決別

 そして、俺は自宅へと帰って来た。


 相変わらず、家の中は真っ暗だ。母さんが亡くなってからは、ほとんどひとり暮らしのようなものだ。たまに酔った親父が家に来ることはあるが、そのときは殴られながら説教されるだけだった。


 その説教内容は、「この世は搾取する側と搾取される側しかいない」「勝ち組になれ」「この世は弱肉強食だ」「俺のような成功者になれ」など、一方的な話だ。


 毎回そんな説教をされながら殴られれば、学習意欲も、勝ち組になるために努力することも、嫌になるというものだ。そもそも、「俺のようになれ」だなんて、ふざけている。暴力と愛人関係で母さんを追い詰めた張本人は親父なのだ。殺したも同然じゃないか。そんな人間のようになれだなんて、ふざけすぎている。


 東京に戻ってきた途端、この五日間忘れていた、暗い感情が込み上げてくる。  限界村にいる間はすべてを忘れることができたが、この家に帰ったら嫌でも思い出してしまう。この家にいる限り負の感情からは逃れられないのかもしれない。


 そのとき。


 ――ガチャガチャ! とドアの鍵を開ける音がした。


 サッと、俺の心に緊張が走る。このタイミングで、帰ってきたのだろうか。


 今の俺だと、親父に向かって、なにを言うかわかったもんじゃない。下手すると殺されるだろう。もともと体育会系だった親父の腕っぷしはかなり強かった。しかも、うちに来るときは例外なく酔っぱらっている。俺のことをサンドバッグにしに家に帰ってくるようなものなのだ。


 いつもは嵐が過ぎ去るのを待つようにじっと耐えて殴られ続けたが――もう、俺はロボットでいることに甘んじない。


 前に進むためには、逃げてはだめだ。……俺は、逃げ出したくなる足を押さえつけて、その場で親父が来るのを待った。


 廊下を、重い足音が進んでいく。実際の体重よりも重量感のある、足音。それだけでも、十分に威圧感がある。


 やがて、リビングに、その足音の主――親父が入ってくる。恰幅がよく、目つきが鋭い。愛人が何人もいるだけに、顔がいいのは、認めるが。


「……おい、邪魔だ、クズ……」


 リビングのテーブルの側に立つ俺に、据わった目を向けてくる。かなり酒くさい。機嫌がかなり悪いことは明白だった。


「……話がある」


 俺の声は震えていた。親父が母さんを殴った場面が脳裏でフラッシュバックして、奥歯に力が入った。それでも、冷静に話を切り出さないといけない。もし殴りあいになるとしても、伝えるべきことを、伝えてからだ。


「俺はお前の話を聞いている暇などない! おい、そのリュックはなんだ? お前、どこか旅行にでも行ってたのか、学生の分際でっ! 生意気だっ! そんなことをしているから、去年よりも成績が下がってきてるんだ。なんだ、あの成績は!? 俺は東大以外は大学とは認めんぞ! 東大に入れないようなら今すぐ死ね!」


 一学期の通知表は、FAXで親父に送っていた。そのあと、すぐに限界村に行っちまったから、そのあとどういう返事が来たかは知らないが。


「スポーツもできない、人間関係もろくに築けない、アニメだの漫画だのというくだらないものにばかりにうつつを抜かして勉強までできないようでは、救いようがないなお前はっ! 本当にお前は凡人以下だ! 貴様の名前は田々野クズにすべきだったなぁっ!」


 酒臭い息をまき散らしながら、まくしたてる親父。その目は、心から俺を見下していた。……まぁ、そうだろうな。運動もできて、勉強もできて、最高学府に入り、その後はひたすら出世して社会的に成功を収めている親父からすれば、俺なんて無能なクズだろう。


「おい、聞いてるのか! このクズが! お前のようなやつを見ると、本当に反吐がでる! まったく、それでも俺の息子か貴様はっ! まったく、誰に似たんだっ!……あの女のような顔をしてっ……お前のツラを見ていると、腸が煮えくり返るっ!」


 この家に住んでいる手前、なにを言われてもしかたない面もある。今までの俺だったら、このまま親父の気が済むまで説教をされて、殴られ続けただろう。


 だが、俺はもう、逃げない――。

 俺にはもう、帰るべき場所があるから。

 だから、進む。


「……話があるんだよ、親父。いや、もうここで縁を切るから、親父でも、なんでもなくなるか」

「なにぃ?」


 親父は眉間に皺を寄せて、頬をヒクつかせる。


「……俺は、この家から出ていく。そして、もちろん、あんたともおさらばだ」

「お前のような生活力のないクズが、なにを世迷言を言っている! お前のくだらん妄想に付き合うほど、俺は暇じゃないんだぞ!?」


 神経質そうな顔が、ますます赤く、怒りの色に染まっていく。こめかみのあたりに青黒い血管も浮き上がっている。よくここまで怒れるものだと、呆れるぐらいだ。


「……最初から、こうすればよかったんだ。母さんも……こんな奴のために、家に留まり続けて命を落とすことなんてなかった!」

「っ!? キサマぁぁあああっ!」


 親父の前で、母さんの話はタブーだ。例外なく、激昂することになる。

 だが、俺はあえてそのタブーを破った。


「殴れよ。母さんを殴ったみたいに。自分の都合の悪いことを言われたら、暴力で黙らせるんだろ――ぐがっ!?」


 親父の拳が、俺の左頬に真っ直ぐに叩きつけられる。

 なんの躊躇もない、暴力。

 母さんが、ずっと受けていたその拳を、今度は俺が受ける。


 ……なんで、俺、もっと母さんの代わりに、殴られなかったのかな……。

 今さらながらそんなことを思いながら、俺はリビングの床に叩きつけられた。


「このクソガキがッ! お前になにがわかる! このゴミクズがっ! 死ねっ! お前など死んでしまえっ!」


 親父に蹴られながら、思い出す。


 ……ああ、俺が割って入って、かえって、俺を守るために、母さんはさらにひどく殴られたんだった……。それから、俺は、必要以上に、夫婦喧嘩に介入することはなくなった。母さんが、もっと酷い目に遭わないようにするために……。


 俺に、もっと力があれば……。二階の自室で、俺はいつも泣いていた。悔しくて、無力で、怖くて、無能で……。俺なんか、なにもできなくて。なにもする能力がなくて、本当に無力で――。


 昔を思い出す間にも、全身を親父に蹴られ続けた。


 背中、腰、腕、腹、足――。何十発も蹴りを入れられて、痛みが痺れに代わり、意識が遠のきそうになる。


 そして、どれだけの時間が過ぎたのか。ようやく、親父の蹴りは止まる。

 ふーっ、ふーっ!と荒い息を吐いて、俺のことを見下ろしている。


「……ふん! これに懲りたら、減らず口を改めるんだな! このクズが!」


 親父は、そのままドスドスと踏み鳴らして廊下を歩き、乱暴にドアを開け、家から出て行った。


 ……まぁ、話し合いの通じる人間じゃないのはわかっていた。

 ……だが、これで清々した。


 あとは、もうこちらで進めさせてもらう。さっさと身辺整理をして、この家から出ていく。母さんと過ごしたこの家を出て行くのは、寂しい気持ちはある。

 でも、いつまでもこんなところにいたら、俺は一歩も前に進めない。このままでは……ずっとこのままだ。



 俺は、痛む体で、そのあとは一晩中、自分の部屋の整理をした。必要なものと着る服などを、母さんの形見でもある旅行用のトランクに入れる。


 あとは、明日全額貯金をおろして、限界村に向かへばいい。本当に、来たばかりで、すぐ戻ることになったが。


 しかし、ただ逃げるだけではいけない。

 依存するために限界村に行くんじゃない。


 村のため、まつりやかすみさん、あずささん、ひなたちゃん、ひなたちゃんのじーさんのために役に立たねばと強く思う。


 人生いちからやり直しだ。もう、腹は決まっていた。

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