05.
その日の夕食は、チェーン店の弁当だった。
明良も毎日千尋のところへ来られるわけでもなく、このようなシンプルな一人暮らしの味方を頼らざるを得ないときもある。
それに明良の食事は確かに美味しいけど、ときどきジャンクな食べ物を食べたくなってしまう。両者のバランスは難しいが、今のところ上手くいっているはずだ。
とりあえず、弁当をレンジに放り込み、お任せで温めボタンを押した。
千尋は、昨日の昼間の権像のやり方に納得が行かない。確かにテレビの中では脅迫や誘惑、取引などが散見されるが、実際目の前で行われるとなんとも罪悪感が千尋を責め立ててくる。
千尋は滅多に飲まない酒を買ってきた。一番高いビールの五〇〇ミリリットルを一本だけ。普段飲まないのでビールの味についてはこだわりはないので適当だった。
千尋はそんなに強くないが、普通には飲める。明良はざるだ。親父さんの血を引いたのだろう。あの二人から見れば、千尋の飲酒など飲むなどという表現が烏滸がましく感じる。なめる程度というのが適正な表現だろう。
温め終わった弁当を食卓の上に置いた。隣には汗をかいたビール缶。空いた反対側のスペース。二人用を意識して買った少し大きめの食卓のなんと広大なことか。明良の食事と存在のありがたみをひしひしと感じる。
だけど、今日は一人の食事がありがたいとも思った。今日は、明良がいるとつまらないグチを聞かせてしまうだろうからだ。自分の中に溜まってしまうのはしょうがない。何日かかけて消化していくしかないのだ。
弁当をつまみにビール缶を開ける。おもむろに一口目を大きく煽った。音を立ててビールを胃袋に流し込む。空の胃袋に直接アルコールを入れるのは良くないと言われているが、この身体に悪い感じが最高だった。
それに、缶ビールは空けた直後の一口目が至高であり、後は消化試合といっても差し支えない。
「くぁ、美味い!」
千尋は、缶を置くと、弁当を開封した。カレー餃子弁当だ。カレーのスパイスの香りすら空腹の胃袋に沁みる。餃子にカレーを付けて食べた。
「くぅ、美味い!」
カレーと餃子の組み合わせを考えた人は、もはや天才と呼んで問題あるまい。これは、美作市を中心とした北のチェーン店のものだが、他のところに無いのが不思議なくらいだ。
それくらい、北の大地のソウルフードであると千尋は確信していた。
「かぁ、美味い!」
今度はカレーをご飯と一緒に口に運んだ。先ほどから同じ様な言葉しか発していないが、心底そのように感じている。
食べ物には、癒し効果があると感じていた。今日、感じた嫌な感じと不信感がどうでもよくなっていくような気がする。
本当は、どうでもよくなってはいけない。頭では理解している。でも、今は餃子カレーのことしか考えないようにしていた。
テレビをつけ、どうでもいいバラエティをBGMがわりに垂れ流す。ビールの残りに意識半分、テレビに半分という感じで、意識の焦点をぼかした。
なにも考えないという、ある種の悟り状態にトリップしかけている。最高に気持ちいい、ということすら考える余地のない状態が最高なのだ。
その境地に落ちる寸前だった。未だフィーチャーフォンである千尋の携帯電話が震えだす。明良かと思って出ようとしたら、サブ液晶には『東風教授』の文字。
ときおり、東風は千尋を突然呼び出すことがあった。今日もきっとそうなのだろうと思ったが、気分ではない。しかし、無視するわけにはいかない相手である。千尋は渋々電話を取った。
「はい、神崎です」
『東風だよ。今から出てこられるかい?』
「あの、明日も仕事なので……」
『場所は、えっとね。いつものところにしようか。三〇分以内ね』
東風は、聞く耳を持たず用件を言ってすぐに切った。
千尋は、呆れかえりながらどうするか考える。結局、行かないという選択肢を生み出せずにスプリングコートと解いたネクタイを片手に持って部屋を出た。
二五分後。千尋は律儀に穂澄野という美作市の大繁華街に到着。いつもの小洒落たバーの扉をくぐる。何回来ても店の雰囲気にとけ込める気がしない。
「やあ、ご苦労さん」
東風は、持っていたカクテルグラスを千尋に見せた。
「ほんと、つかれました」
「そう言わないで。ん? お酒臭いな。明良ちゃんと飲んでたのかい?」
だが、千尋の顔を見てすぐに自らの言葉を否定した。
「そっか。一人で飲んでたのか。明日は仕事じゃなかったのかい?」
聞いていないようで、聞いている。質の悪い性格だった。
「いえ、ビールを一本空けてただけですよ。もちろん仕事はあります」
「慣れた?」
「まだ三日目が終わっただけです。慣れられませんよ」
「仕事に関しては、そうだろうね。そうじゃなくて、ぼくが聞きたいのは権像先生の方だよ」
「そっちの方が難易度バカ高いですよ」
「そうか。そうだよな。ぼくもそうだった」
愚問だったといわんばかりの口調だった。
「というか、今でも慣れてないけどね。あはは」
「先生は、オレになにを期待してるんですか?」
「そう言わないで。権像先生の理解者を探すのがぼくのフィールドワークみたいなものなんだよ。後継者と言ってもいい」
「確かに、ライフワークにしてもいいくらい難しいことですね」
「そうだろ? 君には期待してるんだ」
からんと、カクテルの氷が音を立てた。千尋はなにも言えない。今日のやり方を鑑みたら自信が湧いてくる方が不思議だ。
「オレは、そんな器ではないですよ」
「そうかい? 本当にそうかい? 心の中に葛藤やもやっとしたものが芽生えてはいないかい? 迷いは肯定したいことの証拠だよ」
「…………本当にそうでしょうか? オレは、仕事だからやらねばならない。だけど、心の中では辞めたい気持ちしかない。そういう葛藤だってあると思います」
「そう思っている人間の顔じゃない。なにか惜しいと思っている顔だ。特に、権像先生の話になると微妙な表情をする。侮蔑とも笑みとも取れない表情だ」
「それは、冷笑なのでは?」
「うーん、あまり見たことのない表情なのは間違いない。それとまだ根拠があって、権像先生の話になると、若干前のめりになって、脚をぼくの方に向けた。なにか興味があって情報を欲しがっているように見える」
千尋は、
「オレは、なにを求めてるんでしょうね」
「さあ、それはわからない。でも、君はまだ権像先生を知りたいと思ってはいるように感じる。確かに、先生のやり方は良くないかもしれない。しかしながら、世の中に必要悪という言葉もある」
「必要悪ですか。オレには縁のないものと思っていましたが、そうでもないようですね」
「そうさ。ウェルカムトゥ大人の世界、なんちって」
「悪酔いしてますよ。先生はお酒が弱いのに早いピッチで飲むのは良くないと思います」
「むぅ。厳しいなぁ」
「じゃ、オレはここら辺で失礼します。明日も警察署に出勤しなくちゃいけないんで」
「そうか、まだやってみるかい。いいことだ」
バーの重い木製の扉に手を掛けて、千尋は振り向いた。
「権像さんには、先生からお礼を言っておいてください。神崎はなんとか前向きになったと」
「あれ、ばればれ?」
「だから、悪酔いしてますよって言ったじゃないですか。権像さんしか知らない情報がちらほら含まれてました」
「そっか。しくじったな。それとなくって頼まれていたのにな」
「大丈夫です。オレも酔ってましたから気づきませんでしたよ」
「良くできた生徒を持ってぼくは嬉しいよ。おやすみ~」
「はい、おやすみなさい」
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