第30話 星の智慧派極東支部

 火野将兵は星の智慧派極東支部に在籍してからまだ十ケ月が経過しただけだった。年齢も二十歳を超えたばかりである。ナイ神父の直々の声掛かりで入信した火野を他の信者は多少いぶかしんで見ていた。過去そんな例は無かったからだ。ここ数ヶ月というもの、いままで一度も訪れたことさえなかった星の智慧派の指導者たるナイ神父が、極東支部の一信者の入信に関わるとは、極東支部長である新城敏彦には合点が行かなかった。新城でさえナイ神父と直接言葉を交わしたことは今まで一度しかなかったからだ。それも、自ら星の智慧派の本部を訪れたときにたまたま居合

わせたナイ神父にひとこと挨拶しただけだったのだ。


 ただ、先日のクトゥルーの復活の舞台が琵琶湖だったこともあり、今極東、特に日本は旧支配者に関わる者達にとって重要な位置を占めるようになっている。極東といえばすぐレン高原を思い浮かべる時代は終りつつあるのだ。


 旧支配者の封印を解こうとする勢力が日本で活発に活動し始めるのと連動して、それを阻止しようとするアーカム財団などの組織も日本に対して本腰を入れてきているのは、仕方ないこととは言え、煩わしいことである。


 新城としてはナイ神父の指示を直接受ける立場となった自分が誇らしかった。神父はクリストファーとかいう側近を連れて来ているので、何か内密に事を運ぼうとしている面もあるのだが、結局日本では自分に頼むしかないはずなのだ。


 ナイ神父の指示によって火野将兵と、また更にナイ神父が新たに連れて来た風間真知子という二十歳にもならない少女が帝都大学の名誉教授であり、クトゥルーの復活を阻止した張本人である綾野とかいう琵琶湖大学の講師の恩師である橘教授の元を訪れることになった。


「神父、なぜ私どもにお任せくださらないのですか。」


「お前は私の指示どおりに動いておればよい。それとも私の指示することに逆らうとでもいうのか。」


「いいえ、決してそんなことは。ただ、極東支部の責任者として多少なりとも私にもご指示の内容をお聞かせいただければと。」


「お前に話しても理解できないから話さないのだ。そんなことも判らないのならここの責任者は務まらないだろう。火野君に代わってもらうかね。」


 新城は冷や汗がでてきた。ナイ神父の機嫌を損ねれば人間として想像できる範囲を遥かに超える苦痛や恐怖を伴った制裁が待っている。ただ、新城も引き下がれないことがあった。


「その火野君のことなのですが、彼は一体何者なのですか。あの若さで神父のご意向を直接受ける立場にあるとは。」


「彼の者は火の民の末裔である。」


「そっ、それでは彼はスパイではないのですか。」


「そういうこともあろうな。」


「それがお判りになっておられて彼を使われるのですか。」


「黙って私の指示に従っておればよいのだ。彼に監視を付ける必要はないぞ。くれぐれも星の智慧派の一員として遇するのだ。それがわが意志である。」


 火野将兵が火の民の末裔だとすれば、ナイ神父にとって敵対関係にあるはずのクトゥグアの眷属である可能性が非常に高い。


 クトゥルーの復活を助けるようで、その失敗を予測し、今またクトゥグアに関わるものを配下として使おうとしている。新城にはナイ神父が何を成そうとしているのか、想像も付かなかった。


「君たちと会う約束をした覚えはないが。」


「そうでしょうね。僕も約束した覚えはありません。」


 若い男、更に若い少女とも言うべき女。二人が帝都大学名誉教授、橘軍平を訪ねた日は二日前から長雨が続いている、梅雨の真っ只中だった。


 外出していた橘を訪ねて、約束があるので待たせて欲しいと細君に無理を言って応接間に通った二人だった。細君は二人を橘の生徒と勘違いしたようだが、二人ともそんなことは一言も言わなかった。もっとも女のほうはこの家に着いてからまだ一言も発していない。


「どういうつもりなのだね。」


「心配しないで下さい。別に教授をどうこうしようと思っている訳ではないのです。ただ、少しお話ができればと。」


 男の名は火野将兵、女は風間真知子と名乗った。橘には二人が日本人にしか見えなかったが、微妙なイントネーションが、外国人が日本語をかなり勉強した様な風であり、純粋な日本語には聞こえなかった。


「綾野祐介さんというのは、教授の教え子ですよね。実は彼について我が教団は非常に興味を持っているのです。」


「我が教団?君たちは一体どんな教団に所属しているというのかね。」


「私達は星の智慧派として知られている教団に所属するものです。」


「星の智慧派だと。それが本当ならすぐに帰ってくれたまえ。君たちに話すことなど何もない。君のような若い者があのような教団に関わっているとは、到底信じられんがね。」


「教授はこの世の中に真実はあると思われますか?」


「突然何を言い出すのかね。」


「いえ、例えばお伺いしたいのは地球にとって本当の敵とは一体誰なのか、ということなのです。」


 年甲斐も無く興奮しがちの橘教授に対して火野は怖いくらいに落ち着いている。風間は相変わらず一言も話さなかった。


「人間が地球にとって敵だとでも言うのだろう。そんな議論に乗るつもりはない。確かに環境を破壊しつづけているのは人間だけだろう。かといって君たちが封印を解こうとしている物達は更なる破滅をもたらすことは自明の理だ。地球どころかこの宇宙さえも破壊しつづけるかも知れない。それでも人間が地球の敵だと言うのかね。」


「確かに教授の仰る通りでしょう。僕たちの目的が達せられれば僕たちも含めて滅ぼされてしまうのかも知れません。僕は他の信者のように自分たちだけが生き残れるとは思っていません。ただ僕や星の智慧派の指導者であるナイ神父の思いは在るべきものを在るがままに、ということだけなのです。未来永劫に封印され続けること、それだけが罪だと考えているから封印を解こうとしているだけなのです。それによって地球が滅んでしまったとしたら、それが本来在るべき姿ではないのでしょうか。」


 橘教授には理解できなかった。この青年は自分が今言っている意味を理解しているのだろうか。人類どころか地球丸ごと自殺するようなものだ。


「今日は教授と議論をしに来たのではないのです。この話は何時までお話しても平行線でしょうから。」


 それから火野が話し出した内容は、橘の教え子であり、今滋賀県の琵琶湖大学で伝承学の講師をしている綾野祐介に関する驚くべき話だった。


「そんなことがある筈が無い。彼は先日もクトゥルーの復活を命の危険を顧みず阻止した男だ。」


「それはそれ、これはこれです。事実は事実として受け止めなければならないと思いますが。いくつか見ていただきたい物も在るのです。」


 火野が差し出した書類、写真を食い入るように見た橘の顔から血の気が引いて行った。


「お判りいただけましたか。これはこのままお貸ししますので、綾野先生ご本人をお呼びになって確認された方がいいと思いますよ。それでは僕たちの用はこれで終りましたので失礼します。」


 そう言い遺して火野と風間は帰っていった。橘は二人が帰ったことに気付くこと無くただ頭を抱えて身じろぎ一つしないのだった。

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