一章
ウェイトレスはフリルのエプロンで包み込んでⅠ
居間に行くと、玲様はだらしなく畳の上で転がっていた。じいちゃんはまた近所に遊びに行ったみたいで姿は見えない。お母さんは玲様がいることになんの違和感も持たないみたいでいつものように洗濯をしているみたいだ。日曜日だから今日は遥華姉がご飯を食べに来るはずなんだけど、今日は珍しくまだ来ていない。今日は剣道部の練習がないのかな。僕と同じく遥華姉も玲様との
お母さんもじいちゃんも先にご飯は食べちゃったみたいで、ちょうど二人分くらいのご飯とお味噌汁が残っている。お味噌汁の入った鍋を火にかけていると、玲様がごろごろと転がったまま僕に言った。
「直、私にもお味噌汁ちょうだい」
「はいはい」
何度か来たことがあるとはいえ、玲様のくつろぎっぷりも相当なものだと思う。生まれてからずっと人に何かをやってもらうことに慣れている玲様はこういうときにもすごく堂々としている。そんな玲様がアルバイトなんて。さらにはそれに僕も一緒に行かなくちゃいけないなんてことになっているんだけど、僕の心臓は一つで足りるんだろうか。
遥華姉の分だけを残して、僕のお味噌汁を半分、お客さん用のお椀に取り分ける。量が少なくなってしまうけど、突然に玲様が来たんだから仕方ない。先に言っておいてくれれば、お母さんも喜んで玲様の分まで作るんだろうけど。
ようやく起き上がった玲様の前にお椀を出してあげる。ついでにお箸も用意して、お手拭きも出さないと。自分のご飯とお椀を卓の上に置いて、僕は台所との間を二回往復する。その間にも玲様は座ったまま僕の動きを目で追っているだけだ。
「直はよく働くわね」
「そう思うなら玲様も手伝ってよ」
「そうね。どうやったらそんな風にやることがわかるの?」
本当に不思議そうな顔をして、玲様は僕の顔を覗き込むように見上げている。自分の家で手伝いとかしたことないのかな。あれだけ家の中と周りにお付きや警備の人がいるんだから、お手伝いさんだってかなりの数がいるんだろう。玲様はいつもこうして座っているだけで誰かがご飯を目の前に並べてくれるのが普通なのだ。
「普段からやってれば順番がわかるようになってくるから」
「何事も慣れが必要ということね」
口ではそう言いながら、玲様は一向に立ち上がる気配すら見せない。僕なら座っていると遥華姉に怒られそうだから動かないといけないような焦りを感じるところなんだけど、玲様にはそれがないんだからしかたない。これもある意味慣れってことなのだ。
僕がお茶の準備をしている間に、玲様は手を合わせてから先にお味噌汁を食べ始めてしまう。僕を待ってはくれないけど、ちゃんと手を合わせるっていうのは礼儀正しいのかそうじゃないのか。
「直のお母さんって料理上手よね」
「まぁ料理好きみたいだしね」
玲様にお茶を差し出しながら僕は卓の向かい側に座った。朝からご飯とお味噌汁が食べられるってとっても幸せなことだなぁ、としみじみ思う。毎日食べていても飽きがこないっていうのは僕にとってこれが母の味だって思ってるからなのかな。
「やっぱり直も料理は得意なの?」
「うーん。どうだろ?」
手伝いをするときもあるけど、それだって月に一度くらいのもので料理というより準備や片付けがほとんどだ。小学校に入る前くらいからよく包丁で肉や魚を切る練習はしたけど、それもじいちゃんが刀を持つ前に肉を切る感覚を知っておいた方がいい、とかいう理屈でやっていただけで、あまり
「ま、できなくても問題はないと思うけど」
「なんのこと?」
「だからバイトの話よ」
それってつまり食べ物を扱うアルバイトってことなんじゃ。僕も人のことは言えないけど玲様は料理ができるようには全然見えないし、よく雇ってもらえることになったなぁ。というか玲様の家だったらもしかして飲食店の一つくらい経営していたりするのかな? そこで働くように言われているとか? それなら少しくらい気が楽になりそうだけど。
「僕、お店で出すような料理は作れないと思うよ?」
僕の不安の声に全然耳を貸すつもりもない玲様はお味噌汁の方にご執心だ。少ない量のお味噌汁を大事そうに飲み進めながら、僕の質問にようやく答えてくれる。
「大丈夫よ、給仕の方だから」
「全然大丈夫じゃないよ。僕、アルバイトの経験ないんだけど」
「私もないわよ」
それは聞かなくてもわかってたけどさ。
「私にかかればそんなもの簡単にこなしてみせるわ」
自信満々に答える玲様を見ていると、逆に僕はどんどん不安になってくる。玲様は落ち着いていれば頭もいいし、意外と周りを見渡していろいろと考えられるんだけど、調子に乗るとボロが出るタイプだ。最初に手痛い失敗をしてくれた方がいい、なんてちょっとひどいことを考えてしまうほどには暴走を始めた玲様は扱いに困ってしまう。
「でもさ、なんで僕も行かなきゃいけないの?」
「えっと、それは、ね」
愛想笑いで玲様はごまかす。これはなにか後ろめたいところがあるときだ。
「そもそも玲様がバイトする必要がわからないし。もしかしてまた家出とかしたんじゃ」
「そ、それはないわ!」
「じゃあまたお母さんとケンカしたとか」
「あ、私はそろそろ帰るわ。また四時頃に迎えに来るから」
少しずつ飲んでいたお椀を傾けて、玲様は手を合わせて立ち上がる。
僕の質問に答えない辺り、いったいどんなことを考えているのかわからない。
「まぁでもケンカしたわけじゃなさそうではあったけど」
そうだとすると、あの慌てようは僕に何かやらせようと思っているってことかな。それなら大丈夫か、と思ってしまうくらいには僕も玲様の命令には慣れてしまっている。それにしても一度は僕のこと、友達だって言ってくれたのになかなか扱いは変えてもらえないみたいだ。
僕はいつもより少ない朝ご飯を終えて、過ぎ去っていった初夏の嵐のような玲様を思いながらまたあくびをした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます