16.
次の日。昨夜は、全然眠れなかった。睡眠導入剤は効かず、睡眠剤は飲むと起きる時間に起きられない可能性が高かったので飲めなかったのだ。
救いなのは、帰ってきたときの泥に沈むような睡眠の分だけ回復している。だから、鏡の前に立つと酷く疲れた顔色の男が立っているが、目だけは力強い。怒りと憎悪に燃えている目。今の千尋の目からはありとあらゆる感情が読み取れる。
「さて、今日も頑張るぞ!」
その力強い目に負けないように気合いを入れた。だが、顔色だけは生者のそれではなく、死人の方に近く見える。
外はどんよりと重い曇天。気分も押し潰されそうなぐらいに厚い雲が空一面に広がっている。千尋は、傘を持って美里署に向かった。
「おはようございます」
「おう、おはよう」
また槐が早くに出ていた。
「おはやいんですね」
「ああ。ちょっと気になったことがいくつかあったんでな。報告書も書かなきゃならないしな、今日の朝一までに」
「朝一なんですか?」
「ああ、昨日のことを捜査本部に上げなきゃならない。ああ、そうそう今日から捜査会議に参加してもらうからな」
「え? 聞いてないですよ」
千尋の眉根がわずかに寄る。心の準備が足りない。
「今言ったからな」
「槐さん、なかなか意地悪なんですね」
「そうか? 黙って連れて行くよりいいと思ったんだがな」
「そうですね。確かに、それよりは助かります。自分のすることはなんですか?」
「調書をまとめてくれ」
「なんにも情報得られてないのと同じですよ」
「そうか? あれだけなにかに怯えていたし、おまえに掴みかかったんだぞ。そのことを書いておけ。結論は、精神状態が平静になるまで拘留、とでも書いておけばいい」
「わかりました」
千尋は、時計を見た。八時過ぎ。あと、一時間弱で書き上がるだろうか。いや、上げなくてはいけないんだろう。
「ところで、自分が普通に出勤してたらどうするつもりだったんですか?」
「そうさなぁ。どうしてたんだろうな」
そういって、不器用に笑った。きっと、このベテラン刑事には千尋が早く来る確信があったのだろう。恐ろしい人だと思った。
調書の提出は間に合った。そして、のらりくらりとやってきた権像としゃきっと出勤してきた生瀬と捜査会議に出る。そこで、強行犯係の残り二人と初顔合わせをした。
捜査会議には、当然ながら千尋に出番はない。黙って報告を聞いていた。得られた情報を手帳に書き込んでいく。
犯人像は、単独犯だとすると多重人格でかつワープのような超科学的な力を持っている人物だと想定された。これは、笑いごとではないが、支離滅裂すぎる犯人像だ。
だが、警察は馬鹿ではない。犯行の手口の同一性が高いことから同一犯の可能性も抑えつつ、四人の容疑者を絞り込んでいた。結論は、千尋たちの結果待ちとなっている。
それの一人目が、昨日の田沼だ。二人目は、今日話を聞く飯田。三人目は、本元。四人目は、まだ証拠集めと鑑取り中の板橋である。
この前の凶器のナイフの特定と発見も報告書に書かれていた。それにより、四件目は計画がずれた可能性も示唆している。本来なら、後藤田の番だったのではないかという疑いを持っていて、今は監視をしている状態らしい。
末吉によって持ち込まれたナイフが曲者で、そこら辺の専門店に行けば大抵置いてある売れ筋の商品なのだそうだ。優秀な刃物だからこそ特定がむつかしい品だということらしい。
四件目も同じナイフが使われていたことから、管区内でこのナイフの購入者を片っ端から当たっているとの報告があった。ただ、今の時代、隣の区で買ったりしても困難を極めるのに、ネットで買うことも容易になっている。大量生産品の特定など不可能に等しい。
そうなるとやはり、頼みの綱は千尋たちということになる。千尋は、敏くその事実を感じとり、一層意気軒昂となるばかりだった。
「あんまり、意気込むな」
権像から注意された。
「はい」
従順に返事をしながらも、千尋の心は変化していなかった。適当に返事をしているわけではない。敬ってもいるし、師だとも思っている。だが、その言葉は千尋に届いていなかった。
その日、新たに連れてこられた容疑者は飯田と言った。昨日の田沼と違い背こそ高くないが、その体格は横に広く筋肉質だ。胸板の厚さときたら一部の女性は、感涙するのではないだろうか。
髪型は、短くこざっぱりとしている。見た目は悪くないと男の千尋が見ても思った。ただ、性格も大雑把で豪快そうなのはなにも話さずとも伝わってきている。
「こんにちは。飯田篤夫さんですね? 本日は、ポリグラフ検査を受けていただきます」
「ポリグラフ? なんだそれ」
「テレビとかでは、嘘発見器と呼ばれてることが多いでしょうか」
そう聞いても眉一つ動かさない。余程豪胆なのか、ポリグラフがわかっていないのか、無罪なのか。普通、冤罪でも警察に呼ばれて嘘発見器と聞けば動揺しそうなモノだが。
「飯田さん、あなたはなにか精神疾患を患ってますか?」
「精神疾患? おれの精神は、正常だぞ」
怒っているような声音なのに、表情が連結していない。よく見た光景だ。千尋と同じ状態で、感情と表情が一致していない。
「では、今日はなにか薬を飲みましたか?」
「い、いや。プロテインとサプリメントなら飲んだ」
わずかだが、千尋はその言い淀みを聞き逃さなかった。表情にこそ表れていないが、なにか心当たりがある様だ。あとで、ポリグラフのときにもう一度聞くことにしよう。
「電極を張ります」
シャツから覗く四肢の逞しいこと。こんな腕で殴られたら千尋なんて一撃だろう。体幹もよく鍛えられていた。さすが、取調べの朝にもプロテインを欠かさないだけある。
「では、いくつかお決まりの質問をします。答えはすべて、いいえと答えてください。必要な手続きなので、冷静に答えてください」
そういって、田沼にしたように明らかな正しいことと間違っていることがわかる質問をする。前置きの効果か、飯田が激昂するようことはなかった。
しかし、千尋は感じている。心の中のわずかな動きを。飯田の性格と貧乏揺すりであろう動きから苛立ちではないかと推測される。
米国の元・FBI捜査官のジョーは脚を見れば多くのことがわかると自らの著書で書き残していた。それを読んでから周りを見ると結構当たっていて驚いたものだ。
さて、ここからは事件の真相に迫る質問を混ぜていく。
「あなたは、被害者と顔見知りですか?」
「いいえ」
「被害者は男性ですか?」
「いいえ」
「飯田さん。あなたは、人を殺しましたか?」
「いいえ」
段々、脚の動きが激しくなってきた。シャツの首回りの換気を始め、首をさするなだめ行動も始める。相当、ストレスを感じているのだろうことが窺えた。
同時に心の方でも動揺と思しき感情の波を感じ取れている。
「あなたは、被害者をロープのような物で縛りましたか?」
「いいえ」
「あなたは、被害者を殴りましたか?」
「いいえっ」
「あなたは、被害者の首を両手で締めましたか?」
「いいえ!」
明らかに、感情が制御できなくなってきていた。声には強い怒りが含まれていて、焦りも感じられる。
飯田が感情を乱せば乱すほど、千尋は冷静になっていく。細目で軽蔑しそうになったのを自覚して止めることができるくらいには冷めていた。
「あなたは、被害者をその逞しい腕で殴り殺しましたか?」
「いいえ!」
ここで、一拍おく。飯田の落ち着きを待つのと、心の動きを察知するための準備のために。
「あなたは、被害者をナイフで刺しましたか?」
「……いいえ」
飯田は、声を殺し、深呼吸をしながら低い声で答えた。外から見れば諦観にも取れるだろう。だが、心を覗いている千尋にしてみれば、これ以上ないくらい感情が乱れていた。
「あなたは、被害者を憎んでいましたか?」
「いいえっ」
また、声を荒げ始めた。
「あなたは、誰かにその方法を教えてもらいましたか?」
「い、いいえ」
今までにない感情の動き。そして、一番大きい揺らぎ。
「そこまでだ」
そう言ったのは、権像だった。「人間嘘発見器」と呼ばれ、「人間ポリグラフ」と呼ばれる千尋が師匠と選んだ男。その男が制止した。
これから、真相に迫ろうとしたが、千尋は質問を断念せざるを得なかった。ごんぞうと呼ぶ者がいるくらいに働かない刑事を装っているが、誰よりも人間の本質を知っている。そう千尋は権像を評価していた。
「おつかれさまでした。検査は、これにて終了です」
「おれは、有罪なのか?」
「さあ。自分らは警察官であって、検察でも裁判官でもありませんのでわかりません、悪しからず」
「ふざけんなっ! そのポリグラフとやらにおれの心が読めるっていうのか! おれの人生をそんな機械が決めるって言うのか!」
言ってることは、ある意味正しい。人間は、あまりにこの機械に対して信用を置きすぎている。
「そうですよ。あなたの人生はこの検査結果で大きく変わるでしょう」
そう、脅してみせる。
「さぶ!」
権像の声が出るより早く飯田は千尋に掴みかかり、その飯田より早く槐が反応していた。
例の如く飯田は暴行未遂と公務執行妨害で現行犯逮捕される。
「一発くらい殴らせておけばよかったんだ」
いの一番に声を出しておきながら、権像はそう言った。
「そうですね。どうせなら、顎ががたがたになってしゃべれなくなるくらいのをもらっておきたかったですよ」
明良が絡んでいるかも知れない。それを思っただけで、千尋もまた自制を失ってしまう。そこを突かれているのだ。
槐は生瀬と飯田を留置場に連行していった。
ポリグラフの検査室には権像と千尋の二人きり。気まずい空気だ。
「おまえさんと、その狙われているかも知れない知人の関係はよく知らない。だが、いくら大事な存在だとしても容疑者に当たるな。どんな酷い犯罪者にだって、人格はあるんだ。それを否定してはいかん」
「意味がわかりません。犯罪を犯した段階で人格など守ってやる必要を感じません」
「そうか。じゃあ、聞くがその者が冤罪だったらどうする? 俺たちが威圧的に取調べた結果、嘘の自白をしてしまったとしたら。おまえさんは、そいつの人生を取り戻せるのか?」
そのときの権像は小さく見えた。まるで、怖がっている子どものように見える。これが、槐の言っていたことなのか。
槐は言った。
『オレたちは弱いから、一番可能性が高いやつとだけ戦う。オレは少なくとも自分の人間性が惜しいんだよ』
「権像巡査長。あなたは、人間を畏れているのですか? それとも自分の過去を悔やんでいるだけなんですか?」
「ふう。おまえさんは、本当に優秀だ。それ故に、危なっかしい。俺は、そうだよ、人間を畏れている。さらに、自分の過去も悔やんでいる」
「なにがあったんですか?」
「昔、俺は人の心が読めると有頂天になっていたことがある。そのときに、嘘を言っていないという直感で真犯人を容疑者から外した。そして、別のやつを真犯人だと断定した。そいつはな、ただ単に警察という組織が怖かっただけなんだ。三日後に、その容疑者としたやつの恋人が真犯人に殺された。それが衝撃で、冤罪の男は呪詛を血でしたためて独房で首を吊った」
まさに、嘘発見者が一番恐れている事態だ。千尋もそれを恐れていたからプロファイリングをしなかった。
「出来すぎた話に聞こえただろう。だが、これは本当のことだ。起きてしまった、いや起こしてしまった悲劇なんだ」
そういって、権像は懐から古い封筒を取り出す。その中にはどす黒いモノが染みている便箋が入っていた。文面を読むまでもなく無念と呪詛を伝えて来る紙だ。
権像もその紙面を開こうとはしなかった。開けなかったのか開かないのかはわからない。わかるのは、権像から表情がなくなっていることだけだ。
「そういうこった。先達の言うことは聞いておけ」
「……わかりました。一つだけ、いいですか?」
「なんだ?」
「自分には、冤罪を生まない取調べ、出来るでしょうか?」
「わからん。だが、今のまま放置したら確実に失敗するだろう。俺の悪いところばっかり真似してるからな。人間全部を敬えとはいわん。だが、畏れろ。畏怖の念を持って接しろ。最低限は配慮した方がいい」
「わかりました」
「おまえさんを、俺のようにはしない」
それだけ呟いて、権像は部屋を出て行ってしまった。
千尋は、混乱を隠せないまま部屋を片付けし、報告書を書きに刑事部屋に戻る。そこに権像の姿はなかった。なにかがもやもやしている。
また、千尋は豆腐メンタルに重いモノを乗せてしまった。
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