09.
朝のやりとりの後、打ちのめされた気分のまま一日を過ごした。勤務時間が終わってアパートに戻る。無意識に明良を求めている自分に気付いた。
だが、部屋に戻っても人の気配がしない。買い物にでも行ったか、実家の店から抜けられないのか。
現実は時に酷である。部屋に戻った千尋に対し、無慈悲な書き置きがテーブルの上に置かれていた。
『今日は、帰れません。めんご。 明良』
そう書かれていた。この短い文章が千尋に与える衝撃は凄まじい。今、人生の中でピンポイントで明良がいて欲しい瞬間だったからだ。
しばし呆然として、正気に戻る。自分は、どうするべきか。大多屋に行って強引に会ってみるか。電話をしてみて声だけでも聞くか。でも、出来れば顔を合わせたい。
だが、この書き置きは情報が少なすぎる。そもそも店に行ってるかどうかもわからない。押しかけても怒られはしないだろう。しかし、居なくては意味がない。
千尋は、頭を抱えた。豆腐製の心はもう潰れかけている。
権像の真意が垣間見えたことによってわかった自分への期待。グレーゾーンな手法の行使を突きつけられたこと。権像の無価値という言葉。
千尋は、ものすごく落ち込んでいる。この状況を打破できるのは、明良の存在だけだった。我ながら情けないと思うが、自分の心を客観的に捉えたらそういう結論になる。いつもそうだ。
「つまりは、いつも情けないわけだ」
そう独りごちた。決して広いわけではない単身者向けのアパートの部屋がとても広く感じられる。自分のつぶやきさえ霧散して空間に溶けてしまった。
千尋は、着ているスーツを脱ぎ、シャワーを浴びる。あの職場は、喫煙率が高い。髪とかに一日居るだけで染み込んでくる。
お湯を被れば、なにかが流れていくかと思った。いくらか気分は軽くなったが、問題の根本的解消には至っていない。
大きく息を吸って細く長く吐く。なにかを決めるときにする呼吸法だ。
「よし!」
千尋は、気合いを入れる。そして、大多屋に食事に行くことを決めた。
私服のパーカーとジーンズという格好になる。ジーンズの裾を少し折って履いていた。これも明良に言われてやっている。おしゃれの一環なのだそうだ。
そういうものに疎い千尋は明良のそういう言葉を素直に聞いていた。それに、明良がそうした方がいいというなら、渋々を装いながら、内心割りと積極的にやっている。
外に出ると、まだ寒い風が吹き付けてきた。パーカーのポケットに手を突っ込み、背中を丸めて歩いていく。
途中、商店街があるのだが、そこで千尋の視界になにかが入った。一瞬なにかわからくて、視線を戻す。今度は、なにも目を惹かない。
だが、気になったのでもう一度辺りを見回す。すると、一人の坊主頭の男が目に付いた。その男は、短髪でヒゲをはやしているが、見間違うことのない相手。恐らく後藤田だ。後藤田とは、昔明良に乱暴しようとして千尋にぼこぼこにされた男である。
未遂だったが、それでも明良の心に大きな傷跡を残した。今でも、明良が男が怖いのはやつのせいなのだ。
なぜ、あの男がこの街に戻ってきているのか理解したくもないが、心の隅にとめておくことにした。それだけで、心がざわつく。短絡的にぶち切れない自分を褒めてやりたいくらいだ。
大きく深呼吸して、怒りを身体の外に追い出す。どうしても明良のことになると感情の制御が効かなくて困りものだ。それでも、今はあの男が近隣にいることを明良に知られないようにしなくてはいけない。
大多屋に近づくと、店の中にちらほらとサラリーマンやOLたちが入っていく。みんなスーツ姿なので自分が異様に浮いてる気がした。
店の前まで来ると、「本日、貸し切り」という見たことのない札がかかっている。その札自体きれいで真新しい。
また一人、サラリーマンが入っていく。そのとき、上手い具合に明良が出迎えに来て千尋を見つけてくれた。口はサラリーマンを歓迎しながら、目は千尋に裏へ回れと語りかけてきている。その後すぐに満面の笑顔で接客。すごく器用だと思った。千尋には出来ない芸当だ。
裏の勝手口に向かいながら、千尋は自分の頬をつねってみたり、笑顔を作ったりしてみた。どっちもなんの効果もない。非常な虚しさを覚えただけだ。
「なにやってるのよ?」
明良が勝手口に立っていた。
「いや、別に」
「なに? なんかあったの?」
「いや、特に」
「嘘でしょうに」
明良はため息混じりに断言した。
「あんたは、本当に豆腐メンタルは相変わらずなのね。ほら、はいんなさい。なんか作ってあげるから」
「飯食えば元気になる理論は相変わらずだな」
「そうよ、当たってるでしょ? 心理学者さん」
千尋は、決して口に出来なかったが、明良の作ったものだからこそなのだ。
「看板娘が居なくて、店の方いいのか?」
「大丈夫。元看板娘の方がお客には受けがいいのよ」
「なんとなーく、わかるわ」
「それはそれで、むかつくけど、まあいいでしょう」
「おまえがダメだなんて言ってないぞ。自意識過剰なのか?」
「ほっほう。今日の晩ご飯はニンジンの唐辛子炒めがいいのね?」
「なんでだよ。フォローしただろ」
素直になりきれないせいで、暗澹たる気持ちを抱くはめになるとは。
「わかってる。あんたの言いたいことはわかってるよ」
「じゃあ、ニンジンと唐辛子は抜きな」
「そうね。考えておくわ。とりあえず、部屋に行ってて。もうすぐ宴会始まるから」
「あいよ」
店の喧噪が、居住部にも漏れ出てきている。騒がしいのは苦手だ。だが、楽しそうな雰囲気は嫌いではない。
「ねーちゃん、美人だね」
誰か男が明良に声をかけていた。それはオレんだ。そんな勝手なことを思いながら明良の部屋に向かう。
明良の部屋は簡素だ。寝起きは千尋のところですることが多いが、同棲というわけではない。こちらにも質素だが生活感がある。
この部屋に来た回数などとうに忘れた。だが、女の子の部屋に入ったという実感や嬉しさ、落ち着かない感じといったものらは感じたことがない。
現に今も、部屋の真ん中に置かれたちゃぶ台の一角に座り、本棚から勝手に取り出したアルバムを見ている。小さい頃からのアルバムだ。中には、小さい明良が写ってる。もちろん、千尋も登場していた。
「本当に表情に乏しいやつだ。きっと、気味悪かっただろうな」
自分の能面の様な顔を見てそうごちる。
ぺらぺらとページをめくっていくと、段々と千尋と明良のツーショットが多くなってきた。徐々に、明良の周りから人がいなくなって、千尋と一緒か一人が多くなっている。
このアルバムを見たのは、今日が初めてではない。初めて、その事実に気付いたときは衝撃的だった。明良は、友達が多いとばかり思っていたからだ。
「はいよ、お待たせ」
お盆に定食を乗せた明良が部屋に戻ってきた。
「母ちゃん、飯遅いよ」
「わたしは、あんたの嫁か!?」
痛烈な突っ込み。痛烈すぎて、泣けてくるぐらいだ。ダメージを負った千尋には辛い一撃だった。
「って、あんたまたアルバム見てたの?」
山盛りの唐揚げをちゃぶ台の真ん中に置く。
「ああ。ずいぶん愛想のない子どもだったなと思った」
「それは、仕方ないじゃない。あんたのせいじゃないんだから」
「そうなんだが。……オレは、おまえから多くのモノを奪ってやしないかって思うときがある」
「ぷ、なにそれ」
鼻で笑う明良。
「あんたこそ、自意識過剰なんじゃないの? わたしは、自分の人生自分で選んでるわけだからあんたにそんな心配されなくても大丈夫よ」
「そうか? でも、例え杞憂だとしてもオレはおまえを心配したい」
「はいはい、お気持ちだけもらっておくわ」
明良は、この手の話を真面目にしたがらない。結論が結婚とかに直結するからだ。だから、普段は千尋もしない。でも、今日は後藤田を見て、不安定になっているのだと思う。明良は、自分が守ると強く思い続けてきたせいもあるだろう。
「冷めちゃうから、早く食べなよ。今日の唐揚げは、題して世界の明良ちゃんスペシャルです」
「塩辛いのか?」
「唐揚げ」で「世界の」と聞くと、ついよだれが出てきてしまう。
「ううん、全然。どっちかというとザンギに近いかな」
ザンギとは、美作の方にある唐揚げの一種で、その違いは未だ議論が尽きていない。それでも、大多家のザンギは醤油だれにつけた濃厚な味わいのからっとして肉感溢れる逸品なのだ。店で売ってる唐揚げともまたちょっと違う。
これは、千尋の好物である。そのため、いつものとわかるとさらに口の中が湿りだした。
「んじゃ、いっただきまーす」
まずは、味噌汁を一口。これも美味い。味噌汁は自分の家の物より大多家の味の方に馴染んでいる。
続いて、ザンギを一つ箸で取って口に放り込んだ。それに合わせて白米を続ける。
「くぅ、幸せの味がする」
「なにそれ。今日のあんたおかしいね」
お盆を立てて、その向こうに隠れるようにして笑う慎み深い明良もいい。
「そうかもな。今日はオレおかしいや」
顔は無表情でも、言葉が弾む。
「ふふふ、今日のはどう?」
「うん、いつもより美味く感じる」
「へへーん、それ、わたしのオリジナルブレンドだれに漬けたんだよ」
「そうなのか? さすがだな」
「あんたのために作ったんだから、感謝しなさいよ?」
「え、あ、う。……してる」
「まあ、無理にとは言わないけどさ」
「感謝! してる。いつもありがとう、な」
「え、ああ、うん。どういたしまして?」
お互い、千尋はお礼をほとんど言わないし、明良も言われたこともないから顔を合わせておかしな間合いになった。
「あんた、今日はホントにどうしたの? わたしが居なくても店に来ることなんか滅多になかったのに」
「ん。仕事で悩みが出来た」
「どんな悩み?」
千尋は、ザンギを口に入れてゆっくり咀嚼して間を取った。話すかどうか迷っている。悩み自体は変わっていないが、心はかなり軽くなっていた。
「グレーゾーンの話。今日、上司に挑発されてついやりそうになった。必要だとも言われたが、同時に出来ないオレは無価値だとも言われた」
「それで? 誰か困ったの?」
「今のところは誰も。強いて言うならオレぐらいだ」
「じゃあ、いいじゃん」
「そんな軽く言うなよ」
「なんで? あんたは、なにしに行ってるの? 警察官でしょ? 正義ごっこをしに行ってるわけじゃない。本分をまっとう出来ているんだからいいんじゃないの?」
どこまでも、真っ直ぐな瞳と真剣な面持ち。そして、思いやりの籠もった言葉。それらのどれもが千尋を癒してくれる。
「そうだな。そうなのかも知れない」
自分の果たすべき使命を考えたら、自分の正義は我慢しなくてはいけないのかも知れない。だが。
「納得はしてないという顔ね」
「よくわかるな」
「わかるよ、あんたのことだもん」
「今日は、おまえも変だな」
「そうかもね。でもね、千尋。あんたのその有り余る正義感はしまっておいた方がいいと思う。そうしないと傷つく一方じゃないかな。そんなあんたを見てるのは正直辛いよ」
このわずか四日間で確かに千尋が肩肘張れる場所じゃないし、張れば傷つくだろうことは理解出来た。
なにより、明良が我がことのように辛さを感じていてくれている。それは、千尋も望んでいない。
「わかった。馴染めるように頑張る。おまえが辛いのはオレも辛い」
「うん。でも、あんたがどうしても嫌なら辞めるのも一つの選択肢だと思う。わたしはそれを否定しないよ。あんたに無理されて倒れられるのはもう勘弁だからね」
「ああ」
味方がいる。しかも明良だ。これ以上なんていない。負ける気がしなかった。
「おかしいついでに一つだけ言っとくからね。あんたは、人間だから。ポリグラフなんていう機械なんかじゃない。あんたが無価値なんていう言葉、わたしは認めない」
きっ、と強い視線で千尋を見る。その視線には断固たる想いが含まれているようだった。
「明良……」
ありがとうと言いたかったが、喉が想いで詰まって言葉にならない。少し泣きそうにもなった。
二人の間にわずかだが、甘い雰囲気が漂う。今ならありがとうが言えるかも知れない、そう思った。だけど、その空気は下から母親の明良を呼ぶ声で壊れる。ザンギ風味だったせいか、ちょっとしょっぱかった。
「はーい、今行くー。じゃあ、残さず食べなさいよ? 終わったら声かけてね」
「ああ」
明良が軋む階段を下りながら行ってしまった。それを確認したら、顔が急に熱くなり出す。あまりにも恥ずかしかったからだ。
今日は、本当におかしい。こんなこと、普段は言えないし言わないようにしていた。それが明良のためになることも多いと独善的に考えていたからだ。
「今日のは、いいのかな?」
恐る恐る自己確認。たぶん、大丈夫だ。
また一つ、ザンギを一つ口に入れる。いつもならば、味は変わらないのに一人だとなんか虚しくなることが多いのに、今日は平気だ。
下の喧噪のせいか、はたまた明良の千尋のための味付けのおかげか。はっきりはしないけれど、最後まで美味かった。
食事終了後、少しお腹を落ち着けてから、明良に声をかける。本当なら明良と帰りたかったが、今日は遅くなるとのことだった。
重たいお腹を抱えながら、千尋は静かな夜に進み出ていく。後藤田のことを思い出しながら。
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