15.
「結局、田沼はある人物を恐れています。その人物が何者かは皆目見当つきませんが碌な人物ではないと思います」
「神崎、どうした? 今までのおまえさんらしくないぞ。罪を憎んで人を憎まずだ」
「権像巡査長こそどうしました? もうすぐで真犯人に手が届きそうなのに手段を選ぶなんて。しかも、容疑者相手に」
「容疑者は、疑われているだけだ。まだ犯人ではない。人権があるんだ。人格を壊すようなやり方は、断じて認めるわけにはいかない」
ふと、千尋は引っかかり覚えた。
「それは、経験ですか? 常識というやつですか?」
「……経験だ。やっちゃいかん。おまえさんの人生がおかしくなるぞ」
「わかりました、心に留めておきます」
師匠の経験から来る忠告に耳を貸さないわけにもいかないだろう。だが、千尋は手段を選ぶだけの余裕を持ち合わせていなかった。
「槐さん、次の容疑者はいつ来ますか?」
「明日だな」
「そうですか。では今日は、報告書を書いたら帰っていいですか?」
「ああ。おい神崎」
「なんですか? 槐さん」
「ろくさんの話は、聞いておけ。先達の忠告ならば余計にな」
「いやだなぁ、わかってますよ」
そういって、静かな笑みを顔で作って槐たちに背を向ける。その瞬間には無表情に戻っていた。
帰り道。一人夕刻の道を歩く。景色は、茜色に染まり暖かな雰囲気に包まれていた。
千尋は、どっと疲れが吹き出してきているのがわかる。こんな日は明良に会いたい。会って、一緒に眠れたらそれだけで世の中事もなしだ。
でも、それが許されない現状。せめて後藤田の目標が明良なのか、そこの確証だけでも欲しかった。
抱え込んでいる感情は、明良を失うことに対する恐怖と不安。明良がいないことによる孤独感。こんなにも商店街は暖かな色に包まれ、人々の喧噪に彩られているのに、自分はこんなにも独りだ。
明良に会いに行こうか。そんな順当なことを思ったが、今の自分はダメだ。明良を不安にさせ、無茶をさせかねない。
彼女は、割と無鉄砲に行動する傾向がある。特に、千尋がらみだとそのクセが顕著だと思う。それは、千尋もそうだからなんとなくわかる。通じてる気さえして嬉しい。
だからこそ、今回は明良に後藤田のことを伝え、家から一人で出ないように言いつけている。かなり不満そうだったが、それでも後藤田の名前には怯えを感じているようだった。
明良が、明確な標的なのかはっきりしてないが、そう思って行動してもらわねば困る状況だ。なので、千尋のメンタルケアはおざなりになっている。
明良の存在が欲しい。でも、ダメだ。今回はリスクが高すぎる。
疲れが両肩にのしかかってきていた。食事を作るなんてとても出来そうにない。そもそも食欲がなく、ひたすらにベッドにその身を放り出したかった。
コンビにエンスストアにも目もくれず、アパートの自室に歩を進める。明良のことだから、部屋に来ている可能性もゼロじゃない。
だが、今回は相手が後藤田ということもあってか、さすがに部屋はひっそりとしており、温度を失っていた。ほっとしたような残念なような複雑な気持ちになったが、それでいいのだと自分を叱りつける。
部屋に入ると、まずタバコで燻されたスーツを脱ぎ、消臭スプレーを申し訳程度に吹きかけた。シャツは、洗濯行きだし、しわになってもいい形態記憶のシャツだ。そんなことを考えながらベッドに欲求通りに身を放る。すぐに、意識は遠のいて、眠りに落ちた。
スーツにYシャツのままでなにもかけずに寝てしまったので寒気で目を覚ます。ぶるっと、身体が震えた。
「おお、さむっ」
何時間寝ただろう。薬も明良もなしで、こんなに眠れるとは。相当疲れているのだと自覚した。
携帯電話に手を伸ばして、時間を確認する。まだ、夜の一時だった。まだまだ眠れるだろうと、着替えようとしたときである。携帯電話が震えて東風からの着信を通知していた。
千尋は、一瞬迷う。でも、結局は恩師に不義理は出来ないと電話を取った。
「はい、神崎です」
「おー、この時間でも電話に出るのか。すごいね。警察官が板に付いてきたようだね」
「あの、用件はなんでしょうか? すごく疲れているので出来れば寝かせていただきたいのですが」
「あー、そうなの? 残念。今から飲みに行きたかったけど、さすがに時間が時間か。じゃあ、駅前の二四時間営業のカレー屋さんね。二〇分後に」
人の話を聞いてくださいよ。と、千尋が言いかけたときにはもう通話は終了していた。
すごく苛ついたが、この電話のおかげで眠気はすっかり吹っ飛んだ。今頃になって空腹も感じて来た。渋々、着替えて駅前に向かう。
外は、空気が冷たく春と呼ぶにはまだ少し時間がいるだろう。深夜であることもあって、町内は静まりかえっていた。
ふーっと、息を吐いてみる。白くなることを期待したが、そこまで気温が低くなくて白くはならなかった。
「残念」
ぼそりとこぼし、歩き始めた。
駅前に着いた頃には、時間は深夜の一時半。終電も終わり、駅は閉鎖されていた。もちろん、歩いている人影も少ない。
なのに、東風の指定した餃子カレーの店は学生、サラリーマン、ホスト、ホステスで席は埋まっていた。その中でも一際浮いて見えるのが東風である。職業不明、年齢不詳に見えるのだ。
しかし、美作市は大きな都市である。いろんな文化、出身地、身の上、職業。それらのごった煮である。浮いてる人間が居るくらいがこの街では通常運転だと思う。
「いやあ、相変わらず時間には正確だね!」
「おかげさまで」
「うんうん、良いことだと思うよ。実に美徳だ。これからも忘れないように」
「はい。……で、そんなことを言うためにここまで呼んだんですか?」
東風ならあり得るから困る。
「そう言わずに座りなよ。ぼくは、いつもの」
「すいません。ラーメン大盛りと美作セットの餃子追加で」
「やっぱりこの店のラーメンは最高だよ」
東風は、どこのラーメン屋よりここの学生食堂のようなチープな感じのするラーメンを好んだ。
「ラーメン屋の定食がうまいこともありますからね」
「なんていうか、童心に戻ることが出来るんだ」
「童心、ですか?」
「そう、小学校の給食から中高大学の学食まで続く、多くて安いのが正義という洗脳とも思える文化。あの中に立ち返ることが出来ているようで、ぼくはこの味を捨てることが出来ない」
「なんとなくわかりますが、なにもこの店じゃなくてもと思います。この店は、日本でも類をみない驚異のコラボレーションを果たし、その両方がそこそこ美味いのに、安い。こんな奇特な店はなかなかないでしょう。もはや、美作のソウルフードですよ」
会話していないようで、会話をしている。しかも双方言ってることがおかしい。まるで酔っぱらいの会話だと明良には言われた。でも、今日もまた二人は素面である。
周りの誰も二人の会話に関心を持たない。それが都会の流儀なんだと千尋は学んでいた。
「で、今日はどのようなお話ですか? 権像さんに言われて、注意をしにきましたか?」
「ん? なんかしたのかい? なんか自覚ありそうだけど」
「ええ、まあ、いろいろと」
「うーん、腹芸は苦手だから言っちゃうけど、ご名答だよ。権像先生に様子を見てきてくれと頼まれた」
いつゆでたのかわからないほど早くラーメンがやってきた。ご飯にかけるだけのカレーとそれに乗せただけの保温してある餃子も同時に来る。
東風は、本当に子どもっぽい笑みを浮かべて箸を取った。童心に返るというのはあながち誇張でも当てずっぽうでもないのかも知れない。
「ここまでご足労いただいて感謝です。恩を仇で返すようですが、オレは自分のやり方を変える気はないです。今回だけは」
「その不快と不機嫌のサイン。思い起こすだけでもムカツクって言う顔だ。相当、嫌なことが絡んでいる。とすると、あれの関係かな?」
東風は、ラーメンを見ていると思ったが、千尋の表情を解説してくれた。
「……ええ、そうです。隠しようもないので隠しませんが、あのときの犯人がまたこの街に居るんです。事件にも関わってる可能性が高い。あいつを二度と怖がらせたくはないんです」
「なるほど。君の想いは痛いほどよくわかるよ。特に、君の隠そうとしない表情群が雄弁に語っている。だけど、君の職場は縦割りで規則に縛られがちだ。あまり無茶をするとかばいきれなくなる」
「申し訳ありません。先生や権像さんに迷惑を掛けたくはないのですが、オレはオレの命よりあいつが大切なんです。あいつを守れるならなんだってしますよ」
「うん、君の覚悟はわかった。だけど、そんなに辛そうな顔をしてまで守ってもらわなきゃいけないほど、あの子はか弱いかい?」
「わかりません。でも、あいつは肝っ玉に見えて意外に繊細で、度胸はあるけど怖い物は嫌いで。たぶん、そこら辺の機微は先生よりわかっていると自負してます」
「うん、まあ、そうだろうね。そうじゃなきゃ困る。でも、程度の見極めは慎重にね」
「はい、気をつけます」
「カレー食べなよ。冷めるよ? それになにか食べなきゃ明日も働けないよ」
そう言った東風のラーメンはもう麺がなくなっていた。千尋は、気合いを込めて餃子カレーを口に運ぶ。明日も働くために。
「あーあ。自重するように言いに来たけど、あの子が絡んでるならどうしようもないね。きっと、権像先生に役立たずって言われるんだ。悲しくなってきた。すいませーん、ラーメン普通のもう一杯。悲しいときはラーメンだよね」
「よくわかりませんが、食べ物がすごいのは理解しました。胃袋を握れって言いますけど、オレは喜んで握られたいタイプです」
「はいはい、のろけはラーメンが不味くなるからいいよ。これだから正妻持ちは」
「先生にも素敵な奥さん居るでしょう?」
「ああ、彼女はよくできた奥さんだよ。遅くに生徒と食事しても嫌な顔一つしない。でもね、一つ欠点があってね。料理が上手いんだ、すごく。だけどねぼくはジャンクフードが好物なんだ。彼女の料理は愛情が込められていてその分だけ途中でお腹いっぱいになってしまうんだ。美味しいけどね」
「なんという贅沢ですか」
千尋は、明良の料理を自重しているというのに。でも、結婚したらそういうことになるのかも知れない。わからないけど、そこは経験しなくては結論は出ないだろう。
そのために明良は絶対守る。心に堅く誓った。
「うん、逆効果だったみたいだね。こればっかりは神さまでもどうにもできないし。ラーメン美味しい!」
その日は、ラーメンを満腹まで食べた東風が先に帰り、千尋は大盛りの餃子をもさもさと食べて家に帰った。
「あー。明良の飯食いたいなぁ」
そんなことを思いながら床についた。
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