08.
次の日、千尋は携帯電話の着信で起こされる。サブディスプレイには、知らない電話番号が通知されていた。
「はい、神崎です」
『権像だ』
「おはようございます」
『おう、おはよう。まだちぃーっと早いが出勤してくれねえか』
千尋は時計を見る。まだ、朝の五時前だ。全然「ちぃーっと」ではない。だが、答えの選択肢に否定の答えはないのだ。それが、警察官という仕事であると考えていた。
「わかりました。すぐに行きます」
『いい返事だ。一五分な』
そう言って電話を切られた。このやりとりは東風とのやりとりもそうなので、慣れたものだ。
「あの人たち本当に師弟なんだな」
思わずつぶやく。
一緒に寝ていたはずの明良はその魅力的な大きな目をぱっちりと開け千尋を見つめていた。
「そういうわけだから、出勤してくるわ」
「うん」
「早くに起こして悪いな」
「ううん」
「寝直していいぞ」
「うん、好きにするから早く行きなさいよ。一五分なんでしょ?」
「おう」
そう答えながら、もうスエットの上下を脱ぎ捨ててスーツのパンツとYシャツに袖を通していた。ネクタイと上着を持って玄関へ。玄関脇に置いてある歯磨きガムを口に放り込んで家を出る。
「いってらっふぁーい」
寝ぼけまなこの明良が見送ってくれる。
「よし、後一一分。タクシー拾えば間に合うはず」
大きな通りに走っていってタクシーを拾う。
「美里署まで」
「お急ぎですか?」
「出来るだけ。合法的にお願いします」
車内でネクタイを締める。バックミラーに写る自分は寝癖の酷い頭をしていた。それも、慌てて撫でつける。
「お客さん、刑事さんですか?」
「え? んー、ちょっと違います」
いきなり話しかけられたので驚いた。運転手は、気弱そうな女性運転手である。見た目も声もかなり中性的で、前に付いてる名札を見て女性だとわかったのだった。
「朝早いですね」
「運転手さんこそ」
「そ、そうですね。それにしても、こんなとき美里区は地下鉄も鉄道も走ってないから不便ですよね」
「まあ、地元だから慣れましたよ」
「あ、そうなんですね。私もここの出身なんで、ここを中心に回ってます。割りと、稼ぎになりますし、道は熟知していますし」
そんな話をしている内に、タクシーは美里署に着く。
「いってらっしゃい」
「ありがとう」
署では、早朝にも関わらず夜勤組が仕事に勤しんでいた。目が合った人たちには会釈しながら刑事課に転がるように駆け込んだ。そこには、誰もいなかった。取調室の扉が開いている。そこには、権像と知らない男が向かい合って座っていた。
「おはようございます」
千尋は恐る恐る権像に挨拶した。
「おう。本当に一五分で来るとはな。東風もいっぱしになってきたということか」
「あの、感慨深いところ申し訳無いのですが、自分はなにをするために呼ばれたのでしょう?」
権像は、座っていた椅子を千尋に譲り、座れと目で促す。
千尋は、再び実践の時が来たかと固唾を飲み込んだ。この前のような無様な取り調べはできないと息巻く。しかし、二度目の実戦だが、まだまだ緊張が解けない。
取調べを受ける、いわゆる被疑者は泥のような目をしている。なんとなく、言葉が通じなさそうな感じを受けて怯む千尋。でも、負けじと権像の座っていた椅子に腰掛ける。
すると、お酒を飲んだ人間特有の酔っぱらってるにおいが鼻を突いた。それだけで、事情が読みとれるというものだ。
「それで、権像巡査長。この方は、なにをしたのですか?」
「穂澄野帰りにタクシーの運ちゃんと喧嘩して乗り逃げしたそうだ。名前、素性、なにも聞いていない。そこからやってみろ」
「はい……」
穂澄野とは美作市一の繁華街であり、国内で見ても五大繁華街の一つである。酒、女遊び、男遊びはもちろんのこと、さらには薬物犯罪や暴力団の資金稼ぎの温床にもなっている。
「どうした?」
権像にせっつかれた。頭の中に入れたつもりのマニュアルがのりで閉じたかのように開かない。緊張でどこから始めたらいいのか見当がつかなかった。
いつもなら、ここで逃げるだろう。でも、今の千尋はそれが許される立場にない。とにかく、なんでもいいから言葉を探す。千尋は、その濁った目で斜め下を向いてる被疑者の男性に声をかけてみた。
「おはようございます。お名前をお聞きしても?」
「…………」
反応がなく、寝てるのか無視してるのかすらわからない。
「あの、起きてます?」
ぬたりと、斜め下を見ていた男の目が千尋の方に動く。胡乱な目。不気味な目だと思った。
それでもどういう認識がなされてるかわからないが、とりあえずこの男は起きているようだ。
「結構です。お名前は?」
男は、口を動かすのも面倒そうだった。
「お名前は?」
しつこく聞いていく千尋。相手が嫌になって口を割るまでしつこくいくつもりだった。
男は、また目の玉だけを動かし、権像の方に視線を投げる。千尋は、それに釣られて権像を見た。
「権像巡査長、そういえば、所持品は?」
「あるぞ」
この老獪、言われなかったら出す気がなかったようだ。言葉の端々に挑戦的なニュアンスが含まれている。頼らずにやれということだと千尋は理解した。
「一応、見せていただけますか?」
「ほらよ」
権像は、白いトレーを差し出した。腕時計、携帯電話、財布と小銭がきちんと並べられている。財布の中も見たが、穂澄野からこの近辺にタクシーで帰ってくるために必要な額が入っていなかった。他には、見たことのない錠剤がいくつか。白とピンクのものだ。
そこから、免許証を見つけ、写真と男を見比べた。問題なく、この男は免許証の人物と一致している。
「で、確認しますけど、お名前は?」
名前も押さえたが、千尋はそれでも男の口から確かめようとする。時間はかかるだろう。でも、千尋は相手の口からの言葉に重きを置いていた。自供が大事だと習ったからだ。
沈黙の時間が流れる。男は、相変わらず死んだような目をしてるし、千尋の表情も変わらない。ただ、時間だけが進んでいく。
それについて権像はなにも言ってこない。この方法が正解かどうかも不明だ。だから、指導が入るまでこの男と真摯に向き合うしかない。
千尋は辛抱強く男の言葉を待った。だが、男はまるで彫像のように身じろぎ一つしない。千尋の無表情も気味悪いが、この男の反応の鈍さも不気味である。
この沈黙の間、千尋は思考を巡らせていた。この男の無感情で表象の少なさは、アルコールのせいなのか、生まれつきなのか、もしくは後天的な病気のせいなのか。薬物の可能性だってある。合法非合法のどちらでも。そのどれであるかによって対応はがらりと変わる。
「昨日は、遅くまで飲んでいたんですか?」
なので、少し話を逸らし、探ることにした。
男の目は相変わらずなにも語らない。が、眉がわずかに寄って不快そうな表情を作った。
「なにか嫌なことでもあったんですか?」
表情に変化なし。
「それとも、こういう質問がお嫌いですか?」
いっそう眉間のしわが深くなる。
「そうですか。じゃあ、早く終わらせたいので、もうそろそろお名前聞かせていただけます?」
さらに変化なし。早くも打つ手がなくなった。このままでは、沈黙の持久戦を強いられるだけだ。
「そうですね。では、仮の話をしましょう。あなたは今、このような状況にあることを誰かに知られてはまずいと思ってますか?」
男の顔は反応しない。
困った。完全に行き詰まりだ。助けを求め権像の方を見る。だが、権像は涼しい顔でこちらを見ているだけだ。むしろ、千尋の窮状を楽しんですらいるようにも見える。
「あれを見せてみろ」
権像は、「あれ」と呼んだが、千尋はなんのことだかすぐにわかった。「あれ」は、千尋の体質に因るもので、千尋が不眠持ちなのも心理学や表情学を修めたのも「あれ」が原因である。
「あれ」とは、「人間ポリグラフ」とも呼ぶべきもので、相手の身体を流れる感情に因る電気的変化を感じとるというものだ。
「人間ポリグラフ」は体質だったので切り捨てることは出来ない。仕方なしに自分の身体のことなのだからと、制御できるように訓練をしてみた。すると、今では一種の超能力のレベルまで高められている。
この能力は確かに、表情などからなにも読み取れない今回のような状況ではものすごく便利だろうが、あまり行使はしたくない。
「ですが、取調べ中に触れてもいいものなんですか?」
「ダメだ」
慈悲の欠片もない無惨な言葉。
「だが、例外もある」
「例外?」
千尋の胸に嫌な感じが去来する。明良が言ったグレーゾーンのことだろう。もしくは、必要悪かも知れない。とにかく、ろくでもない方法のような気しかしない。
「相手から触ってくるか、触らないと危険なときは仕方がない。もしくは、いきなりはダメだが、相手の許可があればその限りではない」
やはり、ろくでもない。前者は挑発でもして暴れるのを待つとかそんなところだろう。そもそものんきに質問出来る状況にならない気がする。
だが、後者はどうなんだろうか。なにか、理由を絞り出して触れられれば可能だろう。しかし、権像は触るとなにかが起こると被疑者の目の前で言ってしまった。警戒されるのは、目に見えている。
おそらく、わざとハードルを上げるようなやり方をしているのだろう。千尋は試されているのだ。
被疑者は男。もし、自分が女であったなら容易に触れられたんじゃないのか? そう思った。
同時に明良のことも思い浮かんだ。自分が女なら明良にだって怖がられずに済んだかも知れない。でも、明良を助けられたのは自分が男だったからで、今こうした関係でも明良といられるのも男だからだと思う。
もやもやとした思いをなんとか、自分の中で押し込めて、現状の打破に思考を戻す。後では権像が自分を見ているのが手に取るようだ。しかも、興味深そうにかつ、にやけそうなのを必死に抑えてさえいるだろう。
「触ってもいいですか? 痛いことはありません」
とりあえずストレートに聞いてみた。男の眉間にまたしわが寄る。この反応に千尋は安心感を覚えた、これは、不快に思っているのは明らかだ。出来れば、能力は使いたくない。
力の行使は、完全にグレーゾーンというか、黒い行為だ。千尋は、その実行を当然のように躊躇った。
結局、手を伸ばそうとしてその手を引っ込める。
「おまえさんには荷が重かったか」
そう権像が言った。そこに、失望の念は感じられない。
それが、異様に悔しく感じる。まるで、子ども扱いを受けたようだ。未熟を怒られるでもなく、当然と受け入れられる。それがすごく屈辱だった。
さらに千尋は、子ども扱いされるのがなにより嫌いなのだ。
それで、かっとなる。恥辱と怒りがまぜこぜになった感情が千尋を動かした。
千尋はおもむろに立ち上がり、男の後に回り込んで立つ。男が身じろぎをした。初めて視線以外の反応を見せる。これは、権像に教わったパーソナルスペースへの侵入である。
「大丈夫ですか? 反応が薄いですけど、意識ありますか?」
わざとらしく揺さぶっていく。男は、少しずつ身体を動かすようになって来ていた。
「大丈夫そうですね。では、お聞きします。お名前は、斉藤和之さんでお間違いないですね?」
千尋は、たっぷりと緊張を強いてから、正面に戻り質問を始めた。
名前を口にされて、男の目は泳いだ。呼吸も浅くなってきている。なにかしら不都合がある反応である。この場合だと、名前の暴露が原因だろう。
「もう一度お聞きしますが、あなたはこの犯罪を隠したいんですか?」
恥ずかしげに目を伏せる。事実から目を背けたい証拠だ。
「なるほど。隠したいんですね?」
だが、千尋は断言する。男の片眉もわずかに反応した。
「あなたは、誰に伝わって欲しくないと思っていますか? 恋人、奥さん、お子さん、後は、ご友人、医者、仕事の上司……」
男は、わずか一瞬だったが目を見開いた。驚いたときの反応だ。
「仕事の上司、それって会社ですか?」
「……」
「そうですか、わかりました。なにを知られたくないんですか?」
「……」
「飲酒、酒癖、女性問題、隠している性格、仕事の失敗、薬、今回のトラブル、病気……」
「……」
「なるほど。薬物問題ですか。それと病気。なんの病気ですか? 身体のこと? 精神のこと? はい、最近眠れないんですか? 気分が落ち込んだりしますか? なるほど。落ち込みが激しいので合法ドラッグに手を出している状態ですか」
一度、心に隙を作ってしまうと、怒濤の勢いで相手の心の中を土足で行くが如く。それが、千尋の学んだ微表情学の究極的な一面なのだ。
「権像巡査長。以上です。彼は、今泥酔と薬物が決まりすぎて正常な精神状態にありません。なので、薬が切れるまで待って改めて取調べを行うべきかと。後は、その錠剤の成分を調べた方がいいと思います」
「わかった。そうするとしよう」
権像と千尋は二人で男を立たせて留置場まで連行した。
その後、刑事課には二人きりになる。
「権像巡査長、自分の能力の話は東風先生からですか?」
「そうだ。なぜ使わなかった? ふむ、グレーゾーンに立ち入る勇気がなかったといったところか」
権像もまたその微表情学を用いて人の心を覗き込む。しかも、千尋の何倍もの巧さで。
「権像巡査長。自分はあまり『あれ』を使いたくないんです。そうじゃなきゃ、東風先生を師事してないでしょう」
「そうかもな。だが、使えるならばどんどん使え。もしかしたら余罪を見つけられるかも知れないしな。防犯、それによって俺らがヒマになる。それが最高の警察官のあり方だと思わんか」
「見ていたでしょう? 『あれ』を使わなくてもこれだけ相手を丸裸にしてしまう。人権侵害と紙一重です。なのに『あれ』を使ったらこれ以上の踏み込みが可能になってしまう」
「ここに来るやつの多くは、疑われて然るべき奴らばかりだ。気にするな」
「自分は! 自分は……。『あれ』が嫌いです」
「おまえさんの好き嫌いは聞いちゃいない。使えなきゃおまえさんに価値はない」
「そんな。書類書きだって普通の相手の取調べとかも出来るようになります」
「それはな、俺とさぶで間に合っている。それにおまえさん『あれ』を使いこなしたいんだろ? 要は持て余してるわけだ。ここでならフルに発揮してくれてかまわないんだぞ」
確かに、千尋は『人間ポリグラフ』の能力によって人生がおかしくなっていた。睡眠を始め、他人との触れ合いや人間関係に重大な支障をきたしている。
人間と関わるのが怖いと言っても過言ではない。
「そんな能力を持っていたら人生おかしくなるのも無理はない。おまえさんはよく保っている方だと思う。だが、使え。使うことで制御できるようになるかも知れん。それにな。おまえさんの力は冤罪も見分けられるかも知れないんだぞ?」
ずるい言い方だ。だが、権像の口調にいつもの飄々としたものはなく、まるで言いたくないことを腹の底から引きずり出したような重々しさがあった。
「でも、読みました。一方的な質問による取調べは誘導的で証拠能力に劣ると」
「そうだな。それは、まだ能力に使われてるからだ。それを使いこなし、自供を取れるようになってみろ。それでこそ一流だ。俺の成れなかった一流の取調官だ」
権像のブラックな手法を使うのは、いいことだと思わない。でも彼が凄腕の取調官であることに対し、疑問を挟む余地はないと思っている。
だが、そう言った権像の顔に浮かんだ素の自嘲の表情にはなにも言えなかった。
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