フラットリリーはきらめかない -オタクな二人と同人誌-
坂神京平
プロローグ
1:季節外れのサークル勧誘
「私と一緒に、同人誌を作りましょう」
木漏れ日の下に立つ女の子は、透き通った声でそう言った。
夏の陽射しも強まりつつある、七月初旬の放課後。
ここは、笠霧南高等学校の敷地内で、校舎西側にあたる場所だ。
グラウンドの脇から、裏門へ通じる並木道のど真ん中である。
この学校に通う一年生の俺――
すると、そこで突然、呼び止められたのだ。
彼女は、道端から姿を現すなり、小走りに駆け寄ってきた。
おそらく、俺がここを通り掛かるまで、樹木の陰に身を潜めていたのだろう。
言い換えると、待ち伏せされていたわけだ。
ところで、その女の子が何者かと言えば、実はまったく見知らぬ相手ではない。
彼女の名前は、
俺と同じ笠霧南高校一年A組の女子生徒。
つまり、クラスメイトである。
ただし教室内では、あまり口数が多いタイプではなかった。
これまで、ほとんど俺は会話したことがなかったように思う。
はっきり言うと、かなり地味な印象の同級生だ。
その織枝が今、さらさらした長い黒髪を風に遊ばせながら、俺の前に立っている。
華奢な身体を包む着衣は、学校指定の夏の制服だった。
オリーブグリーンのベストに黄色い胸元のリボン、白いブラウスとスカートには、アクセントとしてあしらわれたダークグレーのライン……
校則通りの模範的な恰好から、いかにも生真面目そうな雰囲気が感ぜられた。
「いきなりで、驚かせちゃったかな」
何秒か間を置くと、織枝は真剣な面持ちでつぶやいた。
こちらの反応を窺うように、少しだけ上目遣いで眼差してくる。吸い付くような視線を放つ瞳は、さながら宇宙に生まれた
「あ、ええと。そうだな……」
ちょっと言葉に詰まりながら、俺はいったん正面から目を逸らした。
冷静になれ、と心の中で自らに言い聞かせ、素早く周囲を見回してみる。
この時間帯の並木道には、これから体育会系の部活動に向かう生徒とか、俺と同じような下校前の生徒だとかが、疎らに行き来していた。
とはいえ、このやり取りに聞き耳立てているような人間は、特に誰もいないようだ。
「すまん、織枝。よく聞き取れなかったんだが、もう一度言ってくれるか」
俺は、一呼吸入れてから、改めて織枝の顔を見る。
「おまえと一緒に、何を作るんだって?」
「――同人誌」
聞き直すと、答えは即座に返ってきた。
「私と一緒に、同人誌を作りましょう」
思わず、息を呑んでしまう。
織枝の言葉は、ごく簡潔だ。
そこには「同人誌」という、いささか特殊な単語が含まれていた。
だが、あえて詳しく説明するつもりはないらしい。
補足に付け加える必要がないことを、あらかじめ知っているみたいに。
そして、たしかに俺はそれがどういうものかを、大まかには把握していた。
だが、心持ち声量を抑え、念のために確認してみる。
「同人誌っていうと――同人誌即売会とか、同人ショップとかで購入できたりする、あの同人誌のことか?」
「そう。その同人誌」
織枝は、こくりと首肯した。
どうやら間違いないらしい。
――【どうじんし[同人誌]】。
主に商業出版に
ネットスラングでは、俗に「薄い本」と呼ばれることもある。
製本形態は様々だけれど、基本的には自費出版の印刷物だと思う。
二〇一〇年代後半の現代日本においては、取り分け漫画/アニメ/ゲームといったサブカルチャー分野に関連した小冊子が、数多く作成されている。
その内容は、既存作品をリスペクトしたファンによる二次創作をはじめ、執筆者オリジナルの漫画や小説、画集や写真集の他、エッセイ・評論に至るまで、多岐に渡ると言っていいだろう。
また、非商業作品とはいえ、アマチュア作家のみならず、プロ作家がプライベートな「遊び」で制作する場合も、決して少なくない。
……その同人誌を、一緒に作る?
この子と、俺が?
「あ、あんまり急なことなんで、どう言えばいいのかわからないんだが――」
差し当たり、俺は言葉を紡いで自らを落ち着かせ、頭の中を整理した。
それから、目の前のクラスメイトに尚も質問を重ねる。
「どうして、俺に同人誌作りの話を持ち掛けてきたんだ?」
そう、これは大いなる謎だ。
俺と織枝のあいだには、顔見知りのクラスメイトである以上の接点はない。
記憶の範囲をたどる限り、これまでは間違いなくそうだった。
にもかかわらず、なぜ織枝は「一緒に同人誌を作ろう」などと、俺を誘ったのだろうか?
何しろ、俺は過去にこれといって創作活動の経験もない。
いわゆる帰宅部なので、身軽な立場ではあるけれど、そんな人間は校内にいくらでも居る。
もし、同人誌作り――
すなわち「同人活動」について、俺が何らかの適性を持っているとしたら、せいぜい「アニメ好きなオタクであること」ぐらいだ。
さて、ならば織枝は、いつどこで俺がオタクだと知ったのか?
その疑問に対する回答は、ほとんど俺にとって想像の埒外にあるものだった。
「以前に何度も、笠霧駅前にある『ねこブ』の店内で、冴城くんを見掛けたことがあるから」
「――はあ?」
「それで、いつも必ず『ラブクル』シリーズの同人誌が並んでる棚の前に立って、新刊が入荷してないかチェックしていたよね。特にきょうきこ本を中心に……」
静かな口調で言ってから、織枝は再びこちらを覗き込むように眼差す。
「そうだよね、違う?」
……その通りだ、違わない。
でも、俺は思わず目を剥き、即座に返事ができなかった。
織枝の言葉に登場した「ねこブ」と言うのは、「
同人誌を店頭で取り扱って、委託販売している書店(これを便宜的に「同人ショップ」などと呼ぶ場合もある)だ。全国各地で営業を展開している。
織枝静葉は、そこで俺を幾度か目撃したのだと言う。
裏を返すと、この子もかつて「ねこブ」に来店していたわけだ。
それもおそらく、俺と同じかそれ以上の頻度で。
「だから、織枝は――俺が同人誌を理解していて、オタクでもあると察したってわけか」
「ええ。冴城くんなら、私を手伝ってくれるかもしれない、と思ったの」
どこまでも真面目腐った表情で、織枝は肯定する。
俺は、何だか一瞬、その説明が随分と都合のいい話のように思えた。
クラスメイトの二人が、たまたま何度も街中の店で出くわす?
そんなことが、果たしてあり得るのか。
……とはいえ、よく考えてみると、別の見方もできることに気が付いた。
同人誌を購入する手段は、ある程度限られている。
最も一般的なのは、同人誌即売会のようなイベントに参加すること……これは
だが、それ以外となると、Web通販の類で入手するか――
あるいは、今話題に上った同人ショップで買い求めるかだろう。
笠霧駅前の「子猫ブックス」は、市内唯一の同人ショップである。
なので地元在住のオタクなら、自然とそこへ足を向ける機会は増えるはず。
そして、目の前のクラスメイトがオタクであることは、もはや疑う余地もあるまい。
なるほど類推していけば、俺とこの子が過去複数回に渡って、意図せず接近していたとしても条件的には不思議じゃなかろう。
実際のところ、かなり「必然に近い偶然」だったのかもしれない。
もっとも、俺は「ねこブ」の店内で、織枝の姿を見掛けた記憶が一度もなかった。
いや、ここまでの話が事実なら、単に気付いたことがなかっただけなのだろうけど。
「でも、同人仲間が欲しいのなら、俺以外にも適当な人間は他に居たんじゃないのか」
「あのね、冴城くん。オタクなら誰でも良かったってわけじゃないんだから」
織枝の口振りは、そこがまさしく肝心な点だ、とでも言いたげだった。
「同人誌は、同好の士が共に作るものでしょう。――ジャンル的な部分でも、私と同じ趣味を共有してくれる人じゃなければいけなかったの」
「ジャンル的な部分でも同じって……俺と、織枝がか?」
織枝は、もう一度「ええ」とうなずき、大きな瞳に熱を宿らせる。
そのとき、辺りに一段と強い風が吹いて、ざああっ……と、頭上で樹木の枝葉が揺れた。
咄嗟に怯んで、俺は顔を
けれど織枝は、長い黒髪をなびかせつつも、うろたえる素振りもなく直立していた。
「――私には、美少女系の百合作品を、共に愛好する仲間が必要なの」
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