18.

 千尋は、気が付くと大多屋の前にいた。警察署をいつどうやって抜け出したかまったく記憶にない。わかるのは、茜色に染まる大多屋が目の前にあってその前で不自然に呆然と立ち尽くしている自分がいるということだけだ。

 どれだけそこに立ち尽くしていたかわからないが、長かったような短かったようなどっちの気もする。

「あんた、そこでなにしてんのよ?」

 無表情の顔は、動かず目だけが明良を捉えていた。

「お客さんが不審がってるから、入んなさい」

 明良に促されるも身体は動かない。

 ため息一つついて、明良は千尋を裏口の方に引っ張っていった。明良のマレットが揺れ、うなじがちらちらと見えていた。魅力的な光景のはずだが、今の千尋は反応しない。

 ほとんど、手を引かれる子どもである。明良に手を引かれ裏に回って、人目から解放された瞬間。千尋は明良を背後から抱きしめた。

 明良の身体は驚きで大きく跳ねる。

「なに? なになに?」

「明良、明良明良明良あきらあきら……!」

 千尋は、ただ必死に明良を抱きしめる。

 明良は、震える千尋の腕に手を重ねてただ黙ってされるがままになっていた。じっと、千尋の言葉を待つ。

 数分だろうか。数秒だろうか。わからないけど、長いことその状態だった気がする。でも、明良はなに言わすにただ寄り添ってくれていた。

「明良ぁ、オレは人を殺したかも知れん」

 少し落ち着いた千尋は、ぼそっとつぶやいた。

 明良は、千尋がわかるほどに大きく息を吸う。

「部屋に上がってて」

「? ああ」

 千尋は、よく意図を理解できていなかったが、明良の言うことに従って、明良の部屋に上がっていった。

 部屋に入って、どこに座ろうか悩む。まるで、自分には存在出来る場所がないような気がしたからだ。

 入り口に立ち尽くしていたが、恐る恐る明良のベッドに腰掛ける。

 そのあと、すぐに明良も部屋に入ってきた。心なしか、明良は緊張しているように見える。明良は、ベッドに腰掛けている千尋を押し倒した。

「なんだ? どういう状況だ、これ?」

「やるわよ」

「なにを?」

「営み」

「はあ?」

 意外な言葉が明良の口が出てきて、驚きを隠せない。

 押し倒している明良の両腕が震えている。怖いのだろう、表情は先ほどより緊張を濃くしていた。

「あんたは、弱い。強くしてあげる」

「待て待て待て!」

「待たない」

 明良は、自分の服に手をかけた。

「待ってくれ!」

 露わになった、明良のお腹にしがみついた。

「なに? わたしじゃいや? それとも男なのに怖じけ付いてるの?」

「おまえが嫌なわけあるか。そうだ、オレはびびってる。だから、待ってくれ」

 その強がらない千尋の態度を見て、明良も服を脱ぐのを止めた。

 千尋には、今までの関係の崩壊が一番恐ろしいことである。そのために、千尋は明良と寄り添ってきた。確かに、関係を持てたらなぁとか思っていたけれど、今はそのときじゃない気がする。

「あんた、そのままで警察官やっていけるの?」

「だけど、セックスと強さとどう関係あるんだよ」

「自信に繋がるかなと思ったんだけど」

 なるほど、一理ある。

「だけど、今は無理だ。すまん、恥をかかせちまった」

「恥? そんなものかいてないわよ。あんたとわたしの関係においてこれが恥になると思ってるの?」

「そうか。ならいいんだ」

 今度は千尋が明良を押し倒す。そのままぽかぽかなお腹に顔を当てた。それだけで、千尋は癒される。明良の恐怖も治まったのか、震えは止まっていた。

「怖い、思いさせちまったな」

「気にしないで。いつかは超えなくちゃいけない壁だと思ってたから」

「……そうか。サンキュ」

 すごく小さな声でつぶやいた。

「え?」

「いいんだ。おまえには助けてもらってばかりだな」

「今更ね」

「そうだな」

 いつもならここで笑いあうのだが、今日は千尋は明良を抱きしめる腕に少し力を込めた。明良は、頭を撫でてくれる。

 それが、あまりに気持ちよすぎて、気が付いたら眠っていた。



 目を覚ますと、千尋は明良のベッドで眠っていたことに気付く。割りとよく眠れた方だ。きっと、眠れたのは明良のにおいのようなモノに包まれていたからではないだろうか。

 時計を見れば、十時過ぎだった。もう大多屋も閉店している時間だ。暗い階段を慎重に下りていく。

「起きた?」

 明良たちは、店の後片付けをしている。そこに下りてきた千尋を明良は見つけてくれた。

「ああ。すっかり寝ちまった」

「少しは、眠れたのかしら。来たときよりはマシな顔をしてるよ。まだまだ、酷いけど」

「む、そうか」

 一時だったが、千尋はすべてのストレスから解放されていた。今、目を覚ましたことですべて思い出して気分は重くなる。

「お腹空いてない?」

「うーん、そうでも……」

 と言いかけたときにお腹が盛大に鳴った。

「……空いたわ」

「あいよ。じゃあ、作って上げるから顔と手を洗って部屋で待ってて」

「すまん」

 そういって、勝手知ったる大多家のトイレ、洗面所を拝借する。確かに、鏡に映った自分の顔はぼろぼろだった。クマは出来てるし、頬も心なしか色が悪い。客観的に見るなら、相当ストレスフルな状況にある人間の顔だと思った。

「これで、マシになったのか。心配もかけるはずだ」

 部屋に戻って、なにもせずに中空を見ている。

 自分は、人を死に追いやってしまった。その悔悟の念に押し潰されそうになっている。明良のことを考えると手段を選んでられるほど余裕があるとは思えなかった。

 でも、もしかしたら無罪かも知れない人間を冤罪によって殺しかけたと考えると、千尋の背筋に冷たいモノが伝う。

 千尋の感じた感覚では、田沼は限りなく黒だった。でも、死のうとしたということは、黒で諦めたという解釈の他に、もしかしたら白で冤罪に耐えられなかったのかも知れない。

 そう考えると、自分はやはり性急過ぎたのだ。

 一番自供を引き出せそうだったのは田沼だった。でも、今は病院にいるはずだ。生死はまだ聞いていないが、取調べには耐えられないだろう。

 そうなると、飯田と本元の二人から聞き出すしかない。しかし、本元からは非常に困難そうだ。そうなると飯田から聞き出すしかない。

 こんなところで、豆腐メンタルを曝し、潰れている場合ではないのだと思う。四人目の被害者に対する加害者もこれからきっと見つかるだろう。もたもたしていると、五人目、六人目、明良も入るかも知れない。

 そう考えると、飯田の取調べには、慎重と迅速さを期する必要がある。また、明日からハードな日々が続くだろう。

 そんなことを焦点の合わない目をしながら考えていた。そこに、明良が山盛りザンギを持って部屋に戻ってくる。

「ずいぶんあるな」

「わたしも食べるからね」

「ああ、そうか。それはいいな」

「なにが?」

「いや、別に」

「本当に大丈夫なの、千尋?」

「大丈夫ではないが、大丈夫だ」

「ふーん」

 明良がなにかを納得したようだが、それがなにかはわからなかった。

「さあ、食べよう。世界の明良ちゃんスペシャル」

「おう、美味そうだな」

 そういって、二人で山盛りザンギを三〇分かけて食べ尽くした。

「美味かった」

「うん、我ながらいい味付けだと思った」

「これ、店で出せるんじゃないか?」

「え、出さないよ。これは、わたしとあんただけの味なんだから。他の人には作りたくないもの」

「そ、そうか」

 明良の言葉に何度も救われてきたが、また心が軽くなった。

「で、あんた人を殺したって?」

「わからん。今、病院に運ばれてる」

「あんたが、直接殺したの?」

「違う。でも、オレの言葉や取調べ方で追い詰めた可能性が濃厚だ」

「そうなんだ。でも、警察に目を付けられるってことはそれだけ行動が怪しいってことなんだよね?」

「そうとも言えるが、彼はまだ容疑者であって、悪いことをしたって決まってないんだ。それを決めるのは裁判所であって警察の仕事ではない」

「じゃあ、その人は自分の潔白を証明しないで逃げたんだ。そんなやつのこと気にする必要ないよ。それよりも、他のことで出来ることをしなさいな。やること山積みなんでしょ?」

「そうだな。でも、警察官としては当然として人間としてやってはいけないことだったと思うんだ」

「そう思っているなら、そう行動しなさい。過ちは誰にでもあるもの。そこでしちゃいけないのは逃げること。反省して後悔して次へ行くことをしないこと。逃げたら、愛想を尽かすからね」

「それは、怖いな。本当に怖い」

 明良がいなくなったらなんて、想像するだけでも正気を保てる自信はない。

「そう思うんだったら、先輩や先生の言葉をよく聞いていい警察官になりなさいな」

「ああ、わかった」

「ん。あんたの目に力が戻った。その言葉信じるよ」

 片付けてくるといって、明良はお盆にみんな食器を乗せて部屋を出ていった。

「ああ、やろうか。やってみよう」

 千尋は、覚悟を決めた。


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