06.
「おはようございます」
「おう、おはよう」
千尋の出勤をいの一番に出迎えてくれたのは、タバコをふかしている槐だった。他の面子はまだ来ていない。それもそのはずで、千尋は普通の出勤時間より早く家を出た。
理由は、明良がいなかった上に酒を飲んだので眠りが浅く、早くに目が覚めてしまったからだ。
槐の早い出勤は少し意外な気がした。勤勉な刑事の印象は一昨日から変わらないが、なにかこう生瀬とは違った権像寄りの雰囲気も感じていたからだ。
「お早いんですね」
「そういうおまえこそ早いじゃないか。なにか、やり残した仕事でもあるのか?」
「いえ、与えられた仕事はこなしていると思います。槐巡査は仕事ですか?」
「こっちもノーだ。昨日は久方ぶりの非番だったんだが、あまりに暇すぎて早寝早起きをしたら、こうなったというわけだ」
やはり、権像に近い印象を持ってしまう。だが、それは侮りではなく切れる人物が自分を隠そうとする感じ。数多の出来事をのらりくらりと躱して致命打を放つ、そんな使い込まれた刀のような雰囲気だ。
「歳をとった気がして、気が滅入るぜ」
そういって、二本目のタバコに火をつけた。タバコをくわえたまま、なにか資料のようなものを読んでいる。
「それは、この前の三件の殺人の資料ですか?」
「ああ、そうだ。なんか見落としている気がするんだが、それがなにかがわからない。経験が足りん。歳をとらずに経験だけ積みたいぜ」
「なんていうか、槐巡査は仕事の鬼なんですね」
「ん? 鬼は、人に恐怖を与える連中だ。オレは、鬼を捕まえる方だ」
「すいません、例えが不適当でした」
「わかってる。今のはちょっとした意地悪だ。気にしないでくれ」
「はい」
こういうところも権像に似ていると思った。
今、千尋は考えている。権像のやり方についての是非を問おうかどうしようかを。一歩間違えば、先輩刑事のやり方を非難もしかねない質問だ。
それに、「是」と返ってきたときに受ける自分への衝撃についても考えている。もし、彼も正しいと言ったならば、警察の中では正義なのだろう。それは、千尋の正義とは違うものだ。
「あの、槐巡査」
だが、ここにいる理由の根本を為す問題だ。千尋は、清水の舞台から飛び降りた。
「その呼び方、なんとかならんか?」
「え?」
「なんか、その呼ばれ方は背中がむずかゆくなってくる。名前の呼び方は難しい問題だとは思うが、出来ればさん付けとかで手を打ってくれないか?」
「は、はい。了解しました槐さん」
「おう、ようやく一つすっきりしたぜ。で、なんだ? 聞きたいことがあるんだろう?」
槐は、もう書類を見ていなかった。千尋は槐の疲れた中年刑事の顔を見て、その相手はなぜか優しい目で千尋の目を真っ直ぐに見ている。あまりにも純粋で素直さを感じる目だった。それは、ちょっと怖いくらいだ。
その真っ直ぐすぎる目に千尋は負けた。質問が口から出てこない。黙って俯いてしまった。
「一昨日のことか?」
「え?」
「一昨日起きたことは、読んだ。おまえさんは、ろくさんの取調べを目の当たりにした。そこで、おまえさんの正義が揺らぐようなことが起きた。そんなところか?」
千尋は、あまりにも見てきたことのように正確に言われて言葉を失った。だが、この場合、沈黙が答えになってしまう。
「…………答えを言ってもいいか?」
槐の方は、その気遣いこそが答えのようなものだ。
「はい」
半ば絶望した気持ちに陥りながら、予測された未来を聞く。
「オレも、必要悪というものはあると思っている。容疑者の多くは、なんとかしてオレたちを騙して躱して罪から逃げようとする連中が多い。そんなやつら相手に正攻法だけではやっていけない。ときには、こちらもそれ相応の手を打つ必要がある。そう思っている」
槐は短くなったタバコを組んだ手に持っていた。親指が、外に出ていて上向きに見える。こういった人物は、自分の周囲に関心が高く、考え方に敏感で、観察が鋭い傾向があると習った。
確かに、槐は気を遣うことが出来、観察も鋭い。習った典型のような人物だと思う。その人物が自信を込めて発言しているのだ。必要悪は警察には必要なのだと認めざるを得ないのだろう。
「正義は結果正しいだけで、過程全てまで正しいとは限らない。そう思っている。だがな。それは、オレらが弱いからだとも思っている」
見えていた親指がその一瞬だけ隠れた。自信が揺らいだのだ。
「弱いんですか?」
「ああ。オレたちは犯罪者に勝たねばならない。だが、人間の嘘なんてそう簡単に見破れやしない。片っ端から疑っていたら、周りはみんな敵にしか見えなくなる。そんな状態になりたくないから、一番可能性が高いやつとだけ戦うのさ。オレは少なくとも自分の人間性が惜しいんだよ」
槐の手の中のタバコから灰がぽろりと落ちた。慌ててタバコをもみ消す。それで、この話は終わった。空気が変わったのでわかる。
千尋は、こんなにも屈強そうな槐さえも弱さと戦いながら刑事をやってるとは想像もつかなかった。もっと、華やかに犯人を逮捕し、鮮やかに自白をさせて、檜舞台で被害者の恨みを晴らす。そんな姿を想像していた。
槐のその姿は真逆である。しかし、千尋にはそれができるだろうか。自分を守る為に必要悪を行使できるのだろうか。そんな心不安しか浮かんでこなかった。
「おーっす。おはよう」
そこに、新聞片手に刑事課に入ってくる権像。新聞には、政治家と金の話が書かれていた見出しが見える。これが、競馬新聞とかだと絵に描いたようなダメ刑事ということになるのだろうが、権像はそういう連中とは違うようだ。
「おはようございます」
「お、もう来てたのか。てっきり音を上げると思っていた」
試すような言葉を投げかけてきた。昨日のフォローのことは気付いていないことになっている。なってはいるが、千尋が知っていることに気づいているのかまったく読み取れない。相変わらず飄々としているだけだ。
「大丈夫です。自分はまだやれます」
権像は、じっと千尋の顔を見つめた。その口の端に短い笑みを浮かべて、頷く。
「よし、俺はその言葉を信じる。今後も嘘にならないように励んでくれや」
「はい」
とりあえず、権像には強がったが、胃がぎゅっとなにかに握られたような重圧を感じている。「嘘にならないように」と言われた。つまり、今は表面上信じてもらえたが、この先の働きを期待されたのだ。
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