≪世界≫
一 面影
その姿を見るのは数年ぶりだった。
数年。そう、そんなに前なのだ。
だから姿かたちなんてもうはっきりと記憶にとどめておけていないのに、それは『彼女』だと思った。
『彼女』はただ、手を振っている。
手招きではない。
それはさようならの振り方。
そして笑顔のまま向こうを向いて、歩き去ってしまう。
無音の世界の中自分の声は届かなくて、自分がなにを言っているのかも聞こえない。
そして、走って追いかけるのに歩いて遠ざかっていく。
必死で追いかけて追いかけて、そして。
(……なんてありきたりな夢)
彼の起き抜けの気分は最悪だった。
彼が『彼女』のことをどう思っていたのかは、彼自身にも結局よく分からなかった。
災害直後、彼の夢に『彼女』がよく出てきた。
だから彼は、自分は『彼女』に惚れてでもいたんだろうか、なんて思ったこともある。
しかしその夢は、目が覚めた時に、彼をことごとく最悪の気分にさせる。
それは『彼女』のせいではなく、『彼女』を殺した『自然』への嫌悪からくるどす黒い感情。
だから『彼女』のせいで気分が悪くなるわけではないのに、いつしか『彼女』自体を忘れたいと思うようになってしまった。
(つくづくひでえ思考……クラスメイト忘れたいなんて)
しかも彼女には何の責もない。
そう、本当に全く。
……だからこそますます胸糞が悪くなる。
彼はそれを振り払いたくて、勢いよく起きる。
さすがに階下の住人に悪いので足取り荒くはできない。
それでも無駄に素早く流し台に向かう。
そして彼は、こぶしをセンサー式のボタンに叩きつけた。
蛇口から音を立てて流れる水の勢いは無駄に激しい。触れる必要もないボタンを虐待した結果だ。
彼はいまいましく睨みつけながら、両手で水をすくった。
そして自身の顔面に水を叩きつけるようにして洗う。
彼がボタンを再びこぶしでぶん殴ると、ぴたりと水は止まった。
タオルで顔を拭きながら彼が壁のボタンの一つを押すと、音もなく鏡が下りてきた。
もう一つ他のボタンを押すと横から引き出しが出てきて、彼はシェーバーを取ると引き出しを戻る方向に軽く押す。
ようやく彼の気が晴れてきたようで、引き出しに無駄な力が浴びせられることはなかった。
彼はそこまで濃い方ではないので、髭を剃るのにそう時間はかからない。
鏡には目つきがいつも以上に悪い彼が映っていた。
こんな顔で学校に出て行ったら周りが怯えそうだと彼は思う。
彼は、軽く両ほほを叩いて、長いため息をついた。
もう一度先ほどのボタンを押して、シェーバーをしまう。
そして鏡のボタンを押して戻そうとしたとき。
鏡の中で目つき最悪な自分がニタァっと笑った。
彼は断じて今そんな表情をしていないため、真っ先に浮かんだのは恐怖──それは、今時そう感じることのない感情──を抱いた。
彼は反射的に飛びのいて後ろの壁に背中を打ち付けてしまう。
彼は自分が臆病者だとは思っていなかったので、体が強張っていることに内心で自嘲した。自嘲なんてできる程度には思考に余裕があるようだが、硬直はとけない。
そう自分を卑下するも、こんな旧時代の余興動画みたいなことが本当に脈絡なく発生した場合に怖がらずにいられる人間のメンタルこそ、むしろどうなっているのだろう、なんて疑問が浮かび、妙に冷静な気もしたが、やはり体は動かない。
そして彼の身の上には、さらに理解不能なことが起きる。
ニヤニヤした鏡の中の自分から、異様に長い手が伸びてきたのだ。
思考以外が停止しているのか、彼の脳は何も体に命令を伝えることができないらしい。
見た目頑丈そうでもない貧相な腕に両肩を掴まれたかと思うとものすごい勢いで鏡に引き寄せられ──。
彼は、想像を絶する衝撃を全身に受けた……気がした。
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