第12話妖しい微笑み

 先ほどの少女ではない。黒く長い髪を無造作に垂らし、どこか病的な雰囲気を漂わせる女性が俺を見据えていた。

(どうする、誰だこの人は!また知り合いか!?)

 その視線を受け取ることを拒否し、明後日の方向を眺めてしまう。


 ダメだ、これでは怪しまれてしまう。何か言わなければ。

「あ、ああ…」

 まずはそれだけ絞り出す。喋りすぎるな、喋れば必ずボロが出る。


 しかし、何故か女はそんな俺をジッと見つめそれ以上の言葉を発さない。勘弁してくれ!

 背中に嫌な汗が流れ、沈黙に耐えかね何か話さなければという義務感が、早速初心を撤回させようと首をもたげる。

しかし、俺が不要な二言を発するより前に、突然女がため息をついた。

「ふう…どうやらまだ調子は戻らないようね。今日一日は、ゆっくり休みなさい。誰にも立ち入らないよう、伝えておくわ」

 予期せぬ幸運、この場を切り抜けられそうだ。

「ああ…ありがとう」

 俺が礼を言うと、女は再びため息をつき、背を向ける。助かった。

(いや…まてよ?)

 この女性をこのまま行かせていいのだろうか、と思い至る。

 今俺には圧倒的に情報が足りない。怪しまれない日常を過ごすにしても、最低限の情報は必要だ。

 ならば、多人数を相手にするより一対一のこの状況で、多少の無理をしてでも状況を有利にするべきかもしれない。

「あっあの…ちょっと待って!…ください』

 女は足を止めこちらに向き

「あなた本当におかしいわ…気持ち悪い」

 などと吐き捨てる。

 しまった、再びしくじったらしい。この人とはそれなりに親しい間柄だったのかも。


 だが、これは使える!


「すみません…どうも頭が痛くて。ここはどこですか?」

 再び訝しむ様子の女、しかしこれでいい。

 しばしの沈黙の後、気だるげな表情から一転、女は息を飲み張り詰めた顔でこちらに詰め寄る。

「貴方…!私が誰か…わかる、わね?」


(掛かった)

心の中でほくそ笑む。

「わかりません…頭に霧でもかかったようで。ッ…ッ頭がッ……!」

 そう、記憶喪失のフリである。

 右も左もわからないこんな環境で、俺の奇行に目をつぶってもらうためには、取り繕うのではダメだ。

 何も知らない体を最初に作っておけば、多少の無理も通ると考えたのだ。

 そして、彼女の反応は明らかに俺の事情を察しつつある!

(ゆっくりと顔を上げろ…そこには心配そうに俺を見るお姉さんがいるはずだ)

 後は出来うる限り自分の無力さをアピールすれば、かなりの時間を稼げるはずだ。

 決してここでも不労生活を送りたいとかそういうやましい気持ちは全く無い。

 これはあくまでイルミアと合流するまでの非常措置なのである。

 意を決し、顔を上げる。



「すいません…わからない、わからないんで…ヒィッ!?」

 なんということだ。一世一代の大法螺吹き、その第一歩目を、俺は悲鳴で飾ってしまった。

 しかし目の前の女性、俺をジッと見つめるこの女の表情を見れば、誰だってそれは仕方のないことだと擁護してくれると思いたい。

 俺の異変を察したはずの、その女性は、とんでもない満面の笑みで俺に微笑んでいたのだ。


 マトモな笑みじゃない。目は明後日の方向を向き、口は半開き。完全にトリップ状態である。

 俺の粗相に気づいたのか、女はすぐにその奇面を整えると、ゾッとするような猫撫で声で話しかけてきた。

「ウフフ…あらあら、どうしたのかしらいきなり。ねぇ、それよりアナタもしかして…」



 自分は誰か、私は誰か、ここはどこか、どこにいたのか、彼女は俺にいくつかの質問を投げかけた。

 完全に気圧されきっていた俺は、それらの質問に唯々諾々と答え続けてしまった。

 俺が答える度に、女またあの笑みを覗かせ、俺はここから逃げ出したい衝動に駆られた。


 聞きたいことは全て聞き終わったのか、いや、俺の受け答えはほぼわからない、知らないの一辺倒だったのでやはり最初から彼女は答えを得ていたのではないかと思うが、彼女は満足気な表情を浮かべている。


「そう、わかったわ。ゆっくりと休みなさい、後は、私に全て任せて…」

 そう俺に語りかけると、彼女はスッと立ち上がり部屋を出て行った。

 その姿は迷える子羊を慈しむ聖女のような美しさを湛えていたが、ドアの向こう側から聞こえた怪鳥のような笑い声に、俺はただ震え続けることしかできなかった。

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