19.

 昨晩に田沼は一命を取り留めたという報せを権像から受ける。同時に、今日の仕事は休めという配慮をしてもらったが、千尋はそれを断った。

 後藤田という存在がいつ明良を脅かすかわからないのに、豆腐メンタルのせいで傍観しているわけにはいかない。それに、メンタルは明良に立て直してもらった。

「おはようございます!」

 今日はわざとらしいくらい元気に出勤した。

「おう、はよさん」「おはよう」「おはようございます」

 権像、槐、生瀬が部屋におり、挨拶を返してくれる。

 今日は、いつもよりぎりぎりの出勤になってしまった。今朝も明良のモーニングコールがあったおかげで、自分はここにいられるようなものである。

「昨日の今日でよく立ち直れたな」

 権像が割りと容赦無い物言いをする。

「正直、立ち直ってません。ただ、容量が増えたというか、増やしたんです」

「ほう。女か?」

「そうです」

「まったく照れる様子もなく言い切るか。相当にいい女なんだろうな」

「ええ、自分にはもったいないやつです。でも、なぜ女だと?」

「男が立ち直るときの要因は、女と酒、それと諦観と相場は決まっている。酒は飲まない、諦観も窺えない。となれば消去法だ」

「男って、立ち直るきっかけ少ないんですね」

「そうだ、男は繊細なんだ」

「なるほど。覚えておきます」

 机に向かう。昨日はどこまで仕事をしたか覚えていない。まずは、その確認からだ。

「昨日の報告書は書いておいた。捜査会議に早く回したかったからな」

「え?」

「えってなんだよ? 俺だって書類くらい書くぞ」

「……失礼しました。では、自分の仕事は?」

「俺たちの戦場でってことだ」

 心身ともに引き締まる思いがする。周りのサポートがこれだけあるなんて、幸せなことだ。いくら新人でもこれでなにも出来なかったら無能にもほどがある。

「神崎」

「はい」

「そう意気込むな」

「そう見えますか?」

「難しい顔をしているからな、すぐにわかる。肩の力を抜け。いろんな所に目を配れ。関係ないことでもいい。不謹慎だと言いたいやつには言わせておけ。多くの人間を見抜ける人間は、幅広い人間だ。一つでも多くのことを知り、想像も出来るそんなやつが上手くやるものだ」

「はい、わかりました」

「おまえさんは、穂澄野の風俗紙を読むくらいでちょうどいい」

「はあ?」

「堅すぎんだ」

「権像巡査長も、そういうのを読まれるんですか?」

「俺は、直に行って見てるからいらん」

「はあ。不躾なことを聞きました」

 こういうところでは、割りと最低だと思ってしまっていた。だが、権像がただ風俗に遊びに行っているとは思えない。きっと、情報屋とかなにかしら理由があるのだろう。そう勘ぐるくらいには、信用していた。

「よし、今度一緒に行こう。三丁目の桃ちゃんが最近、手応えいいんだよ」

「いえ、自分にはもったいないくらいの相手がいますんで」

「なんだ、遊びも許しちゃくれない程度の器なのか?」

 ちょっと、いらっときた。明良を馬鹿にするのは、誰であろうと許したくない。

「違います。自分が、彼女に対して誠実で居たいだけです」

「なるほど。そうやって、童貞を長引かせるんだな?」

 頭が痛くなってきた。目頭を揉みほぐす。

「真面目な話をすると、おまえさんその女に見抜かれやすいだろ?」

「ええ、なんでか嘘が通じませんが。それがなにか?」

「いや、そうか。そうなんだな。ご愁傷さまってやつだ。結婚は人生の墓場ってな。なあ、さぶ?」

「なんで、オレに振るんですか? オレだって相手がいたら結婚くらいしたいですよ」

「そうなのか? それは意外だった。俺とかおまえの相手は地球人じゃ務まらないからな。諦めてると思ってたぞ」

「まだ、諦めてませんよ」

 千尋は、この二人のやりとりで自分がどんなに恵まれているか改めて実感し明良に感謝した。

「なんだ、神崎。勝ち誇ったような顔しやがって」

「ろくさんは、穂澄野行けばモテモテなんだからいいじゃないですか」

「どいつもこいつも、俺の薄給をむしりにきてんだ」

「ははは……」

 千尋には、もう薄笑いを浮かべるほかなかった。もちろん、表情は引きつり気味の笑みを形作る。

「よし、じゃあ、始めるか」

「はい!」



 取調室、机を挟んで正面には、留置場から連れてこられた飯田が座っている。

 相変わらず、筋骨隆々で堂々としていた。堂々とし過ぎていて、両脚を思い切り開きパイプ椅子の上でふんぞり返っている。

 明らかな威嚇だ。もはや千尋は、それを見てびびりはしない。それが虚勢であり、この場ではなにも意味を持たないことがわかっているからだ。

「おはようございます。拘留所ではよく眠れましたか?」

 まず、先手で口火を切ったのは、千尋だった。

「あんなところで、眠れるわけないだろうが」

「そうですよね。自分もあそこを見て寝にくそうだと思いました」

「なら、ふざけた質問してないで本題に入れや。言っとくが、おれは殺ってないからな」

「そうですか。では、あなたが深く憎んでいた被害者がなんで死んだのでしょうか?」

「知るかよ。他にも恨み買ってたんじゃねえの? すっげえムカツク因業ババアだったからな」

「なるほど。では、ここではとりあえず、そういうことにしておきましょう」

「んな? とりあえずってどういうことだ、こら?」

 がっつり睨まれる。こっちはさすがに、感情を直接的にぶつけられてるので平常心では居られない。それでも、千尋は表情を抑制し、普段の無表情な目で飯田を見据える。

「今は、あなたを殺人犯として追及しないという意味です」

「?」

「ここに、この間のポリグラフの結果があります。それによると、あなたはいくつかの質問に答えたとき心理的変化を起こしてます。例えば、『あなたの名前は飯田篤夫さんですか?』など、基本的な質問のときと『あなたは、被害者を憎んでいますか?』、『あなたは、被害者と顔見知りですか?』などの関係性を示す質問と、『あなたは、被害者をナイフで刺しましたか?』といった具体的な犯行方法についてのときに嘘を言っているという結果になってます」

「ああ? ふざけんな!」

「今日は、ずいぶんと表情が豊かですね」

 にっこりと爽やかな笑みを飯田に向ける。

「あ?」

「確か、薬は特に服用していないということでしたが、ずいぶんそうではない反応ですね。特定の薬は表情を麻痺させるんですよ? あ、知ってますよね。失敬」

「決めつけたしゃべり方を止めろ。ムカツクんだよ」

 また笑みだけを向けて、言葉は返さない。

「それでは、改めてお聞きします。あなたは、殺人を犯したことになります。どう言い逃れしようともこのまま行けばそうなります。そこで、どうです? 正直に話しませんか? 反省の態度を示せば刑が軽くなるかも知れません」

「だから、おれを殺人を犯した前提で進めるな!」

 飯田は、その屈強な腕でスチール製の机を思い切り上から叩き降ろした。すごい音がしたが、千尋も権像も怯えた様子は微塵も見せない。千尋は内心怖くて心臓が痛いくらいに脈動していたが。

「じゃあ、あなたは殺人を犯していないんですか?」

「ああ、やってないね」

「では、ポリグラフの結果として、殴ったあとナイフで刺したというのが反応として出てますが、そこのところを説明してもらえますか?」

「たまたまだろう。とにかくおれはやってない」

 この頃になれば、横柄に開かれていた脚は慎ましく閉じてきて、そろって出口の方を向いている。それは、ここから逃げたい、即ちこの会話を終わらせたいという印だ。

 だが、権像が言っていた「自分たちは警察官だ」という言葉も重要である。警察署に来て、取調室に入れられれば、それだけで動揺してもなんら不思議ではない。早く帰りたいのもそういうことだろう。

 ただ、見るべき所は脚が揃ったという結果ではなく、閉じるように変化したという点だ。話を進めるうちに自信がなくなり、勝ち目も薄れ、逃げ出したという風に移り変わった意識の変化を理解すべきなのである。

「では、改めてお聞きしますが、アリバイはありますか?」

「またそれかよ。おれは近所を散歩してたって言ったろうが」

「それを証明できる人はいらっしゃいますか?」

「おれが車を置いて出かけたことをうちのやつなら知っているはずだ」

 殺害場所と飯田の家では確かに車が必要な距離だ。

「確かに、車は必須アイテムですね。タクシーにも乗っていない」

「そうだ、おれは小銭だけ持って家を出たからな」

 少しずつ足が開き始めた。

「ですが、車に乗らなかった証明にはならないですよね?」

「な、んだと?」

 明らかな動揺。首に手をやりなでた。膝も上下しているのが肩の動きから読み取れる。呼吸は浅くなり、目はきょろきょろと千尋を見ようとしない。

「第三者がいますね?」

「し、知らない」

「『いない』ではなく、『知らない』ですか?」

 飯田の顔に一瞬だけ走る驚きの顔。本当に驚いたときの表情だ。

「い、いない。本当だ、信じてくれ」

 身体を前傾にし、強く自分をアピールしてくる。

「嘘ですね。あなたは知っている。第三者の存在は、他の容疑者からも聞いています」

 田沼は、恐らく共通の第三者を恐れている。今の段階ではただのかまかけだ。

「…………わかった。白状する。第三者はいる。おれはそいつの車で犯行現場まで行った。そこで、『獣の仮面』と呼ばれる覆面を被った。気が遠くなる不思議な覆面だった。次に、気付いたらあのごうつくババアが死んでて、おれの手には血まみれのナイフがあったんだ」

「その覆面を被って殺した、ってことですか?」

「もう信じてくれとしか言いようがないんだが、殺した瞬間の記憶がないんだ」

「なるほど。催眠状態のようになっていた、と?」

「多分そうだ。さ、催眠状態って、心神喪失状態にならないのか?」

「催眠状態だったと証明できればあるいは」

「それって、可能なのか?」

「今のところ前例を知りません」

「そんなぁ。おれは、本当に殺した瞬間のことを覚えていないんだ」

 顔を両手で覆って絶望を表す。

「その第三者の情報を知ってる限り話してくれますか」

「それが、ほとんど知らないんだ。名前も知らないし、素性も知らない。知り合ったのは、ネットの掲示板でだ」

「ハンドルネームは?」

「名無し、だ」

「連絡はどうやって?」

「毎回違うアドレスから一方的にメールが来て、一回だけ返信できるんだ。それ以降はもう使えない」

「なるほど。その第三者は、男ですか?」

「それもわからない。酷く中性的だった」

 このやりとりには、嘘は見つけられなかった。見えているのは、怯えと後悔といったところか。

「それで、他に特徴は? 身長、体格、着ていたモノ。なんでもいいですから教えてください」

「身長は、おれより少し低いくらいだから、一七〇くらい。体格は、細いが木の枝というわけでもない。なにか、やってて鍛えてる感じがした。服装は、全身黒尽くめ。それにフルフェイスのヘルメットを愛用していた」

「なるほど。お話聞かせていただいてありがとうございます」

「な、なあ? おれは、殺してないんだ」

「それについては、これから裏付けしますからしばらくお待ちください」

「しばらくっていつまでなんだよぉ」

 飯田は、泣きそうになっていた。

「頼む。頼むから、あの『名無し』を絶対捕まえてくれ! おれはそれまでここを出ないからな! まだ死にたくねえんだよ!」

 飯田は、それだけ懇願すると槐たちに連れられて留置場に戻っていった。



「どうですか、権像巡査長?」

「非現実的な答えではあるが、嘘と頭から決めてかかるのは危険だな」

「催眠術って、そんなにきれいに記憶消せますか? 前後に必ず段差が出来てそこになにかあったのは自覚できそうですけど」

「ある単純なことに絞って使えば有用だ」

「絞る?」

「そう。例えば、一瞬の間、ぼーっとさせるとかな」

「コロシの瞬間を最初から記憶させないという手ということですか?」

「いい読みしてるじゃねえか」

「じゃあ、その第三者が殺した犯人ということになりますし、あの三人の殺人容疑は冤罪ってことになりますね」

「そういうこった。だから言ったろう? はなから決めつけるのは危険だってな」

「はい、身に沁みました」

「次は、本元だな。あいつは少し手こずりそうだぜ」

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