静かに彼女は言った。



「……あれが、本来の姿だよ」

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