第31話 大英博物館

 大英博物館には門外不出の稀覯書が数多く所蔵されている。クトゥルー関連の本もネクロノミコンを筆頭に閲覧さえ許されていないものも沢山眠っているのだ。


 橘良平はケンブリッヂ大学在学中に世話になったアルバート=ライン教授を訪ねた。彼は最近では現場を引退し執筆作業に勤しんでいるが、橘の在学中は生物学教授として高い地位と名声を得ていた。大英博物館の名誉学芸員でもあるライン教授の伝手を頼って、橘は大英博物館の奥深くに入り込むつもりだった。


 前もって連絡をした時にはライン教授は不在だったので、伝言だけを頼み、直接自宅へと訪ねた。留学中は週に一回は通った豪邸だった。


「お久しぶりです、ライン教授の教え子の橘ですが。」


 かなりの時間が経っているので、既にメイドの顔は知らなかった。怪訝そうな顔でメイドが言った。


「どちらの橘様でしょう。主からは今日、お客様がおみえになるとは承っておりません。主はお約束の無い方にはお会いいたしませんので、お引取りください。」


「ちょっと待ってください。先日お電話したときにはご不在でしたので今日訪ねることは伝言してあったのですが、聞いてもらってないですか。ケンブリッヂ大学で生物学を教えていただいていた橘良平です。教授に聞いていただければ直ぐに判ると思います。このお宅にもよくお招きいただきましたから。」


 メイドは怪訝そうな顔を更に曇らせたが、ライン教授に確認するから、ちょっと待って欲しい、と言い残し中へと入って行った。


 暫くして戻ってきたメイドの表情は、先程と全く変わっていなかった。


「主は橘などという生徒は知らないと申しております。早々にお引取りください。」


「そんな馬鹿な。教授に逢わせていただければ直ぐに判ります。取り次いでいただけませんか。」


「ですから、先程から申します通り主はお約束の無い方とはお逢いになりません。どうぞお引き取りください。」


 取り付くしまも無かった。仕方無しにロンドンの街の中心街へと戻る橘だった。ライン教授宅に泊めてもらうつもりで、ホテルを取っていなかったのだ。


「これでいいのだろう。」


 ライン教授は絵に描いたような典型的な不快の表情をあからさまに浮かべていた。相手に対して不快感を表すために態とそんな顔をしているのだ。


「結構です。今後とも含めてどのようなことであっても橘に助力をしていただかないようくれぐれもお願いします。さもないと。」


「判っておる。何度も言わずともよい。だが君の教団の指導者とやらは一体何がやりたいのだね。橘君とはどう関わっていると言うのだ。」


「それについてはお応えするわけにはいきません。教授はただ橘とは連絡を取れない、そのことだけ理解していただければ結構です。今後彼の消息をお知りになられることはないでしょう。」


「橘をどうするつもりだ。」


「彼にはちょっとやって欲しいことがあるだけです。心配なさらないでください。彼に危害を加えるつもりはありません。」


「もしその言葉を違えるようなことがあれば私にも考えがある。全力をもって君達の組織を壊滅させてみせるぞ。」


「そう興奮なされないで下さい。お体に障りますよ。」


「クリストファー君と言ったか。私は君のような小賢しい若者はどうも気に食わないのだ。その点、橘君は真面目で真摯な態度でいつも学術に取り組んでいた。彼のような地道な存在の積み重ねが天才のひらめきを超えることもある、と知るときがいずれ来るだろう。」


「肝に銘じておきましょう。」


 クリストファー=レイモスは橘良平の跡を追ったのだった。


 橘良平は途方に暮れていた。ホテルに戻ってはみたが、良い考えが浮かばない。とりあえず日本で待っている岡本浩太にロンドンについた旨のメールを入れた。


 その時、ドアホンのチァイムが鳴った。


「橘先生、少しお話があるのですが。」


 ここに来ていることを知っているのは日本で待っている岡本浩太と同時期にアメリカに飛んだ綾野祐介だけの筈だった。イギリスではライン教授のメイドにここに居る事を教授に伝えて欲しいと言付けただけだ。とするとライン教授の使いの者だろうか。だが、問いかけは日本語だった。


「どちら様ですか。」


「私はクリストファー=レイモスと言う星の智慧派の者です。あなたがこの国に来られた理由を知り、お力になれるのでは、と訪ねて参りました。」


 どう言う事だろう。橘がイギリスを訪れた理由を知るものはほんの数名の筈だ。星の智慧派とはいったいなんだろう。とりあえず橘は藁をも掴む気持ちでクリストファーを部屋へと招きいれたのだった。


「私どもは地球を守ることが全てに優先すると考えて行動することを主な理念としている団体なのです。」


「あの、宗教の勧誘に来られたのですか。」


「いえいえとんでもない。あなたが今直面しておられる問題について、お話をするために来たのです。」


「私が今直面している問題をご存知だと。」


 橘はヴーアミタドレス山の洞窟に人質にされている桂田利明を救い出すためツァトウグアとアブホースの封印を解く方法を探しに稀覯書が数多く所蔵されている大英博物館の奥深くに入館する許可を求めてライン教授を訪ねたのだ。


「大英博物館には我が教団に所属する者も学芸員として勤務しております。あなたのご希望に添えるのではないでしょうか。」


「本当ですか。それなら是非お願いします。ライン教授に会えなかったのでどうしようかと思っていたのです。でもなぜ私に協力をしていただけるのですか。」


 得体の知れない星の智慧派と名乗る青年の申し出は橘にとって渡りに船ではあったが、青年の目的がはっきりしない。なんのメリットがあるのだろう。


「先程も言いましたが私どもは地球を守ることが最大の使命だと思っております。旧支配者達が地球を滅ぼす存在ならば、封印をされているもの達を開放すべきではない、と考えているのです。けれど、人命には代えられない、とあなたや綾野さんは考えていらっしゃるのですね。」


「そうです。私には桂田君を救い出す使命があると思っています。ただそれによって地球が破滅の危機に陥ることになるかも知れない。その二つのジレンマについては、私も綾野先輩も解決できていないのです。ただ黙って悪戯に時を過ごすよりは、何らかの行動を起こせばそこに解決策が生まれるのでは、とここまでやってきたのです。」


「判っています。全て判ったうえでご協力を申し出ているのです。どうです、今から出かけませんか。」


 なぜ橘に協力してくれるのか、その答えは聞けないままだったが、橘は意を決してクリストファーの申し出を受けることにした。


 午後1時をまわったところだったので、今から大英博物館に向かっても充分時間はある筈だ。少しでも早く何らかの情報を掴んで帰国したかった橘はクリストファーと連れ立って博物館へと向かうのだった。


「ええ、判っています。橘はここに釘付けにしておきます。サイクラノーシュ・サーガは別ルートで綾野の手に入るように手配してありますから。」


「全ては順調のようだ。期待しているぞ。」


「ふぅ。」


 電話を切ってクリストファー=レイモスはため息を吐いた。星の智慧派の指導者であるナイ神父との会話は直接でなくてもかなり疲労感を感じる。生気を吸い取られるかのようだ。


 クリストファーはナイ神父の指令で大英博物館にツァトゥグアの封印を解く方法を探しに来た橘良平を一定期間拘束するために急遽渡英してきたのだった。神父によると橘と綾野祐介が日本で合流する時間を少しでも遅らせたいらしい。理由は聞かされていない。神父が質問を許さないからだ。クリストファーは多少|苛立ちを感じ始めている自分に驚いていたが、今のところナイ神父の指示には絶対的に従うつもりだった。


「クリストファーさん、あなたは何かを企んでいますね。」


 駆け引きを知らない橘良平は思ったことをそのまま口にした。クリストファーは協力すると言ってはいるが、稀覯書が所蔵されている部屋に通してくれただけで橘が四苦八苦して本の内容を確認しているのをただ黙って見ているだけだった。ラテン語にも堪能なクリストファーの協力があればかなりのペースで調査が進む筈だ。


「そんなつもりは無いのですが。」


「では何故手伝って下さらないのですか。」


「あなたに変な先入観を持って貰いたくないからです。あなた自身の感覚で探し出すことが最短の時間での成功に繋がると思っているからなのです。」


「それはどういう意味ですか。私に何らかの力が在るとでも。」


 橘はクリストファーが言い訳をしているか、本来の目的を隠すためにはぐらかしているとしか思えなかった。


「そうです。あなたは特別な力を授かったのです。それと元々お持ちになっていたものとの融合によってその力は相乗効果を得て飛躍的に高められている筈です。」


「授かった力?元々持っていた力ですか?」


「ツァトゥグアと例え短い時間であったとしても融合していたのですから、ツァトゥグアがあなたの記憶やあなたが見た情報を得たようにあなたがツァトゥグアの能力を一部でもその身体に得ていることは、可能性として否定できないでしょう。」


 俄かには信じられない話だ。何かの力を得たような自覚は無かった。橘は自分が人間とは最早呼べない物になってしまったと宣言されているようで多少腹が立った。


「それに私が元々持っていたものとはなんですか?」


 クリストファーは橘の元々持っているかもしれない力について説明を始めた。それはナイ神父からレクチャーを受けたものだった。


 橘家というのは日本における四つルーツの一つなのだそうだ。日本人は元を辿れば源平橘藤といって源氏、平家、橘家、藤原家のいずれかに集約される。橘家は当然そのものずばり橘家だった。特に橘良平の家は旧家であり実際に日本における神話の時代に当る神武天皇の時代にまでその家系を遡れるのだ。ただし、橘を名乗ったのは奈良時代の少し前ぐらいからではあるが。


 そして、その家計図の中に平安時代に数回、日本人ではないものとの婚姻があったことが記されている。このことについては橘良平も先日故人となってしまった祖父橘軍平から聞かされていた。『我が家系には謎がある』というのが口癖だったのだ。歴史が専門の橘軍平は自分の家系についてもかなり詳しく調べていた。


 橘良平は特に興味が無かったので真剣には聞いていなかったが、かなり古い時代の家系に不審な点があると祖父が言っていたのを思い出した。


「これはあなたの祖父である橘軍平教授のお宅から借りてきたものですが。」


 そういってクリストファーは様々な文書をテーブルの上に置いた。かなり古い物から最近書かれたようなメモ帳のようなものまで在った。


 そのあとクリストファーが橘良平に語ったことは、あくまで推論に過ぎないと前置きしてからではあったが証拠となる書面が整っていることもあり橘にとっては耐えがたく信じがたいことであった。


「それで橘は未だ英国に軟禁状態になっているのだな。」


「はい、精神的な打撃があまりにも大きかったのか、呆然としたまま唯々諾々と従っております。あの状態では外部に連絡を取ろうとはしないでしょう。念のため数人の見張りを交代で付けておきました。」


「結構。」


 クリストファー・レイモスはボストンにある星の智慧派の拠点においてイギリスでの首尾を指導者であるナイ神父に報告していた。


「次に君には再び日本に行ってもらいたい。アンチクトゥルー協会という名の組織に接触してあるデータを収集して欲しいのだ。」


「アンチクトゥルー協会ですか。」


「そうだ。一応汎人類的組織と名乗っているようだが、自分たちで思っているほどこの世界では知られていない組織だ。ただ資料収集やデータ収集には多少観るべきものがある。今回もツァトゥグアと融合した人間の組織を解析したデータを得ているはずなのだ。現在の最新の医療技術によってどんな推論がなされているのかを含めてそのあたりのデータを手段は選ばない、奪ってくるのだ。」


 相変わらずナイ神父は質問も意見も許さない。直ぐにクリストファーは日本に飛ぶのだった。

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