十三 猫童

「私は、ねこわらしが必ず喜ぶ言葉を知っている」



 水色の彼女は静かにそう言った。



「それを言うと、ねこわらしは必ず笑う」



 二柱ふたりはそう言って見つめあう。


 その間の空気は、まるで愛しい家族のようだ。



「だが、こうすると、お前たちからは、私がその言葉をねこわらしに耳打ちしたかどうか分からない」



 水色の彼女はねこわらしの方にできるだけ体を傾け、ねこわらしは背伸びして彼女のほうに体を傾ける。


 扇が二柱ふたりの顔付近をすっぽり覆う。



「その言葉は、私の気まぐれで、言うか言わないかは五分五分だ」



 そこで、少しそのまま時がたった。


 水色の彼女だけが、扇から顔を出して、三人に問うた。



「さて、ねこわらしは笑顔か否か?」



 ……これ、は。


 …………だけど。



「笑顔~」


「笑顔がいい、けど……」


「……」



 明るく言った神代かみよの少女は、言い淀んでいる二人に不思議そうな目を向けた。


 水色の彼女はゆっくりと扇をどけた。


 ねこわらしは眩しいくらいに笑っていた。



「いいクソガキ! おれの名を呼べ!」


「!?」



 笑顔で放たれたクソガキ、という単語に二人の少女は驚き、指名されたことになる離別の少年はさらに驚愕した。



「……んなこと……できるわけねーだろ!?」



 こんなに叫んだのは、いつぶりなのだろう。



「いいから呼べ!」



 そう叫ぶねこわらしは眩しい笑顔のままだ。



「……」



 離別の少年は、どうしてこんなことを、と、水色の彼女を睨む。



「……呼べば、分かる」



 ただ彼女はそう言ってうつむいた。


 暗い顔のみずいろと、底抜けに明るい顔のねこわらし。


 二柱ふたりを交互に恨めし気に、苦し気に、睨む。だけれど、そんなことに意味なんてなくて。


 二柱ふたりの意志はきっと、ものすごく硬い。



「ねこわらしは……元に戻せるのか……!?」


「ああ。戻せる」



 返ってきた答えは予想外に即答だった。彼はそれに毒気を抜かれた。



「呼べ!」



 更にねこわらしが催促する。


 ギリ、と、こぶしが音を立てたような気がした。



「……戻せる……んだな?」


「ああ」



 また、水色の彼女は即答する。



「…………本当、か?」


「本当だ」



 即答。



「……っ」



 彼は、息が詰まる思いだった。


 これだけ即答されても、踏み切れない。


 だって、あれだけ文字化を嫌がっていそうだったのだ。


 ああして文字になってしまった、寂しい、と。


 文字になったらもうただの文字なのだ。


 きっとそれが意志をもって話すことや動くことなどないのだろう。



「……呼べええええええええええ!」



 ねこわらしが絶叫した。


 それで、背中を押された。




「──────……≪シュレーディンガーの猫≫」




 すると、ねこわらしは満足したように目を細め、手を振った。


 それは。


 ……さようならの、振り方。


 目を見張ってそれを見つめていると、ねこわらしは足からだんだんと光になって上空に……吸い込まれでもしているかのように、上っていき……。


 上空に確かに、透明な≪シュレーディンガーの猫≫という文字が現れた。



「……」



 一同それを、不安げに見上げる。



「……お前のことだから、ミクロマクロ云々と言っても理解しそうで怖いが」



 うつろな目で水色の彼女は言った。



「この思考実験のことを完璧に理解して名を口にしたわけではない……よな?」


「……はい。俺は科学的に分析したいですから」



 離別の少年も暗い目で答える。



「それでもこのありさまなのだよ」


「はい。……で、どうすればいいんですか」



 急かすように聞く。


 二人の少女が心配そうに見つめている。




 「──スクロール、オープン:≪シュレーディンガーの猫≫」




 水色の彼女がそう言って扇で彼の方を指すと、先刻図が飛んできたときのように、厚みの無い光の板のようなものが彼の読みやすい位置に飛んでいった。



「これ、は」


「そこに、『ヒト』が≪正解≫と断定して疑わない、完全解析結果、が記されている」



 必死に目を凝らす。


 どうやらこれはタブレット端末と同じように扱えばいいようだ。


 ただ……スクロールバーのノブが見えないくらい小さいようで、いっこうに終わりそうもない。



「こんなもの……どうすれば……っ」


「私の後に続いてくれ」



 水色の彼女が、すっと息を吸い込んだように思えた。



「──これより事象の反故ほごを開始する」



 事象の、反故ほご


 この薄っぺらな文字の羅列を、なかったことにする。



「これより事象の反故ほごを開始する」



 ふぉん、と、何かの力場が少年の周りに発生する。


 文字列が不穏にきらめく。


 少年は一字一句のがすまいと身構える。



「『あ』から『ん』、『1』から『0』、『A』から『z』、『Αアルファ』から『ωオメガ』、始まり終わる」



 少年は彼女の言葉を復唱する。



「『あ』から『ん』、『1』から『0』、『A』から『z』、『Αアルファ』から『ωオメガ』、始まり終わる」



「文字有限にして、語り尽くすまじ」


「文字有限にして、語り尽くすまじ」



 屁理屈だな、なんて思いながら少年がそう復唱すると、彼の周りの力場は勢いを増したように風を巻き始める。



「よってこの他にも解有りと提言す」


「よってこの他にも解有りと提言す」



 巻いた風が勢いを増し、彼の短い髪がなびいた。


 ……でも、こんなこと言ったら、その解を示すとか言い始めたりしないよな……?




「──破棄」




 しかし、考えてみれば解を示すということはこの場の目的と正反対の文字化そのものではないか。そんなもの唱えるわけが、無い。



「破棄」



 ──彼の復唱は、劇的な変化をもたらした。


 少年の手元にあった文字の羅列及び、上空の≪シュレーディンガーの猫≫の文字が砕け散ったことに焦る暇すらなく、とんでもないサイズのが現れた。

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