四 水色

「みずいろさまー!」



 石段を上り終えると少年は彼を置いて走り出した。



(元気過ぎね……?)



 あの様子では彼をこの石段の下まで運んできたのも、きっと真実あの少年一人でのことなのだろう。


 見た目少年でしかないのに自分よりも体力がありそうなので、彼は子供に負けた気分になってたいそう虚しくなっていた。ただ、怪しい猫耳と二本の尻尾とあの元気さから、ただの少年ではないのだろうな、とも思ってはいる。


 そして、あれだけ果てしない石段をずっと上り続けてきたにしては、彼自身もそれほど疲れていない。上り終わったころには倒れるのではないかと思っていただけに、どこか普通ではない気がする。謎でしかなかった。


 ふう、と一息ついて、彼も少年が駆けて行った方向へ歩き始める。


 よく見るとそちらの方向には、少年のほかにも誰かが一人いるだった。


 ……つまりよく見ないとわからないくらい遠い。


 そのことに少しげっそりしながら、彼は増えていくばかりの謎にも顔をしかめる。


 鬱蒼と茂る森の中の石段なんてものを上り切ったなら、てっきり鳥居だの神社か何かの建物だのがあるものだと思っていた。


 しかしそこにあったのは石段より果てしない平地で、森ですらない。それどころか草すら生えていない。水分をほどほどに含んでいそうな砂の地面に、何の雑草も生えていないのは何かひっかかるものがある。だが深く考える気は起きなかった。そんなことよりもっと訳が分からないものがある。彼はそれらを見渡して、自分の常識を放り投げるだけでは足りなそうだとげっそりした。


 雲一つない青空に浮いている物が大量にあるのだ。それらは透明なプラスチックで作られているような文字だった。雑然と色々な単語がちりばめられている。



(俺、実はまだ寝てんじゃね?)



 意味不明なことが起こりすぎだ。


 そして遠くにあの少年と一緒に佇む人物が青っぽく見えてきてから、彼は心底色んな事が面倒になった。


 あれがさっきの女性なら、あの時吹き飛ばすだか叩き落とすだかするのではなく、まっすぐここに誘導してほしかった。


 猫の少年のように走る気はしなかったので、かなりの距離を歩いて、話すのに不自由しない程度の距離まで近づく。猫の少年と一緒に佇んでいたのはやはり、あの青い時の青い女性だった。



「……どうも」



 何と言ったら、というか、何から聞いたらいいのかがもう分からないし面倒で、彼の口から出たのはとりあえず挨拶だった。それも略式過ぎるもの。


 少年が『みずいろさま』と呼んでいた気がする女性は、その呼び名通り、まとった唐衣からぎぬ表着うえのきぬが水色を基調にしている。


 さすがに覚えていないが、こういう青と水色と白だけという寒色系に偏ったかさね色目いろめはなかったように思う。


 彼の感覚だとどれを見ても最低一色は何か傾向のまるで違う色があって、『これがマナーか……』と首を傾げたことがあったことだけは覚えている。


 その女性の長そうな黒髪はきれいにまとめられていて、上に控えめな金の冠が乗っている。ただ江戸期の高島田やひな人形のようなものとは全く違うため、彼にはどういうふうになっているのか良く分からなかった。


 そしてまた、扇で鼻筋から下くらいを隠している。

 

 猫の少年が彼女の横で、「みずいろさまにもお礼を言え」なんて腕をぱたぱたさせながらにこにこして言っているので、そういえばと思う。



「さっきのあれは、あの気持ち悪いのから助けてくれたんですよね? ありがとうございました」



 自然と少し頭が下がる。



「自分のことを気持ち悪いと言うとはなんとも自虐的だな」



 その青い双眸以外見えないので、どういう表情をしているのか掴めないが、きっとただ無表情だ。そんな気がした。


 彼はあれが自分だなんてやはり思いたくないので、そう再び言われたことに腹が立つ。



「怒ってはいけない。しかし、お前のせいではない」


「……?」



 彼は言い回しに何か妙なものを感じた。第一、何が言いたいのか分からない。謎ばかりが深まって彼は眉間にしわを寄せる。



「話は後だ。他の二人もそろそろ辿り着く」



 スイ、と彼女は彼の後方を扇で指した。


 顔の前にあった時は完全に開いていた扇が、指示器のように扱われた時には完全に閉じている。


 彼が振り向けば、二人の人影が気だるげにこちらに歩いてきているところだった。


 距離からして、もしかしたら、彼がここに到着するまでには石段を上り切っていたのかもしれない。


 二人の歩調はずいぶんと近いので、おそらく一緒に歩いて来ているのだろう。ただ、服飾の時代感が違いすぎて、一緒にいるのが少し不思議に見えた。


 その格好の共通点としては女性的なところと、妙にくたびれていそうな2点だけ……そしてはたと彼は自分の出で立ちに目をやる。


 海に落ちていたらしき証明の磯の香り、そして落下の衝撃のためかあちこち多少裂けてほころびている。


 それ以前にTシャツにジャージという、他人に会うことなどまったく想定していない服装だ。異性の前に姿を見せるなどますますアリエナイ。


 彼はこの場に居るのが一気に嫌になった。とはいえそんな理由でここから逃げ出す方が間抜けだ。加えてあのふたりの様子なら、自分がこの訳の分からない状態に巻き込まれたのが何の容赦もなく急なものだったのを察して、触れないでいてくれそうな気もする。


 あの石段を上ったのなら無理もないだろう、二人は疲れ果てた様子でただひたすらこちらを目指している。


 その二人が足を止め、顔を見合わせたあとに、先客たちに何か声をかけようとしたところで。



「まず最初に口止めをしなければならない」



 水色の女性のその声はより力を込めてその場に響いた。



「互いに真名しんめいを明かしてはならない。もし何かのはずみで呼ぼうものなら



 彼女は扇で斜め上空を指した。


 そのあたりにたくさんたくさん浮いているのは透明なプラスチック状の単語たち。



「どういうことですか?」



 二人の少女はただ困惑して絶句していたが、彼はそう問いかけた。


 だが彼女はそれには答えずに、なんだか人の悪そうな笑みを浮かべて言い放った。



「ようこそへ、少年少女たち」

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