三 名前

 つんつんつんつん


 少し意識が戻って来て、彼が初めに思ったのは、『なんかつつかれてる』だった。


 つんつんつんつん


 どうやらつつかれているのは頬のようだな、などと思う。


 つんつんつんつん


 だんだん彼はウザくなってきて、ようやく目だけぼんやりと明く。


 つんつんつんつん


 だが彼が目を覚ましてもなお、頬はつつかれ続けた。



「あああうぜえ! 何してんだ!」


「うざいのはお前だクソガキ」



 そう言い放ったのは、どう見ても小学校低学年くらいの、あどけない姿と声をした少年だった。見た感じとそのセリフのあまりの落差に、一瞬ではね起きてしまった。


 更には、童水干わらわすいかんに猫耳に扇。何だろうこの……ファンシーな格好は。彼は少しめまいを覚えた。


 少年がいまだにつついてくるので彼は立ち上がった。


 すると今度はももをつつき続ける。



「お前、それ楽しい?」


「うん、楽しい」



 迷いなき即答に彼は少し対応を迷い、ただ正直に頼んでみることにした。



「扇でつつかれるのは地味に痛いからやめてくれると嬉しい」


「嬉しいのか?」



 少年は皮肉や揚げ足取り等ではなく、ただ単純に純粋にそう聞いてきたように見えた。



「ああ」


「そうか」



 彼が頷くと、少年は意外にもあっさりと手を引いた。



「お前を運ぶのは大変だ。だからきっとうざいクソガキだ」


「……誰から言葉習ったのか分からんけどそれ、かなり悪い言葉だぞ」


「わかってる」


「……そうかよ」



 どうも性格が悪そうなのではないだけに彼は少し心配になったが、彼に子供の扱いなど分からない。そして。



「俺をここまで運んだ? お前が?」


「うん。この上まで持って行かないと」



 そう言って少年は、横手に見える石段を指さす。


 いちいち言葉が険悪なのはひとまず置いておいても、こんな小さい子供が平均より背が高い自分を『運んだ』と言っていることにも彼は困惑する。けれど今ここに居るというこの状況自体が訳が分からないことなので、彼は自分の知る常識を放り出すことにした。


 まずは自分自身のからだの状態を確かめる。怪我などはなさそうだが、服が少しボロくなっていた。しかし、部屋着にしていたなんの変哲もないTシャツにジャージのズボンなので、そこはさほど残念には思わない。


 だが。



「そういやなんかベタベタするしなんかこれ……海の匂い……?」



 そのことには閉口した。だいぶ気持ち悪い。



「うん、お前海に落ちてた」



 少年があっさりと言うが、波の音が聞こえるわけでもなく、それどころかここは森の奥な気がする。思わず彼は首を傾げた。


 少年の後ろでうにょり、と二本の……尻尾が動いた。尻尾? しかも二本?



「おれは水が苦手だ。だから大変だった」



 しきりに大変だったと言ってくるが、本当に彼をこの少年がここまで運んだとするなら『大変』どころではないだろうに。



「……ありがとう」



 彼がお礼を言ってみると、少し少年はきょとんとした。



「お前、ちゃんとお礼言ったな」



 ずっとすましたような顔をしていた少年がそこでにかっと笑った。



「うざいクソガキじゃなくて、いいクソガキだな」


「……せめてうしろの方が変わってほしかったかな」


「ん?」



 少年は素敵な笑顔のまま首を傾げた。


 少しだけ考えたように間をあけて。



「……うざいボケナス?」



 前より余計ひどくなった気がして彼は脱力した。



「……俺のことはナツキと呼んでくれると嬉しい」



 だがそれを聞いて少年は目を見開いた。



「お前、それは本当の名前だな?」


「ああ……そうだけど」



 彼は少年の反応に困惑した。



「……悪かった。ここでは、本当の名前は呼んではいけない。だから、色々と呼んでみたけど、失敗した」



 頭の中に疑問符が大挙してきたがそれは一旦無視する。


 どうみても少年は凹んでいた。



「きっとお前のせいだけじゃない。俺がそれ知らなかったのと、お前がふざけ過ぎただけ。半分半分だ」



 頭を撫でるようにぽんぽん、とすると、少年は気持ちよさそうに目を細めた。二本の尻尾がパタパタしている。



「やっぱりお前はいいクソガキだ」


「……たぶん呼びづらいから、あとでなんか考えような……」



 彼ははーっと長いためいきをついた。



「んで、ここ上るの?」



 改めて見上げてぎょっとする。



「うん。疲れたから起こしたかった」


「……だろうな」



 彼は、ここを登りきる頃には何か適当な名前くらい思いつくだろうと、果てしなく続く石段を10,000m走のスタート地点にでも立たされたような気分で眺めた。

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