第二巻

プロローグ

 日差しは日に日にその強さを増して、それに反比例するように僕のやる気はジェットコースターのように急降下していた。たった一つの秘密を除いてはごくごく平和に生きてきた僕には、ここ最近の映画のような現実はあまりにも激しくて、まだ一年の半分も経っていないのに今年の元気を全部使い切ってしまったような気分だった。


 白い障子戸しょうじどから差し込む光は強くて、もう早朝とは呼べないくらいの時間であることはわかっているんだけど、日曜日の朝から道場に行く気にはなれなくて、やや暑く感じる掛布団を持て余しながら僕はごろごろと時間を無駄にしているところだった。


 そんな安上がりな幸福が誰かによってめくりあげられる。


「ほら、起きなさい」


「なに? 遥華姉はるかねえ


 僕は寝ぼけた目を擦りながら隣に住む幼馴染の名前を呼ぶ。長く真っ直ぐな黒髪。でもいつもよりなんだか背が低いような。


「あれ、れい様?」


「そうよ。いつも遥華もこうやって起こしてるの?」


「僕が寝坊したときはこんな感じかな」


 僕はまだ横になっていたい体を強引に起こして玲様を見た。日曜日だから今日の玲様は制服じゃなくて白のネルシャツとジーンズ姿でずいぶんとカジュアルな雰囲気だ。前の学校では校則で休日も制服だったんだけど。でもこう見えて玲様はこの一帯では知らない人がいないくらいの大地主、中条家の一人娘だったりする。


 太陽の光が避けているのかというほど白い肌と長く伸びた黒い髪。きりりと僕を見下ろす力強い目元。そしてなにより僕を自分の『お人形』だと言い張って聞かないわがままさがまさしく旧家のお嬢様といった感じだ。


 そんなお嬢様が何故か女装していた僕を気に入ってしまって、さんざん連れまわしてくれた挙句、学校の同級生に秘密を簡単にバラしてくれて今はこうして勝手に僕の部屋にまで上がり込んでくるようになったのだ。お母さんも止めてくれる気配がまったくないし。


「朝からどうしたの? まだ文具屋さんは開いてないよ」


「知ってるわ。それは前にやったもの」


 やったんだ、と思ったのが顔に出ないようにわざとらしくあくびをした。家で漫画を描くことにとりあえずの許可が出てからというものなにかと文具屋に通っては道具を買いに行っている。僕も何度かついていったことがあるけど、結構玲様は形から入るタイプだ。


「お店って十時に開店っていうところが多いのね。一時間も早く着いて待ちぼうけちゃったのよ」


 うん、玲様ならやりかねないな。最近は玲様の家に行っていないけど、結構画材で溢れていそうだ。何度か一緒に行った時も市内のそこそこ大きな文具屋さんの商品を端から買っていたような印象だったけど、どのくらい揃えたんだろう?


「でも、じゃあ何かあったっけ?」


「あのね、今日バイトに行くのよ」


「玲様が!?」


 うーん、玲様がアルバイトをしているところなんて想像できない。なんというか誰かのために働くことに慣れていないから難しそうだけど。そもそも僕みたいな一般家庭の子どもと違って日々のお小遣いに困っていなさそうな玲様がアルバイトをしなきゃいけなくなるようなことも想像がつかないんだけど。


「そんなに驚かなくてもいいじゃない。私となおが、よ」


「えぇぇ!?」


「もうさっきからなんなのよ」


 今度はさっきより驚かされる。当然だ。だってそんな話まったくもって初耳なんだから。まだ少しぼんやりとしていた頭は玲様の発言ですっかり目覚めさせられてしまった。玲様の行動が突然なのはいつものことなんだけど、振り回される身にもなってほしい。どうせ僕は断ることなんてできないんだから。


 当然、といった表情の玲様はなんの悪びれもなく、慌てる僕を少し憐れみすら含んだ目で見下ろしている。理不尽この上ないけれど、これが僕の『持ち主』である中条玲ちゅうじょうれいという人なのだ。


「全然そんな話聞いてないんだけど」


「今初めて言ったもの。決まったのも急だったから言う機会がなかったのよ」


「それは決まったときにすぐに言ってよ」


 そりゃ僕は学校以外にろくに予定も入らないちょっと寂しい高校生活を送っているけど、もしかしたら外せない用事があるかもしれないじゃない。実際のところはないんだけどさ。


「そういうわけだから早く準備してちょうだい」


「もしかして今からなの?」


「バイトは夕方からよ。いろいろ説明したいけど、寝間着のままは嫌でしょ」


 やっと時計に目をやると時間はまだ八時過ぎ。平日ならちょっと焦らないといけない時間だけど、今日は日曜日なんだからゆっくり寝ていても誰にも怒られない時間だ。


 本当ならもう一眠りといきたいところなんだけど、玲様は寝かせてくれそうもない。諦めて起きないといけないな、これは。夕方にはアルバイトってことは忙しい一日になりそうだ。そこでまだ僕の前で仁王立ちしている玲様に視線を投げる。


「どうしたの? 早く着替えたら」


「じゃあ居間で待っててよ。着替えるから」


 そんなところに玲様がいたら着替えられない。見た目はまだ追いついてくれていないけどこれでも僕だって高校生なのだ。人並みに羞恥心しゅうちしんくらいはあるつもりだ。みんなそれをわかってくれなくていつも女装をさせられているんだけど。


「私は気にならないわよ?」


「僕は気にするの!」


「はいはい。わがままね」


 玲様にだけは言われたくないよ。玲様が出て行ったのを確認して僕は部屋の扉を閉める。なんだか覗かれていそうな気がするけど僕の部屋はただの襖の引き戸だから鍵なんてかけようがない。僕は物の少ない部屋の端にあるタンスに向かってのそのそと歩いていった。


「うーん。適当でいいよね?」


 すぐに出かけるなら困るけど夕方からって言ってたし。玲様が帰ったら二度寝もしたいところだし。何も考えずにタンスを引き出した一番上の服を手にとる。適当に入れていたせいで手に挟まって他の服も一緒に出てきてしまう。


「あ、これは」


 前に玲様にもらったお下がり。最初は玲様のお母さんに僕は彼女って嘘をついていたから玲様の家に行くときは着るように言われてたんだけど、それももうバレちゃったからこれは返した方がいいのかな。


「休日にはそれを着ていらっしゃるんですか?」


「わぁ! ば、莫耶ばくやさん」


 窓から顔を半分だけ出して、短く切り揃えられた髪が見える。見えないけど窓の下はいつも通りしわ一つない真っ黒なスーツを着ているはずだ。莫耶さんは玲様に一番近いお付きの一人で、干将かんしょうさんとともにいつも玲様と行動を共にしている。玲様がうちに来ているんだから、二人が来ているのは当然のことだ。さっきから感じていた変な視線は莫耶さんだったのか。


「なにしてるんですか?」


「いえ、周囲に怪しい人物がいないか見回っていたところ、ちょうど直様が着替えを始めておりましたので、つい」


「つい、で覗かないでください」


 この辺りで今一番不審なのはこの人なんじゃないかな? とっても仕事熱心でなんでもできそうな雰囲気なんだけど、これで機械類はてんでダメってことは知ってるから盗撮の危険がないだけ安心できるかな。


「それで、これって返した方がいいですよね?」


「いえ、そのままお持ちいただいて結構です。玲様もその方が何かと安心でしょう」


「これでどう安心できるんですか」


「弱みは、握っておいた方が何かと便利ですから」


 何かあったら僕の部屋に女の子の服があるって言いふらされるってことなんだろうか。それは怖い。田舎の噂は本当にインターネットと変わらないくらいの速さで広がっていくから絶対に止められない。怖すぎる。


 僕はゆっくりと玲様からもらった服をタンスの一番底に戻して、取り出しておいた服に袖を通した。もちろん障子戸はぴったりと隙間なく閉じておいて。


 でも玲様がアルバイトなんて。


 僕の頭の中はすっかり嫌な予感で埋め尽くされてしまって、せっかくの日曜日だっていうのに不安と心配しか残らなくなっていた。

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