17.
千尋は、死んでしまいたい気分になっていた。薬頼みの睡眠、増えるストレス、のし掛かる重圧。解放されない鬱憤、上手く行かないことによる不満、明良欠乏症。
それらが、仕事終わりに権像のきつい過去を聞いたせいで昇華も代替もできずに千尋を押し潰しに来ていた。
昨日も睡眠が充分ではなかったのに、千尋は朝三時まで心の葛藤と押し問答をしながら過ごす。うとうとし始めたかなくらいの時間に目覚まし時計。
千尋は、その音が聞きながらも、身体を動かせなくなっていた。身体がとにかく重い。目覚ましはそんなこともお構いなしに千尋を呼び続ける。
意識が、現実と夢の境界線をたゆたっていた。身体は、まるで金縛りにあったかのようだ。指一本動かすのも億劫になっている。
でも、そのとき携帯電話が鳴った。千尋は、それに反応する。明良からの着信専用の曲が流れたからだ。
身体は鈍かったが、のろのろと携帯電話に手を伸ばす。ついでに、目覚ましも止めることが出来た。
「オレだ」
『起きた?』
「起きてる」
『寝れてるの?』
「そこそこには」
『嘘おっしゃい。死にそうな声してるクセに』
相変わらず、千尋の嘘は通じない。
「でも、起きれたから大丈夫だろ」
『あんた、最近ご飯ちゃんと食べてる?』
「普通には食べてるよ」
『ホント、なんでそういう嘘を言うかなぁ』
「わかってるなら、聞くなよ」
『今夜は、うちに来なさい。わたしが、あんたの所に行くのはダメでもあんたがこっちに来る分には問題ないんでしょ?』
「まあ、そうだな」
千尋が疲弊している自分を見せて、心配をかけたくないからそうしているだけなのだが。
『また、世界の明良ちゃんスペシャル作って上げるから』
「くくっ、あきよしなのになぁ」
子どもの頃、明良に悪口をいうときの常套句だった。男勝りだから「あきよし」。
『なーに、ちーちゃん? わたしとやろうっての?』
それに対し、究極の子ども扱いをして千尋のプライドを粉砕しに来る。それが「あきよし」と「ちーちゃん」の呼び名だった。
「いや、おまえはすげえなって思ったんだよ」
『そう思うならあきよしとか言うな!』
「悪い悪い」
だが、こんなとりとめもないやりとりで、千尋は身体が動くようになった。
『悪いと思うなら、ちゃんとうち来なさい。なんなら着替えも持ってさ』
「ああ、いい提案だ。考えておくよ。じゃ、モーニングコール大儀であった。仕事行くわ」
素直にお礼が言えない。
『うん、いってらっしゃい』
優しい声で応えてくれる明良。ありがたい。本当にありがたい。
「行ってくる」
そういって通話を切った。まったく動く気配がなかった身体が明良の電話一本で再起動する。
「さて、飯食ってる気力までは湧かないな」
冷蔵庫を開けてみるが、タマゴと野菜と肉が少々。手間いらずで食べられるものはない。千尋は、諦めてコンビニエンスストアに寄って行くことにした。
「おはようございます」
「おう、おはよう。よく来たな」
紫煙をくゆらせながら資料を見ていた権像。その彼からはにべもないお言葉を頂戴する。
「正直、逃げると思ってたぞ」
「自分もそうしようと思いましたが、まだなにもしていないと思いまして。逃げるなら逃げ得なことをしでかしておかないと、損した気分になりませんか?」
「か。久しぶりの屁理屈だな。顔色は最悪だが、メンタルの調子はいいようだな」
明良からの電話一本でこれだ。自分でもあからさま過ぎるだろうと思った。でも、それでも今動けるならなんと言われようが構わない。まだ、やらねばならないことの半分も終わっていないのだ。
「三人目。取調べましょう」
後藤田の標的がわかっていない現在、時間がないことには変わりはない。一つでも多くの情報を得て、先回りをする。それが、今千尋に出来る唯一の仕事だった。
「本元一博。それが三人目の最重要参考人だ。容疑も固まっていない」
「わかりました。出頭してき次第始めます」
午前十時前、槐と生瀬が本元を連行してきた。
千尋は、権像とポリグラフの準備をしている途中だったが、本元を見た瞬間その手が止まる。
異様。
そう表現することしかできなかった。自分とは違う世界の住人のようだとすら感じる。
目は死んだ魚のようで、顔色にも生気がない。身体は細いが鍛えてあるのがわかる。陽を嫌っているのか、肌は血管が浮き出るほどに白い。
「どうぞ、お座りください」
千尋は、完全にたじろぎながらも検査用のチェアに腰掛けるように促した。
本元は黙ってその席に腰を降ろす。
「電極を貼りますね。触ります」
必要以上に確認をとりながら行程を進めていく。
肌は、見た目以上に冷たく感じられた。生きているのだろうか? そう疑ったくらいだ。
「では、いくつか明らかな質問をしていきます。すべていいえと答えてください」
「いいえ」
千尋は、びくっとなった。チェアに腰掛けてから前の中空一点を見つめたままほとんど反応がなかったので、いきなりの答えに驚いてしまったのだ。
「は、はい。そうです。そんな感じでお願いします」
「いいえ」
その奇妙なやりとりも不安材料だったが、ポリグラフの針に微塵も乱れがない方が怖いと思った。
おきまりの質問をする。嘘も正しいことも針は大きく乱れない。しかし、もっと千尋を揺さぶっているのは、自分と繋がっている方から来る情報だ。
なにもないのである。
いろんな質問に対し、なんの感情も示していない。ここまで、達観というか無反応だと病気を疑ってしまう。もしくは、仙人か。
だが、ここにいる理由は殺人であり、なんらかの憎悪なり嫌悪なり怒りなりがあって然るべきなのだ。これでは、殺された被害者はなんのために殺されたかすら、わからないではないか。
「あなたは、人を殺しましたか?」
「いいえ」
ここで、わずかに千尋が微弱な反応を捉える。
なんの感情かわからないが、本元は初めて感情を動かした。ここで千尋は一つの仮定を思いつく。出来るなら反応しないで欲しい。そんな願いを込めたくなる惨憺たる質問。
「あなたは、自分で殺したかった。そう思いますか?」
「いいえ」
表面上は無反応。だが、ポリグラフと千尋には強く反応した。
無慈悲、とはこのことだろう。この男は、自分で殺したかったのにそうできなかった。それに強い感情を持っている。多分、憎しみとか悔しさではないか。
「あなたは、自分で殺せなかったことを悔しいと思いますか?」
「いいえ」
また反応がある。本元の両手がチェアの肘置きを強く握りしめていることにも気づいた。
「あなたは、殺人に興味がありますか?」
「いいえ」
針は特に大きくは振れなかった。だが、千尋には複雑な感情の波が伝わってきている。殺人嗜好でもあるというのだろうか。
先ほど聞いた「自分で殺したかった」という質問にも感情を露わにした。殺した瞬間を思い出して歓喜しているのか。違う。千尋の勘に過ぎないが、悔しさや怒りのように感じられた。
そうなると、本元は殺しを出来なかったということになる。いろいろ矛盾が起きてきて、次の質問にすぐ移れなかった。
「おい」
「あ、はい。あなたは……」
権像に促され、一人目と二人目の被害者との接点を探るがまったく出てこなかった。
物的証拠と明確な自白があるわけではないので、逮捕は出来ない。だが、逃走の恐れがあるので留置場にて拘留することになった。
槐と生瀬が連行していく。
お約束の反省会。
「今の男を見てどう思った?」
「怖い男です。殺人嗜好なんて初めて見ました」
「そうか、いい経験になったな」
「でも、あの男をどうやって取調べますか?」
「三人を調べてどう思った?」
「なんか、裏に糸を引いてる存在がいる気がします」
「なぜそう思った」
「三人ともなにかを隠してます。田沼は誰かにちくったと思われたくないという反応でした。飯田は、コロシの瞬間のことは覚えていないようでした。そして、本元は自分が殺せなかったことを悔しいというより憎いと思っているようでした」
「誰かに操られてる可能性をどう見る?」
「催眠術ってことですか? それはどうなんでしょう。催眠術ってそこまで完璧には出来ていなくて、記憶を消しても消しきれないことが多いらしいです。それに犯行の記憶を奪っておいたとしたら、前後の記憶との繋がりに怪しい段差が出来るはずなんです。そこを明日からの取調べで聞いていきたいと思います」
「洗脳は?」
「洗脳は、個人の意志を一定方向に向けるために用いられるのが多い気がします。えっと、つまり特定の記憶を奪うのは難しいんじゃないかなと考えます。そこも、犯行後に怪しい接点がなかったか調べてもらいます」
「そうか。よくわかった。疲れただろう、今日は報告書を書いたら早引けしていいぞ」
「? はい。ありがとうございます」
そのあと、昼食をとって報告書と悪戦苦闘していると、制服警官が刑事課に飛び込んできた。
「た、大変です! 権像さん!」
「あーん? どうした?」
まったく動じる気配のない権像。
「田沼が、留置場で首を吊りました! 救急車を今呼んでます!」
「ち」
さあっと血の気が引く千尋。
「おたおたすんな! おまえさんは、ここにいろ」
動きたくも動けない千尋を置いて権像は制服警官と一緒に留置場に走っていった。
自分の取調べが原因だ。
目の前が真っ暗になる。自分だ。自分の八つ当たりに似た取調べをしたせいで、気の弱い田沼を追い詰めてしまった。
しかし、首を吊ったのは、なぜなんだろう? コロシの濡れ衣を着せられたから? 本当にコロシをしたから今後に絶望して?
この二つには天地ほどの差があるが、きっかけが自分であったことに間違いはない。
千尋は、自分の豆腐メンタルが潰れる音を確かに聞いた。
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