第十四夜*望まれぬ娘の待ち望む未来*

 建物は駅に集中し、離れてくに従って緑に覆われていく笹浦市。

 田舎に限りなく近い平凡な町だが、その舞台では親子共々寄り添い、キャッチボールや鬼ごっこで遊ぶ姿がよく観察される。

 家に帰れば夕食を満喫しながら、親子間で情報交換を行い、誰もが団欒だんらんという世界に浸っていた。


 そんなある日、一人の女子の産声うぶごえが鳴り響いた。体重は比較的軽めで身体も細く、医師からは未熟児だと断定されてしまうほど弱者だった。しかし、不意に放つまん丸笑顔のきらめきは、決して周りの赤子に劣らず、輝ける未来を待ち望んだ瞳が世界へ向けられた。



 そのの名は、沫天まつあまのぞみ



 生活面への支障は貧血ぐらいで、大した苦境には立たされていない。やがて心身共に成長し、明るく快活な園児にまで発展していく。


「ねぇ! いっしょにオママゴトしようよ!! じゃあウチは、お母さん役ねぇ!!」


 先陣を切って園児らを誘い集め、普段はこうしてオママゴトを展開している。怒ると鬼のように恐いが、根は優しく家族想いの仮想的母親をいつも演じていた。

 兄弟役の男児には大きな説教をぶつけたり、姉妹役の女児にはリボンを丁寧に結んであげたりと、憧れる母親役ばかりをになう。



『だってウチは、家族が大大ダ~イ好きだから!!』



 家庭という世界に、人一倍愛を向けていたのだ。幼稚園の休日で遊んでくれる父親、世界一美味しい炊きたてごはんをよそってくれる母親に、望は毎日笑顔ばかりを放っていた。


 幼女には、早くも夢があった。それは、いつか目の前に現れる素敵な王子様と結婚し、宇宙一幸せな家庭を築くことである。思い描くシンデレラストーリーを、流れ星にまでお願いするほど。


 しかし、秘めた尊い願いは、現実には受けて止めてもらえなかった。



――ペシッ!!


「イッ!! ……お父、さん? お母、さん……?」


 卒園を迎える頃、望の片頬に痛覚が走る。思わず自分の手のひらを添えてしまうほど“ジンジン音”がとどまらず、まともに話せないしびれまで発症していた。

 最初は何が起こったのかわからなかった。顔に何かが衝突する経験など、幼女にはまだ一切訪れていなかったのだから。


 しかし、目の前で手の甲と鬼形相を向けてる父親と、さっきまで怒鳴っていたのに急に落ち着いた母親を窺うことで、望は改めて痛みの正体を知ってしまう。



『――ビンタ、された……初めて、ぶたれた……』



「……ウッ……ウゥ、ウゥアァァァァハッハアァァァァア゛!!」


 痛みのあまり、家族の前で泣いてしまう。大粒の涙たちも次々に赤い頬を通り落ち、静かな家外まで越えるほどの大泣きだった。


「ウゥア゛ァァ!!」

「はぁ~。ちょっとアンタ何やってんのよ? 殴ったらまたうるさくなるに決まってんでしょうよ?」

「チッ、このクソガキが!! 外に聞こえちまうだろうが!!」


――べジッ!!


 もちろん泣き止むことなどできず、襲ってくる痛みが相加的に強まっていった。その一方で、声の音量に関しては相乗的だ。身体的暴力を受けたことよりも、心的ダメージを与えられた方が鮮明だったからである。



『――大好きな……大好きな家族に、ぶたれた……』



 親から初めて暴力を受けたのは、忘れもしない五歳の七月九日だった。幼稚園でできた友だちとの愉快な記憶は忘れているのに、その日その瞬間の悲劇だけはいつまでも心に焼き付いたままだ。


 しかしそれも、今後訪れてしまう苦境を考えれば、無理は言えない。


――ボコッ!!


「ウ゛ウゥ!! ……」


 女子小学生へ進級すると、父親から飛んでくる物も、パーからグーへと換わっていた。平和を示すチョキなど、一度たりとも向けられない。


『痛い……痛いよ……誰か、助けて……』


 父親からの暴力が徐々に日常化していく中、望は母親へ何度も泣きすがり、助けを嘆願した。ふと気づけば、幼い身体にはあちらこちらと赤い跡が浮かび、学校のプールなど恥ずかしくて入れたものではない。


 だが、信じた母親からは……。



「くっつくなよ! きもちわりぃ!」


――ドスッ!!


「ウ゛ッ!! ……お母、さん……」


 優しく抱き包んでくれると思ってた。よく遊んだオママゴトでは、自分自身がそう演じてきたのだけに。


 しかし直面した現実は、脇腹への一蹴りだった。勢いで全身が床に叩きつけられ、呼吸すら苦しさを覚える初体験に遭遇してしまう。


『……どうして……どうして、助けてくれないの……?』


 きらびやかだった瞳は、時間が進むに連れて薄れていく。


 小学生高学年を迎えた頃には、やはり父からの執拗しつようしつけは続き、いつしかゴルフアイアンという兵器まで向けるようになった。

 時には未開封のペットボトルや缶まで投げつけられ、いつも顔だけ隠せと言われ、必死で全身を守ろうと身を丸めた。その分、顔以外の肌には数々の切り傷が生まれ、みない御風呂が失せた気がする。


 確かこの頃からだ。夜遅くまでわざと徘徊はいかいしてから帰宅し、殴られた瞬間に朝を迎えてる不思議な生活の始まりが。痛みの恐怖に怯え、死んだフリを覚えたのも。


『……そっか……そう、だったんだね……これが、ウチの家族なんだ……』


 小学校を卒業し、多感な中学生にまでなれた。制服という僅かな防具を身に纏えるようになったが、家庭内暴力の度合いは比例してしまう。


「おい望……背中、向けろ」

「……」


 他にも鈍器で殴られた経験が多々ある。分厚い本の角やガラス性コップ等。暴力は当たり前の習慣と化してした。


 中でも最も覚えているのが、室内で煙草たばこを吹かす父親への背中露出行為だった。


「……」

「へっ! 相変わらず、身体だけは立派だな?」

「キモ……」

「ア゛ァア? 何か言ったかクソ雌?」


――ジュウ……。


「――ッ!! ウ゛ウゥゥア゛アアァァァァアアア゛!!」


 銃弾が背から貫通していくような激痛が襲来する。背を向けているが故に目に見えた証拠は無いが、煙草の白煙と恐ろしいばかりの高温を感じ取れた。グリグリとしつこく擦り付け、真っ黒で大きな黒子ほくろが刻まれていく。


『痛い!! 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い! 痛い!!』


 一寸先は地獄のみだった。


 来る日も来る日も、父親から傷を与えられ、一方で母親からは無視され、時には苦しむ姿を見られ嘲笑あざわらわれたこともある。


 第三者の誰かに相談する手だってあったはずだ。が、現在進行形の被害者には、声を挙げる力さえ残っていなかった。いっそのこと気づいてほしいという気持ちだけで、学校での口数も皆無になってしまう。


『嫌だ……何もかも……もう、嫌だ……』


 目線など上げられないほど、心身共にズタボロだった。しかし高校二年生を迎えた彼女の天から、細くちぎれそうだが蜘蛛の糸が垂らされた。


「え……離婚……?」


 父母からの離婚発表をおおやけにされた。離婚事態は双方共意見が合致しており、残るは望の親権選択だけだ。

 父母のどちらについていきたいかと、二択の別れ道を問われたのだが。


『どっちも、嫌だ……』


 選べなかったのだ。両者から暴力を受けた者として、第三の選択肢を欲しいあまりだった。


「……」


「おい。早く答えろよ?」

「どっちかなんてすぐ決まるでしょ? 早くしてよ?」


「……どっちか選べないって、言ったら……?」


 無意識ながら初めて呟いてしまった。また殴られると危機感が無意識によぎったが、なぜか両親からは見たこともない笑顔で語られる。



「――だったら、出てけ。もう働ける歳なんだから、一人で生きてろ」

「――まぁ仕方ないよね? デキ婚の娘なら、一人の方が幸せでしょ」



「……バカ」


 それは望にとって、最初で最後の反抗的台詞だった。今回は殴られてもいなければ痛みも無いのに、なぜか瞳から床へゲリラ豪雨が観測される。

 声もまともに出せないほど、興奮気味の喉だった。しかし望は二人へ、改めて付けられた名前の意図を理解し、同時に涙溢れた尖る瞳を放つ。



『――この家族にとってウチは、望まれないだったんだ……』



「バカ親ァァ!! 二度と現れんな!!」


 途端に走り出し、裸足のまま玄関から脱出してしまう。普通の家庭なら、待ての一言くらい鳴らされるはずなのに。


 貧血持ちの身体であることも忘れるほど、その晩だけで長距離を駆けることができた。裸足で踏む石ころもあまり気にならず、ペースを落とすことなく逃走を持久させる。唯一、止まる気配のない大量の涙だけを、持ち備えながら。


『嫌いだ……家族なんて……家族なんて大っ嫌いだ!!』


 無論高校は途中退学。終いには捜索すら行われず、独り身のストリート生活を始めることにした。お金も無ければ着替えも無いホームレス生活に成りかけたが、暴力さえ無ければ正直幸せだった。


『腹減ったな……。そうだ……仕事、しないと……』


 年齢にしてまだ十七歳。若さという特権があった。瞳の温度は戻らないが、アルバイトフリー雑誌を手に取る。

 今可能な仕事でいうと、履歴書も身分証も必要としない、手渡し制の単発派遣労働ぐらいしかなかった。

 服装も意識しながら調べた。身体は暴力によるアザで埋もれ、半袖など着れたものでない。


『これでいい……これしかないんだから……』


 携帯電話も所持してないため、直接アポ無しの面接会場に向かう。さすがに裸足ではまずいと察し、近くのゴミ置き場からあさり、荒れた長髪を手で整えながら挑んだ。


「はい。明日から是非、よろしくお願いします」


 幸運なことに、工場で勤務することが可能になった。内容はフルタイムの手作業で、主に商品の箱詰めやリボンの飾りつけを行った。マメで器用な手つきで難なくこなし、帰り際には給与もしっかりいただけた。


『これなら、十分続けていける……生きて、いける』


 休日など設定せず、働く毎日に溶け込んでいた。安いビジネスホテルを利用する余裕も生まれ、今日、明日、明後日を生きていくために必死で勤続する。派遣先での仕事も一年二年とさらに年数が増し、少しずつだが“一般人”に返り咲こうとしていた。



 しかし二十二歳を迎えた頃、蜘蛛の糸は途端に千切ちぎれてしまう。



「え……会社が、潰れる……?」


 派遣会社が赤字倒産を迎えるらしく、一週間後には手作業からも離れてしまった。生きていく権利を許される世界が消えたのだ。少ない貯金でやりくりしながら職を探すも、身分証すらない望は面接も受からない日々が訪れた。


 ついには貯金が底を着き、再び絶望の谷底に陥ってしまう。


『どうしたらいいんだよ、ウチは……もう死ねって、ことなの……?』


 無情にも星が綺麗にまたたく秋夜空を見上げ、涙の自問自答を繰り返していた。今の自分にできることは無いのだろうかと、悲哀ばかりをつのらせながら手のひらを見つめたときだった。


『――っ! 身体の傷……もしかしたら……』


 袖口から覗けたみにくいアザから、行動を起こすことにした。悪化した事態から他に考えられず、真剣の分だけ瞳が冴える。



――それが、弱そうな男に対する恐喝きょうかつ行動だった。



「オイゴルァア! おとなしく、金置いてけ……」


 何度も聞かされた荒々しい父親の口調を演じ、また相手の言葉も聞かない母親の無視する真似もしつつ、ターゲットの胸ぐらを握りながら、アザだらけの腕を公開させる。



「――こんな風になりたくねぇなら、とっとと置いてけ……」



 この手法で、何人もの男から金銭を手に入れた。一回につき一万円以上で、天職極まりなかった。派遣労働よりも一回分の手取りが高いのは言わずもがな、たった数分で稼ぐことさえできるのだから。


 場所や時間帯を換えて行い続けること数ヶ月。もうじきクリスマスを迎える十二月一日にも、恐喝で奪った金銭を、やなぎ川の河川敷で見つめていた。福沢諭吉と何人も対面でき、大きな扇子の如く広げられるほど集まっていた。


『へっ。なんでこんなこと、気づけなかったんだろ、ウチは……』


 どうしてこれほど簡単な高収入職を早く思い付かなかったのかと、自嘲気味に笑ってしまう。家出した当時からやっていれば、今頃億万長者だったかもしれない。


 しかし寒気が強まる夜長、呼吸が急に苦しさを覚え始める。決して寒さ慣れしていない訳でなく、はたまた貧血が襲ってきた訳でもなかった。妙に目頭だけが熱くなり、口許の震えに任されて落涙らくるいが起こる。



『――なんで、こんなこと、気づいちまったんだろッ……ウ゛チは……』



 キズだらけの心に押し寄せたのは、冷徹な冬風に乗った罪悪感だった。誰もが認めるれっきとした犯罪者だ。奪った相手に傷を負わせていなくとも、恐怖という心的ダメージを与えてしまった。嫌悪して忘れられない、自身の暴力父母と同じように。


 アザだらけの全身を丸め、顔を膝に置いてうずくまった。今宵はいつも以上に寒かった気がする。全身の傷を通り越し、心のキズから隙間風が舞い込み、一人静かに泣くことしかできなかった。


『痛いよ、こんなの……』


 決して身体の痛みなど感じない。しかし、ボロボロの心からは痛みを超えた苦しさばかりが発生する。もちろんキズは治る訳がない。心には血液など流れないため、カサブタが一切できぬ概念的臓器なのだから。


『もう、生きるとか、どうでもいい……このまま、死んじゃえばいい……』


 待ち望んできた輝かしい未来を、不法投棄するまでたくらんだ。


 そんな悲愴犯罪者である彼女の前に一人、スーツ姿の白髪男子が現れたことで、小さく僅かな日だまりが灯される。


「初めまして、沫天望様。わたくしは、キューピットと申します。今宵貴女あなたには、是非ともやっていただきたい御仕事がございます。どうか、貴女の御力添えをお願いしたいところでございます」


 それが、望がサンタ教習所に来るまでの過程。悲愴と絶望の二色で染まった、血みどろのいばら物語である。


 *

 *

 *


「――へっ! 良いこと教えてやんよ、クソ親。親から受けた体罰の傷はな、い゛っしょォォォォ経っても治んねぇ、見苦しいキズになるんだよ。それをテメェは今まで、あの娘にやってたんだぜ……?」


 そして今、下着姿の望は全身のアザを初めて世間へおおやけにした。

 目前には、小学生の娘に執拗な行為を働いたであろうバット持ちの父親、その後ろに突如現れた警察官の信太郎と秀英、また後ろにその娘の母親と並んでいる。


 一方で背後には岳斗も、床で眠りについたままの女子小学生の隣で、望の残酷な後ろ姿を見つめていた。


「望……」

「わりぃ岳斗、隠しててさ……。だってこんなの見られたら、みんな引くだろ? まぁ、イブには見られた時点でさらそうとは思ったけどさ……」


 今にも流血が溢れ出そうな背中で、上擦る岳斗へ語った。反応を観察する限り、訓練中倒れたあの日、彼は本当に肌を一切見ていないようだ。


「……なぁクソ親? 長々と話すつもりはねぇから、テメェに一言だけ伝える……」


 一時の沈黙が続いた後、再び虐待男に強面を上げ、全身全霊で立ち構える。女子小学生の未来を守るため、自分と同じような人間を生ませないために、一人の経験者として手のひらを胸に置く。



「――虐待を受けた子が、一番大きなケガを負う箇所……それは、誰もがここに秘めてる心なんだよ……」



 愛という名の血肉で形成された心のキズは、愛ある想いでしか治せない。故に想い遣りが救い、人は支え合い生きている。


 口伝したいことは盛り沢山だが、理解能力に乏しい虐待親には一言だけが適切だ。話せば話すだけ我慢の鎖が解かれ、現実逃避の如く暴れ回って忘却しようと試みるのだから。


――(プスッ……こちらイブ! 望!! 岳斗!! もうチョイで着くから!!)


 岳斗の手に握られたトランシーバーから放たれた、イブの焦り声が沈黙を破る。どうやら伝えた通り、助けに来てくれた。


「岳斗! そこのバルコニーから飛び降りろ。二階だから、ケガすることもねぇはずだ」

「わ、わかってるよ! 望も早く!」


 早速脱走に試みようと、岳斗はバルコニーの大窓を開けて辺りを窺った。すると遠方から、赤い光が接近してくるのが目に映る。暗くて見づらいが、距離が縮まるに従って姿が放たれ、共に必死の叫び声まで届く。


「がァァくとォォォォ!! のぞみィィィィ!!」


「イブ……しかもトナカイまで……ブリッツェンか?」

「さすがお前の世話役だな。タイミングもバッチリだよ」


 望もバルコニーに身を運ぶと確かに、一頭の茶色毛で鼻先が赤く光ったトナカイに、空中移動を任せたソリに乗るイブを捉えた。目を凝らせば芽依の姿も垣間見え、猛スピードでこちらに向かっている。


 すぐバルコニーをまたいだのは岳斗で、片足と左手だけで塀に捕まり、いつでも落下可能の体勢を整えていた。警察官の秀英からは、

「待て! 誰が逃がすか!!」

 としつこく詰め寄られる中、事態は急を要する。一方で望は、まだバルコニー内で立ち竦み、アザだらけの全身に冬風を浴びせていた。


「何やってんだよ望!! ほら急げ!」

「待て罪人!!」


 容疑者と警察官の男声に挟まれる望は未だ動けず立ち止まっていたが、ふと岳斗から右手を差し伸べられたことに気づく。救いの手とも呼ぶべき彼の手のひらをつい見つめ、触れてもいないのに優しい温度を感じる。


『岳斗……』

「望!! 早く!!」

『……そっか……。ありがとな、岳斗……』


 ズタズタにされたままの心ばかりで呟くと、不意に頬が上がってしまう。素直に嬉しかったからかもしれない。必死で助けてくれる者など、過去には一人も存在しなかったのだから。


『でも……』


「――? 望?」


 だが、伸ばされた右手ではなく左手に触れた望には、笑える根本的理由が他にあった。なぜなら全く学習してくれない岳斗から、大きなアホらしさを感じておかしかったである。


 あのときこう告げたのに、もう忘れてしまうとは。


『お前ってホント、ガキだよな……』


――スッ……。


「――っ! のぞ、み……」


 次の瞬間、岳斗の左手を塀から持ち上げ、宙の舞へ招待させてしまう。しかし未だ残る呆れ笑いを浮かべながら、地へ遠ざかろうとする一人の助け人へ、最後に口だけ開くことにした。



「――また右腕伸ばしやがって。二度と助けんなって言ったろうが……」



「――ッ!!」

「じゃあな、岳斗……」

「……のォォぞォォォォみィィィィィィィィ!!」


 優しい微笑みが続く中、悲鳴が落下していく。地には恐れず背にして、右腕を伸ばしながら。


「のぞみィィィィ!!」


――ビューン!!


 突如吹き荒れた夜風だが、岳斗は無事に、イブと芽依が乗るソリへ着地し離れていく。ただ、しつこく右腕と叫びを続けながら。


「望!! 望のぞみィィ!!」

「岳斗落ち着いて!! 落ちちゃうよ!!」


 ソリから身を出さんばかりの岳斗のことはイブ、また芽依にも支えられたが、悲愴の叫び声はとどまるところを知らない。


「のぞみィィ!! 望望のぞみィィィィ!!」


『うっせぇな……バカ』


 急速に離れていく岳斗にも関わらず、残った望には鮮明にも聞こえていた。真冬の夜空の下で露出しているはずなのに、ふと高まる温度を覚えながら。


「望望望!! のぞみィィィィ!!」


『仕方ねぇだろ? ここでウチも逃げたら、誰がこのを護るんだよ?』


 後悔の念など抱いていなかった。この世で家庭内暴力に苦しむ人間など、二度と出現させないためにも。


「のぞみィィィィ!! ……」


『なぁ岳斗。ウチさ、ちょっと嬉しかったんだ。お前が、誰かの父親やってるって、知って……』


 優しい父親なら、少なくともこの世界で一人の子どもが幸せなはずだ。自分のことのように嬉しい。


 ついに岳斗の声が聞こえなくなった頃、望は消え入ったソリの方角を眺め続けていた。


『……そういえば、結局言えてなかったっけな。ウチが今、一番欲しいもの……』


 大きな白煙深呼吸をしてきびすを返し、警察官が待つ室内へ戻る。すると、まずは後輩警察官の秀英に詰め寄られてしまう。


「園越容疑者は、どこへ向かった? 共犯者なら、わかるだろ? 言え!!」

「へっ。誰が言うかよ……冗談じゃねぇ」


「貴様!! 女だからっていい気になるなよ!? 罪人のくせしやがって!!」

「テメェこそどこに目ん玉くっつけてんだよ!? サツのくせに、倒れた女子小学生ガン無視かゴルァアア゛!!」


 金髪を激しく揺らした魂の叫びには、さすがの秀英も言葉がとどこおっていた。


「おい児島! いいから下がれ。先に救急車呼んでくれ」

「せ、せんぱ……」


「……そんなヤツら、なんかに……」


 信太郎も輪に入ったが、無意識にも言葉尻を被せた望は有頂天を迎えていた。今日までの過去にも思い出せない、鋭利に富んだ瞳を向ける。



「――岳斗の未来は、ぜってぇ渡さねぇ!!」


「――っ! ……そうか、わかった」



 秀英には上から目線を浴び続けたが、なぜか目を見開いた信太郎を捉える。すぐに俯いてしまうが近寄られ、いよいよバッドエンドの展開が訪れようとしていた。


『でも、これでいいんだ……だって、こうでもしないと、ウチの願いは叶わねぇんだから……』


 落ち着きと共にほっと安心を覚え、自嘲気味ながら笑みを溢した。追求するものは決して高価な物品ではなく、質素でも構わない待ち望んだ未来なのだ。



『――昔よくやったオママゴトみてぇな、チョーフツーの生活が欲しかった……。そのためには、まずはちゃんと、犯した罪を償わなきゃな……』



「ほら、掛けろよ……?」

「あぁ……。わかってる」


 自首するかのように両手首を前に出し、目前の信太郎へ手錠掛けをあおる。暴力は無くとも恐喝は立派な犯罪行為だ。素直に受け止め、瞳を安らかに閉じた。


「――っ! え……なんで……?」


 しかし、差し出した手首には何も触覚が走らず、一方で両肩から何かを感じ取れた。不思議と目を開けて窺ってみると、下着姿だったはずの上半身は警察官の上着に覆われ、また半袖姿の信太郎が背後にいた。


「ど、どうして……」

「のぞみって、いうのか?」


「え……そ、そうだけど……」

「そっか……ちなみにオレは、羽田信太郎。岳斗とは、昔からの付き合いなんだ……」


「え……岳斗、と……?」

「あぁ、そうだ……」


 なかなか目を合わせてもらえなかった。なぜ自己紹介をしたのか、また岳斗との交友関係を伝えたのか。秀英のように居場所を聞き出そうとせず、手錠も出さぬまま歩き去ろとしていた。



「――ありがとな、のぞみ……」



 何に対する感謝なのか理解できず、呆然と化し、低身長ながら背中が広い信太郎に目を固定した。


「おい児島。手錠は、お前が掛けてやってくれ」

「は、はぁ!? 先輩何なんですか!? 救急車呼べとか手錠掛けろとか! 少しは働いてくださいよ?」


「いいから。オレは、コッチをやるからよ……」

「コッチ……?」


 秀英だけでなく望も眉間に皺を寄せる。

 すると半袖警察官は、バットを肩に乗せた暴力夫とネグレクト妻の前で歩みを止める。


「まずは、バット降ろせ……。んで、二人で手ぇ差し出せ」


「んな、なんでだよ……?」

「き、キモいんだけど……」


 冷や汗を浮かべ始めた父母だが、指示には従わず躊躇ためらう。しかし、二人に背が負けている信太郎の瞳は、烈火の如く燃え盛っていた。


「決まってんだろ? オメェらも逮捕だよ。だからとっとと手ぇ出せや」


「あ、ア゛ァア!? 何言ってんだゴルァア!? コッチは被害者だぞ!?」

「そうよ! アンタ頭わいてんでしょ!」


「ガタガタぬかすんじゃねぇ!! DVにネグレクトだって、立派な犯罪だろうが!!」 


 急激に怒号を挙げた信太郎には、思わず息を殺して観察してしまう。殴り合いでも始まりそうなリングになるかと思えたが、男の手はバットへ向かい、床へと奪い投げる。



「――敗北を打ち砕くためのバットを、大切な子の未来を破壊するために使いやがって!! んなヤツらがオレらの前で、偉そうに被害者面すんじゃねぇよ!!」



――カチャ、カチャ……。


 無情な金属音が鳴り響き、まずは暴力夫の両手首に手錠が施されていた。次にネグレクト妻にも掛けられ、場は完全に警察官が権利を握っていた。


『羽田、信太郎……岳斗の、友だち……良かった』


――カチャ……。


 すると望の手首にも秀英から手錠を掛けられ、事態は終演を迎えた。暴力夫妻もパトカーに乗せられ、一方の女子小学生は救急車へ運ばれ、今後は信太郎が責任持って通院の面倒を見てくれるそうだ。


『良かった……岳斗の友だちが見てくれるなら、安心だ……』


 きっと彼も、岳斗のように人格優れた一人に違いない。“大切な子の未来”という言葉を発する男からは、厚き人情を感じる。



『――安心だ……良かった……ホント……良かっ、たッ……』



 久方ぶりのゲリラ豪雨が訪れた。何度拭っても収まる気配がなく、パトカー内で被せられた警官服へ落とす。


 温かったのだ。その上着は、何にも増して。


 性質で考えれば、毛布のようなサンタ衣装の方がよほど温暖なことだろう。しかし信太郎から掛けられた上着は、傷ばかりでアザ多き身体を包むだけでなく、キズだらけの心まで温めてくれている気がした。


 やがて瞳へ熱伝され、涙腺るいせん刺激されるばかりで、しばらく泣き止むことができなかった。しかし、決して悲しい雨でなかった。不思議とキズだらけの心は爽快で、何とも軽やかさを覚えてならない。


 どうやら、一筋の晴れ間と共に観測される、温暖な天気雨に見舞われたようだ。



『――そっか……。これが、嬉し涙って、言うんだ……。ウチも、流せるんだ……』



――――――――――――――――――――

 十二月二十日。

 午後六時五十一分。

 恐喝犯――沫天まつあまのぞみ 

 年齢 二十二歳。

 クリスマス前に不法浸入してしまったことをきっかけに、パトロール中の警察官により現行犯逮捕。

 “チョーフツーの生活”という、兼ねてからの願いが叶わなぬまま、二十四班から除名処分。

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