07.
「なんか釈然としてないわね」
四日目を終えた千尋に明良が声をかける。
「そうか? 単に慣れないことの連続で疲れているだけさ」
「そう? ならいいんだけど」
千尋と同じ卓を囲みながらの夕食。ひょいと白米を口に運んだ。明良は育ちがいいわけでもないのに、所作の一つ一つがとてもきれいである。千尋は、そんな明良が羨ましくあり、同時に誇りに感じていた。
明良は、口ではわかっているように言っている。実際千尋の心の中などお見通しだろう。でも、千尋は激動であったと思えたがまだ四日目だし、他の刑事も同じ考えとは決まっていない。ただ、明良の言うとおり釈然としていないのだ。
この段階では、まだ口にするのも憚られるような気がしたので、なにも言わないことだけを決めていた。
「おいしい?」
「うん? 美味いぞ」
「本当に?」
「ああ、本当だ」
「味、感じてる?」
「もちろんだ」
「わたしが、調味料入れ忘れてるのに?」
そこで千尋は、はっとした。自分がなにを食べているか自覚がない。今の食卓になにが並んでどういう味か考えていなかった。
「……」
返す言葉がない。素材がどうのと誤魔化すことも考えたが、明良相手に嘘をついてもすぐにばれる。それに、これについての嘘は、明良に不誠実だ。こういう類の嘘はつきたくない相手なのである。
「なにがあったかとは、聞かないけど、大変だったらグチりなさいよ。聞くだけは聞いてあげるから」
「……すまん、助かる。でも、まだ大丈夫だ」
「そう?」
「ああ」
まだ大丈夫のはずだ。心の状態を正確に読み取り判断する訓練はずっと積んできた。だから、自分はまだ大丈夫のはずなのだ。
「で、どれの味付けを忘れたんだ?」
「え? そんな訳ないじゃない。ちょっとかまかけただけよ」
茫然自失とはこのことだ。
「オレってそんなに、おかしいか?」
「正直にいうとそこまででもないかな。でも、なんか揺らいでるから状態の確認をしたの」
本当に明良は実践心理学の才能に長けていると思う。少なくとも自分なんかよりはよっぽど精確で鋭い。ときには、急所を抉られたと感じるほどだ。
「昔の二の舞だけは勘弁だからね」
「わかってる」
高校のときの出来事を指しているのだと思う。明良を心配しすぎて倒れたことがあった。だけど、あのときはああなるべくしてなったのである。
今は、明良がいてくれるし、そう簡単に潰れたりはしない。心配してくれる人が居るというのはありがたいことだ。その人のためにも、潰れるわけにもいかない。一種の覚悟のようなモノだった。
「で、昨日お酒飲んだの?」
台所に置いてあったビール缶を見ての発言だろう。
「ああ」
「酔えた?」
「いいや」
「でしょうね」
なにかも見透かされているような感覚。これが嫌だと思う人間も多いだろう。実際千尋もあまり好きではない。だが、こと明良に読まれることには一種の喜びを感じていた。
つーかーというか、自分をわかってくれているという感覚が嬉しいのである。特に表情などから誤解されることの多い千尋にとってはかけがえのない存在だった。
「警察ってどんなイメージだ?」
こういう質問をすることで千尋の悩みがどんどんはっきりと浮かび上がるだろう。それでもこの質問はしておきたかった。
「うーん、そうね。悪い人を捕まえるために頑張る人たちの集まりかな?」
「そうか」
「でも。結構あくどい人とかもいたり、一筋縄ではいかないような雰囲気も感じるなぁ」
「なるほど。心当たりはある」
「特にあんたみたいなやつには辛い職場だと思う」
「オレみたいなやつ?」
「そう。まっすぐで単純で、正悪で物事を分けてしまう人間」
「貶されてるのか、オレ?」
「一応、褒めてもいるけど、貶してる方が大きいわね。だって、そうでしょ? 全部が利点ならなんら心配もいらないわけだから。警察という職場にいて二日でもうお酒に頼ってるとか明らかに馴染んでないし。悩みがありますって言ってるようなものでしょ」
ぐうの音も出ないほどにその通りだ。
「世の中、二元論では出来ていないと思う。だから、あんたはグレーゾーンを知るべき」
「そう、なのか」
「そうだよ。だけどね。グレーゾーンを知ることとグレーゾーンな手段を用いることは違う。知っていたら使わなくてはいけない決まりなんてない。そこはしっかり理解しておくべきだと思う」
あまりに的確すぎて千尋は返答が思いつかず、口をぱくぱくとさせて酸素を求める金魚のようになっていた。
「オレって、そんなに単純なのか?」
「複雑じゃない人間なんて赤ん坊のときくらいじゃない? わたしは、ずっと見てるからどこを見ればいいか知ってるだけよ」
「なあ、心理学やってみないか?」
「やらない。わたしは、あんただからわかってるつもり。他人には通用しないと思う。……自惚れかな?」
「いや、正しい自己診断だと思う」
嬉しい。こんなに嬉しいことはないのに、千尋の顔は笑顔を作れない。満面の笑顔はもちろんのこと、照れた笑いもはにかみさえも。
「気持ち悪い」
「はあ? なんかに当たったか?」
「いや、あんたが妙に嬉しそうだったから」
「酷くないか!?」
「あはは、冗談よ冗談。こんなことを言ったわたしが悪い」
「悪くはない。そこは、悪くない」
嬉しいし、ありがたい。でも、それを伝えるのはまだ出来ないのは、二人の関係を壊したくなかったからだ。それを考えると明良の発言はかなり際どい。
「なによ、珍しいじゃない」
「お互いさまだろ」
「そうね。あーあ、一本取り損ねた」
「どういう病気だ」
「あんたといるとなぜか、ぎゃふんと言わせたくなるのよね」
「一度、心療内科へ行け」
「今も行ってますー」
高校のとき以来、明良もクリニックに通っている。当時は考えられなかったが、今ならこうして冗談に出来るようになった。
「改めて、オレのために行ってきてくれ」
「いや、今でも一ヶ月に一回は行ってるし。っていうか、あんたのためとか意味わからないし」
「オレの心を抉りにくる加虐体質なんとかしてもらってこい、という意味だ」
「わかってるよ? だからこそ意味がわからないのよね。これがあんたとわたしの絆でしょ?」
ずるい言い方だ。これを否定することを千尋は絶対に出来はしない。それすら承知の上での言葉なのだ。
「その繋がりは茨で出来ていそうだ」
「血まみれになるといいよ…………一緒に、ね?」
明良の身体が震えている。まだ、完全には克服できていない。それは、明良の千尋への態度でわかる。
ときどき意地悪なことを言うのは、千尋を試そうとしているのだ。怖いから、どの程度なら突けるか試さないと不安で押し潰されてしまう。それが、彼女の傷の名残。名残と言うには、鮮明で生々しく痛々しいのだけれど。
「ああ。いいよ。おまえとなら我慢する」
「うん、ありがと」
二人は、また縋りあって眠る。
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