第8話 舌の熱

「嘘だろ」

 俺は呆然とぼやけた視界で、だんだんと大きくなる白い影を見つめていた。

 あの生臭い匂いが近づいてくる、先の激突の結果、どちらが生き残ったのか、その答えを証明する匂いだった。


(イルミアが、死んだ)

 つい先ほど俺を救い、つい先ほど俺に笑いかけ、つい先ほどまで俺と手を繋いだ彼女がもういない。頭蓋骨がシェルターになったかのように、その事実は俺の脳に染み込まず受け入れようとしては弾いてを繰り返す。



 そんな忘我の中ようやく視界が回復した頃には、その巨大な白狼は俺の数メートル手前まで近づいてきていた。逃げることは………不可能だろう。イルミアには申し訳ないが、二人仲良く犬死という結果に終わってしまうようだ。

(せめて、彼女と同じ景色を見て死のう)

 自分のために命を投げ出してくれた少女。その存在は、俺に奇跡的な勇気を与えた。震え続ける体を抱きしめ、歯を食いしばり白狼を睨みつける。


 しかし、そのおかげで俺は白狼の様子がおかしいことに気がついた。奴は数メートル地点でジッと立ち尽くしたままそこを動かない。

 イルミアに向かって放っていたあの凍てつくような殺気も感じない。例えるなら『唖然』。

 あり得ないものでも見るかのように、奴は俺を見据えたまま固まっていた。


(なんでだよ…一思いにやってくれ…!)

 自分の命が自分の意思と関係の無いところで揺れ動く不快感が俺を苛み頭がどうにかなりそうだ。かと思えば、突如白狼の姿が掻き消え、視界が急に暗くなる。


「ガフッ!ッハッ!」

 白狼の四肢により体が地面にめり込んだショックで肺の中の空気が根こそぎ持って行かれた。なんだ、やっぱり喰うんじゃないか。

 イルミアも奴の腹の中にいるんだろうか、早く会わせてくれ。


 目の前には白狼の巨大ではあるが美しい貌が広がっていた。素早く、だが深く繰り返される呼吸が、俺の周りの酸素を奪っていっているようだ。うまく息ができない。

 スン、スン。

 奴の呼吸が聞こえる、まだその時は訪れない。

 スン、スン。

 まだその時は訪れない。

 スン、スン。

 様子がおかしい。奴が行っているのは呼吸ではないと気づく。

(匂いを…嗅いでる?)

 そう、その人の頭よりも大きな鼻を鳴らし、白狼は俺を探っていた。俺になんの匂いがついていたのか、皆目検討もつかないが、それはしばらくの間続いた。




●●●




 考えることを放棄していた。今の俺の様を誰かが見れば、今まさに化物の晩餐真っ最中と受け取ること間違いなしって状況だ。その過剰なストレスから自分を守るためにはそれしかなかったのだ。


 どれほどの時が経ったのかわからない、もしかしたらそう長くはなかったもしれないが、突然白狼が鳴いた。


《■■■■■■■■■ーーーゥゥゥゥ》

 空高く響き渡る誰とも通じぬ遠鳴きは、長く、長く続いた。いつ終わるともしれない鳴き声に、いつしか変化が起きた。


《ゥゥゥゥゥゥーーーゥァァアア。ああ、こんなところかな》


 耳を、疑った。

 意味不明な雑音にしか聞こえなかった奴の遠鳴きは、今や琵琶の音の如き澄み響く美声となって俺の鼓膜を揺らしていた。


「な、な、な……!」

 言葉も出ない。

 この世界唯一の隣人を喰らい、今俺の命をも絶とうとしていた凶獣が、今更人語を解せたとて会話など成立するはずもない。


 ふざけるな。


 その一言を全身から捻り出す前に、白狼に機先を許してしまう。


《少年、私のことを覚えているな?》

 わざとらしく歯を?み鳴らし、白狼は俺に問うた。わけのわからない、まるで意図の読めない質問だ。当然、知るわけがない。それが答えだ。


 だが言葉が出ない。奴の歯を間近で見た瞬間、言い知れない震えが俺を揺らし、言葉を紡ぐことを許さなかったのだ。

 単にこの化物が恐ろしいだけではない。何か遠いどこかで奴に傷つけられたという記憶が、潜在的恐怖となって俺を揺らしているのだという荒唐無稽な考えすら浮かぶ。



(ふざけるな…!!)

 長時間のストレスが、理不尽な恐怖に触発され、ついに俺の琴線を断ち切った。


 もうどうなろうと知ったことか、激情に任せ目の前に差し出された白狼の鼻を鷲掴み、ありったけの力で叫ぶ。


「ふざけるな、生臭セーんだよクソ犬が!!!わけのわからねーことゴチャゴチャゴチャゴチャ!俺はお前なんか知らねーし知りたいとも思わねぇ、返せ、返せよイルミアを!!何が、何をしたいんだお前は!俺はわからねえ、お前もわからねえし俺が何をしたかったのかも…クソ…俺の人生…クソ…ッ!!」


 勢いで出た言葉はすぐにコントロールを失いすぐに意味不明な単語の羅列となって霧散する。涙が出てきた、悔しいのだ、こんな時ですら自分の言葉を紡げない自分に、どうしようもなくムカついた。


 奴が胸の上の足に少しでも力を入れれば、それでこの胸糞悪い気分からも解放される。俺はその時を待ったが、やはりその時は訪れない。

 それどころか、こいつは俺の蛮行にジッと耐え、あまつさえその眼差しは憐れみのそれへと変化していた。


《外法の業…か。まさに、よな。酷なことを…》


 白狼は唸る、しかし、その矛先が俺に向けられてはいないことはなんとなくわかった。


 では誰に?そこに思い当たり、俺の胸に激情とは別の熱さが生まれた。絶望の中で2度煌めいた金色の奇跡。その3度を期待し再び勇気を振り絞る。

「おいっどういうこと……………いや、まずは今迄の非礼を詫び…させてください、大森林サリアの偉大な狼、サーラ。一つ尋ねさせてください。あの娘、イルミアはどうなったんですか?」

 清々しい程の身の翻し。次の瞬間首を捩じ切られてもおかしくない程の蛮行を敢えて行うことで俺は奴の真意を探ろうとした。


 無言でサーラの足に力が込められる。

「ガッ……!ガハッ……!!」

 ミシミシと体が軋み再び肺の空気を搾り取られる、苦しい。苦しくて痛いが、今ならわかる。これは明らかに手加減された痛みだと。

 憮然とした表情のサーラが口を開く。


《私の前でその名を出すんじゃないよ。あの忌々しい娘は天の果てまで吹き飛んでいったさ、あれでくたばってくれていれば、僥倖なのだがね》



 目の前の霧が晴れた。彼女が、生きている。その事実だけで、幾重にも張り巡らされていた俺の緊張の糸は一刀に断ち切られる。

 目の前が今度は喜びに歪み、口からは情けない笑みが溢れ続けた。


 泣きながら笑う俺にいよいよ愛想を尽かしたか、俺の胸からサーラの足が退けられる。

《その涙はあの娘には勿体無い》


 柔らかく湿った暖かい何かが顔を覆った。


(え、今舐め…?)

 あまりに意外な行動に、未だ実感がわかない。しかしサーラはそんなことは意に介さず、俺に背を向けようとしていた。

「待ってくれサーラ!」

 そんな彼女を、思わず呼び止めた。最後に一つ、謝っておきたいことが残っていたのだ。

 背は向けたまま、しかし、その巨?の歩みは止まっていた。その背に向けて、俺は言葉を投げかける。


「お前メスだったんだな!悪い、生臭ェなんていっちまっガッッッッ」


 脳天に凄まじい衝撃が叩き込まれた。サーラの後ろ足が軽く甲の頭を撫ぜ、あっさり吹っ飛んだ甲はそのまま昏倒する。

 空気の読めない非モテ男トークは、彼女のお気には召さなかったらしい。サーラはそのまま振り返ることなく、森林の最奥へと去っていったのであった。

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