第19話 深淵への誘い②

 アルケタイプ達の住処からアブホースの湖まではそれほど離れてはいなかった。


 しかし、この情景をどのような言葉で表現すればいいのだろう。灰白色のおぞましい物体が譫妄運動を続けながら何かを産み出している。


 その物体は巨大で、見渡す限りの湖を全て埋め尽くしているようだった。いや、そもそも湖のように見えるもの自体からして、その物体の一部かも知れない。途方も知れない大きさであった。


 ただそれはとても邪悪であることだけは、見間違う事がないと思われる。ゼリー状であり、グロテスクの極みであるところのその物体は、察するに全ての母なるアブホースそのものに違いなかった。


「アブホースよ、私達はツァトゥグアの使いとして参った。どのような使いかは会えば判ると言われているので、私たちは預かり知らない。返答をしてくれ。」


 その大きな物体の何処に頭があり、何処に耳があるのかは想像もつかなかったが、とりあえず叫んでみた。


「それほど大きな声を出さずとも、十分伝わっています、ツァトゥグアの使者たちよ。いや、ツァトゥグアその人よ。」


 四人がいっせいに(えっ)と思った。ツァトゥグアはあの入り口付近の洞窟に封印されているのだから、ここまで来られる筈がない。それだからこそ、自分達を使者として送り込んだのではなかったのか。周囲を見回してみたが、やはり自分達に他には誰も、もちろんツァトゥグアも居なかった。


「私達がツァトゥグアの使者としてここまで降りて来たのであって、ツァトゥグア本人はこちらには来ていないのですが。」


「戯言はおよしなさい、ツァトゥグアよ。」


「そうせかすでないわ、アブホースよ。確かに我はここに居る。」


 それは四人の合体された体の中から発せられる思念であった。そして、それは確かにツァトゥグア本人のものだったのだ。


「不思議に思うのももっともだ。我は我に取り込んだ体の一部を通して思念を送ることが出来る。お主達に使者を頼んだのにはそういう意味があったのじゃ。」


「わらわは忙しい。用があるならさっさと言って元の洞窟に戻るがよいでしょう。」


「アブホースよ、忙しいとはそのアブホースチルドレンを産み出す作業のことか。だが、アブホースチルドレンを産み出すための養分に使うためにアブホースチルドレンを産み出しているお主が忙しいとは、滑稽なことであるのう。」


「ツァトゥグアよ、ただ未来永劫に怠惰なだけのあなたに言われたくはない。用がないのなら帰るがよろしい。わらわは本当に忙しいのじゃ。」


 旧支配者同士の会話などはこんなものなのだろうか。これでは人類とそれほど変わるわけではない。旧支配者達はけっして万能の神ではなく、存在すること自体がイレギュラーな、れっきとした生物と考えるほうがよいのだろうか。


「そもそもわらわが何故故にただ産み続けているのかを知ったうえで言っておるのか。わらわがもしその営みを停止したのならこの宇宙の時流が止まってしまうのですよ。それを無駄な努力とでも?」


 アブホースが子供達を産み出すことによってこの宇宙の時間は過去から現在、そして未来へと流れているのだ。全ての父にして母と呼ばれる所以であった。


「そんなことは承知しておる。我が言うのは何故そうまでして、この宇宙の因果律を護る必要があるのか、ということだ。旧神達との遥かなる過去の戦いにおいて共に破れた我々が何故なぜこの世界を保つことに専念せねばならんのだ。そのことをお主に問いたいと前々から思っておったのだ。そんな時にこの者たちが丁度参ったので、態々ここまで降りてきたと言う訳だ。」


 途方もない話しであった。ツァトゥグアはアブホースの営みを止めさせようとでも思っているのだろうか。そんなことをすれば、この宇宙はたまちち収縮して大爆発をおこしてしまうだろう。それとも時が止まってしまう

のなら全てその瞬間に止まってしまうだけなのだろうか。


「ツァトゥグアよ。それは思い違いをしているようですね。わらわの存在意義は全てを産み出すことによって初めて意味を持つことになるのです。こんな処に封印されている今であってもそれは変わることはない。そもそもこの宇宙を産み出したもののひとつとしてわらわがこの宇宙を崩壊に導くことはできるものではありません。それはツァトゥグア、あなたにとっても同じ事でしょう。あの過去の戦いこそが過ちであったのです。」


「殊勝なことを言うものだな、アブホースともあろうものが。アザトースどのがどう思うであろうか。クトゥルーやクトゥグアにも聞かせたいものだ。まあよいわ、その思いが判っただけでも我がここまで降りてきたかいがあったというものだ。」


 ツァトゥグアの意図はどうも綾野達には理解不能であった。


「ツァトゥグアよ、何を考えているのですか。旧神の封印は未だ解けないままでしょうに。それとも、何か封印を解く鍵でも見つけたというのですか。」


「いずれ判るときが来るであろう。それにしてもアブホースよ、何も感じないのか。感覚が鈍っておるのではないか。ここもかなり汚染が進んできておるようだ。地球上の汚染がそのままこの洞窟にも影響があることは理解しておるであろう。われらが封印を解いて地上の人間達を滅ぼさない限り我らにも破滅の時が訪れることになるのだ。」


 何やら話が厭な方向へと向かっているようだった。


「ツァトゥグア、それはどういう意味です。封印を解けるとでも言うのですか。」


「つい最近、クトゥルーの封印が解かれようとしたときにそれを阻んだのがここに居る人間達なのだ。我はこの者たちを取り込んでその記憶をも取り込んだのだが、あと一歩のところであったようだ。我らのように普通の人間には近寄ることも出来ない場所に封印されているものたちは僕を持たないので自らが動けない限り封印を解く方法を探る術はない。そこで考えたのだが、このような者達を使って我らを封印から開放する術を探させる、というのは如何であろうか。そう頻繁に外の世界のものたちがここに迷い込むことはないのだ。この機会を逃すことは無いと思うのだがどうであろう。」


 どうも、ツァトゥグアは綾野達4人を使って自らの封印解く方法を探させるらしい。それにアブホースを巻き込む魂胆なのだろう。


「わらわには可も不可もない。ツァトゥグアよ、勝手にするがよいでしょう。それにしても怠惰な神とも呼ばれるあなたが、それほどまでして封印を解きたいというのが、わらわには理解できないことです。どうしたというのですか。」


「永劫の時を封印されている身であるとしたら我の存在意義は何処どこにあるのだ。考える時間は幾分とあったのでな。ただ結論は出なんだ。まあ、それほど期待している訳ではないのだ。ただ、たまにはこんな余興もよいのではないかな。」


 こうして、四人は元来たツァトゥグアの洞窟に戻され、ツァトゥグアの封印を解く方法を見つけることを条件に元の世界へと戻されることになってしまったのだった。


 ヴーアミタドレス山の洞窟に迷い込んだ四人が元の世界に戻る条件は、ツァトゥグアとアブホースの封印を解く方法を見つけることであった。


「一人だけを此処に置いて行くがよい。その者の命と引き換えとしようぞ。」


 それが担保であった。


「それなら私が人質になりましょう。」


 当然のように橘が言い出した。調査隊の隊長であることの責務を未だ忘れていないのだ。


「そうは行かない。ここは一番年長の私が妥当なところだろう。」


「駄目ですよ、先生達が残ったら誰が封印を解く方法を探すのです。元はといえば僕達が単独行動をとったことが原因なんですから僕が残りますよ。」


 綾野、橘、岡本浩太の話を直ぐ横で黙って聞いていた桂田が不意に話し出した。


「綾野先生、橘先生、それに浩太。よく聞いてくれ。浩太はさっき二人のような言い方をしたけれど本当は俺一人が言い出したことなんです。浩太は無理に連れてこられただけで。それと、元の世界に戻っても一番役に立ちそうにないのはやっぱり俺だと思うんです。綾野先生と浩太はそういった方面には詳しいでしょうし、橘先生にはいろいろとお知りあいも多いでしょうから。だから、ここは俺が残るべきだと思うんです。」


 普段の桂田からは想像も出来ない、真面目な面持ちで話し出したので桂田をよく知る浩太は少し呆気に取られてしまった。場違いではあるが、


(こいつ、真面目な顔すれば結構いい男じゃないか。)


 などと感心してしまった。元々端正な顔立ちなのだが、普段の行動と話の内容でどうも顔の印象がふやけてしまっているのだ。


「そうは言うが、桂田君、私は立場上生徒の君を置いていく訳にはいかないのだよ。」


 綾野としてもここは引く訳にもいかなかった。自分の生徒なのだ。放っていける筈がない。


「お前達の都合で残る者を決めると誰が言ったのだ。」


 そこにツァトゥグアが割り込んできた。そうなのだ。もともとツァトゥグアの申し出は絶対的拘束力を持っている筈で、それに逆らえる訳がない。残れと言われた者が残らざるを得ないのだ。


「お前達の話を聞いていると、その者の言い分が一番我の要求をかなえるのには都合がよいようだ。他の三人は早急に立ち去り、封印を解く方法を見つけ次第、ここに戻ってくるがよい。お主達が戻ってくるときだけここへの道を開こう。」


 そうツァトゥグアが言った瞬間、綾野、橘、岡本浩太の三人は入ってきた縦穴の一番底にいた。桂田は居なかった。ツァトゥグアの意思は本人の希望どうり桂田を残して、他の三人に封印を解く方法を探させることにあるようだった。


「こうしていても仕方が無い。桂田君のためにも早く封印を解く方法を探そう。」


 脱力状態の三人に喝を入れるように綾野が言い、三人はカーゴに乗って地上へと戻ったのだった。


 綾野の講師控え室で、三人は相談をはじめた。桂田は助け出さなければならない。それは判っていることだ。だが、それによってツァトゥグアとアブホースの封印が解かれるのならば、それはそのまま人類の危機に繋がってしまうことになるのだ。


「悩んでいても仕方がない。とりあえず、手を尽くして封印を解く方法を見つけよう。」


 綾野の言葉でその場は解散となった。


 橘助教授は自らの伝手で大英博物館にあるといわれているいくつかの稀覯書を探すことになった。綾野は自らの伝手でミスカトニック大学に向かう。その他、アーカム財団にも連絡を取って協力を仰いだ。


 ただ、各々の協力者に対して話したことはツァトゥグアやアブホースを復活させるためにその方法を探している、とは言えなかった。そんなことを言えば、それだけで人類の敵にされかねない。


 その他、インターネットのホームページにも琵琶湖大学や綾野個人のページはもちろん、有名ポータルサイトの掲示板にも情報提供を呼びかけた。考えられる範囲の全ての手を打ったうえで、綾野はアメリカ合衆国に、橘はイギリスに、連絡係として岡本浩太を日本に残し、旅立って行ったのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る