10.

 一人、自分のアパートに向かって歩を進める。今日も繁華街から抜けるとすごく静かだ。千尋は、忌まわしきあの夜を連想し始めている。

 あの晩も、こんな風に静かな夜だったのだ。騒がしかったのは、自分たちのんきな高校生だけのような錯覚に陥りそうな夜。

 あのときは、まだ未成年でお酒を知らなかった時分だ。男子高生四人と女子高生二人の集まりだった。なんか、鍋をした記憶がある。なんの鍋だったかは記憶にない。

 ただ、集まった男どもはくずだったことだけは、どんなに考えても変わらなかった。

 最初は、明良の友達の女子高生が誘われた集まりであったが、明良も誘われる。彼女がどういう意図で明良を誘ったかは今ではわからない。恐怖だったのかも知れないし、容易だったからかも知れないし、道連れを探していたのかも知れない。

 千尋は、当時から器量良し、気っ風良しで明良自体の人気が高かったことが原因ではないかと思っている。

 だが、友達に誘われた明良は千尋も誘ってきた。なんかの勘だったの知れないし、ただの予防線だったのかも知れない。ただ、明良と千尋の仲の良さは学年中が知るほどに有名だったのだ。

 多くのものは、二人は付き合っていると信じていた。今の明良の両親がそうであるように。

 そのためか、千尋は閉塞的な人間関係しか持ちたくなかったのに、顔は無駄に広かった。そのため男たちも知己であり、鍋パーティに入っても違和感はない間柄だった。

 でも、多分、彼らと大して親しくもなかったとしても千尋は強引に参加しただろう。明良のお願いに逆らえない千尋は、その頃からもう完成をしていたからだ。

 そんな千尋にとって、納得いかなかったのは明良の態度である。千尋は明良とは腹を割って話せる間柄だと確信していた。

「あの、ね。ちょっと言いにくいんだけど……」

 歯切れの悪い明良を見て、まだまだ子どもだった千尋は逆にかちんときた。

「怒らないで聞いて欲しいの。もし、もしよ? ヒマだったらでいいんだけど……」

 そんな慎重で、他人行儀な明良の話し方がやけに癪に障ったのは覚えている。

「ヒマだったら、なんだよ」

「今度、三組の後藤田くんたちに友達の子が誘われたの。で、そっからわたしも誘われたの」

「行ってくればいいじゃないか。なんで、オレの許可を取るような真似するんだよ?」

「だから、怒らないで聞いて欲しいの。……あの、ね。あんたにも参加して欲しいんだけど。ダメ?」

 千尋は、正直驚いた。敵など人格的にも攻撃力的にもいなさそうな明良が、怯えっぽい態度を示していたからだ。

「ねえ、なんとか言ってくれてもいいでしょ」

「…………いいぞ」

「ホント?」

「ああ。というか、なんでそんなに慎重なんだ?」

「後藤田くんって、あんまりいい噂聞かないから。友達も半ば強引に誘い込まれたって、ちょっと怯えてるんだ」

「オレは行く。行くけど、女がおまえら二人ってわけでもないんだろう?」

「そのはずだけど、一応ね」

 細かい予定を聞いてその日は別れた。



 鍋の日。夕方に各自割り当てられた材料を買って、後藤田の借りてるアパートに集まる。

 始まりは、なにごともなく平穏であった。気になったのは、約束してた女子が軒並み欠席。明良とその友達の二人だけになっていたことぐらいだった。

 日は暮れて、夜。その日は、本当に静かで不気味なくらいだった。その静寂を味わいながら千尋は後藤田の部屋から誰も通らない路地を見つめていた。

「おい、神崎」

「ん?」

 後藤田が、始まって二時間、初めて話しかけてきた。

「つまらないのか?」

「なんで?」

「顔がつまらないと雄弁に語ってるぞ」

 そこで、はっとした。千尋は、表情を作り忘れていた。まだ、当時はそういうことに慣れていなかったのだ。

「そんなことないぞ」

 千尋は、微笑を浮かべた。

「そっか。大多さん、いいよな」

「そうか?」

「今日の鍋めっちゃうまかっただろ」

「そうか?」

 明良の飯を食べ慣れている千尋にとってもはや日常の一部になっていた。

「かー、これだから正妻持ちは」

 そういって、後藤田は千尋をうらやんで、また宴会の輪に戻っていった。

「正妻ね」

 独りごちる。譲る気もないがしがみつく気もなかった。それが、明良と自分の関係だと思っていたからだ。

 ある意味、その関係の上にあぐらをかいていた。なんの保証も証拠もないのに、である。若さの特権でもあったが、幼い関係でもあった。

「おーい、神崎。飲み物買いに行ってくれないか?」

「いいけど、なんで人選オレ?」

「一番ヒマそうだからだよ」

 ちらりと、明良を見る。今、思い起こせば不安以外のなにものでもない表情だったが、当時はパシリの同情のような苦笑に感じられた。

「わかった。十七茶でいいな?」

「俺、ジュース!」

「あ、おれ、ポテチ食いたい!」

「私も!」

 次々と声があがり、とうとう明良の友達にもリクエストされる羽目になった。重い腰を上げる、千尋。面倒くさいという気持ち以外そのときは感じていなかった。

 コンビニは、歩いて五分のところにある。足早に歩を進めて、入店。ポテチの味で悩んだが、人のお遣いでなぜに自分が悩む必要があるのか。そういう結論になり、塩食え塩、となった。他のリクエストも同様に適当に見つくろって精算する。

 そのとき、今でも忘れない。八時五七分だった。

「ほい、買ってきたぞ」

 後藤田の部屋に戻る。特に期待はしてなかったが、感謝の声はまばらだった。

 ただ、コップに注がれていた十七茶は一番最初に回ってきたので、口を付ける。あまり多くは飲まずに置いておいた。

 時間は進み、十時近くになる。

 「遅くなってきたから、もう帰ろう」、と明良に提案しようとしたときだった。千尋は、自分の口が重くなっていることに気付く。身体も反応が鈍く、意識も軽く朦朧としてきた。

 これは自分だけかと思って、視線だけなんとか動かしたら明良の友達は無防備に眠っている。明良はその子の膝枕をしていたが、なんだか眠そうにしていた。

 でも、普段の凛とした姿は変わっていない。なにか、やばさを感じたが、意識が保たなくなった。まるで睡眠薬を飲んだようだ。

 抵抗をするが敵わない。そのまま、意識が遠のいていった。

 声が聞こえる。悲痛な声だ。千尋を呼ぶ声。

「――ひろ! や! ちひ、ろ!」

 声は遠く、なにか壁の向こうから呼ばれているみたいだ。

「へへへ、無駄だぜ。あいつは普通の二倍の睡眠導入剤で夢の国だからな」

 響く凜とした声にゲスとしか思えない男の声が混じる。意味はよくわからない。だが、不快だ。とにかく、神経を逆なでされる。

「ちひろ、たすけて! ちひろ!」

 そう、求めているのはこの声だ。だが、声音が悲痛で聞くに堪えない。

 少しずつだが、千尋の身体に意識が戻り始める。

「千尋ぉ!」

 なにかが、千尋の素足に触れた。

 そのときである。千尋の身体をささくれ立った感情が駆け抜けた。感じたことのない波形だ。だが、本能でこれが恐怖であることは感じていた。

 そのとき、意識は完全に覚醒する。

 状況は、明良が男二人に犯されそうになっていた。その腕だけが千尋の足首をがっちり掴んでいる。最後の抵抗なのだろう、千尋の足首からは血が出ていた。

 だが、その痛みは感じていない。感じているのは、明良の底知れない恐怖の情動だけ。

 千尋は、明良の手首を掴んで少しでも引っ張ろうとする。だが、身体に力が入らず千尋の方が明良の方に座ったままつんのめる形になった。

 結果的に、それだけで充分な効果があった。明良に馬乗りになって服に手をかけた男に体当たりをかまし、明良には起きたことを知らせることが出来たからだ。

 明良の手からまた違う感情の波を感じ取れる。半まなこのまま、じっと明良の目を見つめた。明良は、まだなにも片付いていないのに救われたような顔をしている。

 体当たりをされた男と千尋は同時に立ち上がった。千尋は、まだ身体に力が入らずふらふらしている。それでも、千尋が起きてきたことを驚いていた。

「嘘だろ。念入りに薬強くしたのに……」

 明良がなにをされそうになっていたか、自分が今どんな感情を抱いているか、もろもろを判断する前に千尋の手は拳を作っていた。

 千尋は、とりあえず目の前の男に逆に馬乗りになって、驚き、怯えているその顔に容赦なく拳を振り下ろす。

 一発、二発、三発。それは容赦のない攻撃だった。自身の力が睡眠導入剤のせいで制御が利かないからだ。

 後藤田は、仲間が顔が変形するくらいのではないかという勢いで殴られているのを見て、木製の椅子を手にとった。それを千尋に振り下ろしてくる。

「てめえ、いい加減にしろ!」

 椅子の座面の角が、千尋の頭に当たった。ごつん、とすごい音がした。千尋は、横に倒れる。後藤田が、倒したかと椅子を片手に興奮気味に千尋に近づいてきた。

 千尋は目を閉じていない。すぐに後藤田を見る。それを認識した後藤田は、息を引きつらせた。千尋は、すぐに身体を起こし、後藤田に飛びかかる。

 頭からは流血していた。だが、今の千尋は微塵も考慮することはない。そもそも痛覚はある程度麻痺していた。

「てめえ、化け物か、こらぁ!」

「市販の薬は、たいがい効き目が弱い。最低五倍は盛るべきだったな」

 もうこのとき、千尋は自分の体質のせいで薬漬けの睡眠を送っていた。

 また、馬乗りになって後藤田の顔に拳を振り下ろす。

「やめて、千尋! やりすぎ! 死んじゃうよ! あんたが犯罪者になっちゃう!」

 何発か殴った後に、気がつけばその拳は明良に止められている。明良は、身体全部を使って千尋を抑えている状態だった。後藤田は、意識を失いぐったりとしている。

 もう一人、男がいたはずだが、そいつは部屋の中にはいなかった。玄関の扉が開いている。逃げたようだ。

 明良の友達は、半裸にされていたがまだ下着は身につけている。

 遠くから、パトカーのサイレンが聞こえてきた。きっと、騒ぎを聞きつけた近隣住民の通報があったのだろう。

 不思議と、そのときの明良の状態を覚えていない。ただ、深い恐怖と悲しみらしいものが右拳から伝わってきたことだけしか記憶していなかった。


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