第39話 終りの始り

「それはクトゥルー、その人でしょう。」


 その場には居なかった筈の声がして皆は一斉に振り向いた。綾野や岡本浩太には旧知の女性(?)だった。


「我が主であるところのクトゥルーその人の遺伝子を継承しているのというのですね、橘助教授は。」


 拝藤女史であった。綾野や浩太はその正体を知っているが新山教授や杉江統一などは未だアーカム財団の一員とでも思っている筈だった。


「仰る通りです、拝藤さん。拝藤さんでよろしかったですね。」


 クリストファーはあっさりと認めた。何かの意図が背後に隠されているかのように。


「橘助教授の身柄は渡していただけますでしょうね。」


「それは神父に伺ってみないことには。それより彼方は何故ここにいらっしゃったのですか。」


「それは彼らを守るためです。もう直ぐここにあなた方の言う神父が現れると感じたからです。」


「ナイ神父が?いいえ、私はそのようには聞いていません。この場は私が取り仕切るように言われていますから。」


「では事情が変わったのか、もともとそういうつもりであったものを彼方には伝えていなかっただけでしょうね。」


 クリストファーはナイ神父の普段の行動から今の拝藤女史の言葉が的を射ているように思えた。自分自身に自信が無かった。


「あなたは何を知っているのですか。」


「今言ったことがすべてですわ。あなた方の言う神父がここにもうすぐ現れるだけです。それが何を意味するのか、何の目的でここに現れるのかは私の知るところではありません。」


 綾野達の間に緊張感が走った。星の智慧派で言うところのナイ神父とはナイアルラトホテップその人のことだと言われているからだ。


 旧支配者の一員であり旧神たちとの戦いに敗れた後も封印もされず自由に振舞っているのはナイアルラトホテップただ一人である。その力は旧支配者の中で最大のものと同等といわれるほどの存在がなぜ封印されなかったのかは誰にも解けない謎として今日に至っている。旧神たちの意図は現在の人類には計り知れないものだった。


「僕達もそんな話は聞いていませんからクリストファーさん、彼方だけが知らされていなかった訳では無く、何らかの事情が変わったのか、それとももともと誰にも知らせずにここに現れるつもりだったのでしょう。」


 火野将兵にそう言われてもクリストファーの気は晴れなかった。ナイ神父は側近である自分にさえ隠し事が多すぎる。


 そんな話をしている最中だった。そう広くない部屋の室温が急に下がったような感覚がした。スクリーンを見るために暗幕を閉めてある薄暗い部屋が、それでも幾ばくかの明かりが漏れていたのだが、全く漆黒の闇に閉ざされたようだった。その闇が一塊となって恩田助教授の側に集束していった。それも人型に。


 ナイ神父、いやナイアルラトホテップが現れたのだった。


「神父、なぜここに。」


 思わずクリストファーが尋ねた。


「それは彼らに感謝の意を伝えるためなのだよ、クリストファー君。」


 ナイ神父は全く意に介していない風であった。もともとクリストファーなどの教団員を手足のように使うときは全くもって捨て駒としか思っていないような態度が見えるのだがクリストファー対しては多少ましではあった。火野や風間に対しては遠慮しているかのようにも見えた。ところが今日は今ここに参集している者の中で拝藤女史は別格として相手にしているのは綾野だけのように見受けられた。


「感謝の意、ですか。」


 半ばあきらめたような口調でクリストファーが呟く。ナイ神父の側近である、という自負はとうに失われていた。


「そうだ、感謝の意、という以外に適当な言葉が思い当たらない。私はここに今いるお前たちに本当に感謝しているのだ。」


 ナイ神父の言っている意味が理解できているものはその場にはいなかった。綾野祐介や岡本浩太はクトゥルーやツァトゥグアの封印が解かれない様に努力しただけで、それがナイ神父や星の智恵派に利しているとは到底思えない。それともナイ神父は旧支配者たちの封印が説かれないことを願っているとでも言うのであろうか。


「ナイ神父、初めてお目にかかります。綾野祐介といいます。ひとつだけ確認させていただけますか。あなたは、その。」


 丁寧に聞くことが必要なのかそうでないのか。よく判らないので多少丁寧に聞いてみようとした。本当ならば人間に敵するすべはない。


「そう言い難そうにしなくてもよい。聞こうとしていることは判っておる。我がナイアルラトホテップであるのかどうか、と言うのであろう。」


 周知の事実と認識しているかの様だが、本人に直接確認した人間は綾野が初めてであろう。


「そっ、そうです。そのとおりなのです。あなたが本当にナイアルラトホテップ、その人なのですか。」


 思い切って綾野は聞いてみた。ここにいたっては観念するしかない。拝藤女史がいる、とはいえ女史がいざとなったら人間の味方になってくれる保証はなかった。クトゥルーの封印を解くことが第一であり、ナイアルラトホテップに正面切って敵対する意思があるとも思えなかった。


「それについては、お前たちのいう意味ではそうであると言えるだろう。ただ、ナイアルラトホテップそのものだ、という訳でもない。多少複雑ではあるが大部分のところは正解だといってもいいだろう。」


 綾野たちは旧支配者の中でもほぼ最大の力をもっている、這い寄る混沌、無貌の神ともいわれるナイアルラトホテップ、その人と対峙することになった。


「そんな話は今あまり意味があるとは思えんがね。」


「確かにそうです。さっき私たちに感謝の意を表しに来たと仰いましたね。あれはどういう意味なのですか。」


 ナイ神父来訪の目的は先ほど本人の口からそう伝えられた。


「他意はないのだよ、そのまま受け取ってくれたまえ。君たちが今まで行った行為について全面的に感謝の意を表したい、と言っているのだ。」


 部屋にいるナイ神父を除く全員が神父の意図を理解していない状況だった。拝藤》女史でさえ同じだろう。


「私たちが行ってきたこと全て、といわれるのは例えばクトゥルーの封印を解くダゴン秘密教団の儀式を邪魔したり、ツァトゥグアの封印が現代では解けないことを発見したりしたこと全て、という意味でしょうか。」


「何度も同じことを言わすものではない、先ほどからそう言っておろうが。」


「それらが全てあなたの意に沿うこうだ、というのですね。理由を聞かせてはもらえませんかそれだけでは私たち凡人には何のことだかさっぱり。」


「感謝の意を表わしに来たからといって、何から何までお前たちの言うことを聞く必要はないのだがな、よかろう、お前たちの今までの業績と今後の更なる成果に期待してもう少し、語ってやろう。」


 そこに居る全ての者がナイ神父の言葉に聞き入っていた。話の展開が読めないからだった。


「まず最初にお前たちが我に対していだいているイメージは例えば這いよる混沌だとか、無貌の神だとかいうものらしいが、我の本来の姿はこの様な人間の姿ではないことは言うまでもないが、お前たちに認識しやすい言葉にすれば不定形の精神生命体とでもいうようなものである。そしてその使命はただひとつ、我が主、万物の王であるところのアザトースの封印を解きその本来のあるべき宇宙、時空といってもよいが、の形に戻すことだけなのだ。」


 それはよく知れ渡っていることだった。ナイアルラトホテップは万物の王である盲目にして痴愚の神アザトースの使者として理解されている。そのことと綾野達に感謝したい、ということが繋がないから聞いているのだ。


「だから必然的に我が感謝したい、ということは我が主であるアザトースの封印を解くことにお前たちが深く寄与してくれている、ということであろう、単純明解なことだ。」


「申し訳ありませんが、そこまで仰っていただいてもよく判らないのですが。」


「つまりだな、我が主アザトースの封印を解くには旧支配者たちの封印が解かれる寸前で失敗し、その旧支配者の無念が積み重なって一定量を越えなければならない、ということだ。」


 衝撃的だった。一同、誰からも声がなかった。クトゥルーの封印を解かれないように阻止する、それがそのままアザトースの封印を解く手伝いになっている、というのか。それでは封印が解かれないように奮闘していてもいずれ旧支配者たちの誰か、あるいはどれかの封印が解かれてしまうのだ。最悪全ての旧支配者の封印が解かれなかったとしても最後には王であるアザトースの封印が解かれることになってしまう。人間は、今後綾野達は一体どうすればいいのか。


「アザトースの封印はあとどれ位旧支配者の復活を阻止すれば解かれるのですか。」


「そこまでお前たちに教える義務はないな。まあ、これからも一心不乱に阻止し続けてくれたまえ。」


 それだけ言うとナイ神父はふっと消えてしまった。


 その場にはいつの間にか星の智慧派のクリストファーや火野、風間の姿も消えていた。拝藤女史の姿もない。残されたのは琵琶湖大学の関係者とアーカム財団の二人だけだった。


「私たちが今までやってきたことは何だったんだ。」


「でも綾野先生がなさったことは決して無駄なことではなかったと思いますわ。」


「ありがとう、マリア。でもこれからどうすればいいのだろう。」


「先生、今までどおり出来る事をやらなくちゃ仕方ないんじゃありませんか。」


「そうだな、それしかないのだろうな。今のナイ神父の発言は決して他に漏らさないように。マリア、財団にも報告するな。今後の活動に支障を来たす可能性が大きい。私たちはこれほど大きな矛盾を抱えながらこれから生きていかなければならないのか。」


 その問いに答えられる者は一人も居ないのだった。

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