人生最大の童貞喪失の危機!~深夜のベッドで攻防戦~

 食器を洗うのを手伝って(舟盛用の舟を洗うのは大変だった)、いまは自室。限界村三日目の夜だ。


 別に風呂にまつりが乱入してくるということもなかったので、あとは寝るだけだ。しかし、どうにも眠れない。横になってみるものの目が冴えてしまっている。


 目を閉じようとても、今日の相撲のことが思い浮かんでしまう。特に、まつりとのキスのことが――。


 あれが、俺のファーストキスなわけだ。あのあずささんとの人工呼吸の練習を除けば。……まぁ、あれは唇が接してないからな。空気が食道あたりにちょこっと入ってきただけだし。


 そんなことを考えていたところで、コンコンとドアがノックされる。


「はい?」

「あ、凡人。起きてる?」


 ドアの向こうから聞こえてきたのは、まつりの声だ。そろそろ零時近い。こんな時間になんの用だろうか?


「おう、起きてるぞ」

「入っていい? ちょっと、眠れなくてさ……。少し話せないかなって」

「あ、ああ、いいぞ。俺も眠れなかったからな。話すか」

「じゃ、入るね」


 ガチャッとドアが開いて、パジャマ姿のまつりが入ってくる。

 俺が起き上がって、机と椅子のあるほうに行こうとすると、


「ベッドの上で話そ?」


 と、まつりに言われてしまう。なんかその単語だけ聞くと、キワドイ感じだが……ま、まぁ、ベッドに座って並んで話すだけだから、別にやましいところはないはず……だ。


 俺とまつりは、ベッドに並んで腰掛ける。こうして、すぐ横にパジャマ姿の女の子がいると、やっぱり緊張する。


「ね、どう? 限界村での生活」


 まつりはなぜか俺に体を寄せながら、訊ねてくる。シャンプーのいい香りがふわっと匂って、俺の鼻腔をくすぐった。


「……あ、ああ。とても、いいところダト、思うゾ?」


 つい、語尾がカタコトっぽくなってしまう。


「ね、あの……あれってさ、凡人のファーストキス?」

「ごほっ、げほっ、がほっ……」


 いきなりすぎる質問に、気管に唾が入りかけた。


「だ、だいじょぶ?」

「あ、ああ……ごほっ、だ、大丈夫だ……う」


 気づかうように顔を近づけたまつりの唇を、もろに見てしまう。


 ……くっ、なんて形の良い唇なんだ。厚すぎず、薄すぎず。そして、色もいい。濃すぎず、薄すぎず。絶妙のバランスだ。その唇に、俺は思いっきり、自分の唇をぶつけちまったんだよな……事故とはいえ。


「間違いなく……あれが俺のファーストキスだ」


 リア充の中には、幼稚園の頃にキスしたとかされたとかほざく奴がいるが、生まれついての非リア充である俺を舐めてもらっては困る。幼稚園時代から、俺は非モテ街道まっしぐらだ。生まれながらの童貞チャンピオンだ。


「そ、そっかぁ……」


 そう言って、まつりは改めて自分の唇に指を添える。いや、その仕草はググッとくるものがあるから、目の前ではやめてほしいのだが……。


「そ、その、……まつりも、その……ファーストキスだったのか?」

「そ、そんなの……はじめてに決まってるじゃないっ!」


 そう言って、まつりは唇を抑えたまま、顔をますます赤くして、俯いてしまう。


 くっ……。なんだ、この胸の中がモニョモニョする気分は。甘酸っぱすぎて、耐えられない。恋愛経験値0の俺には苦行すぎる。


「……あたしのこと、どう思ってる?」

「ど、どうって……」


 口ごもる俺を真っ直ぐに見て、まつりは質問をし直す。


「あたしのこと……好き?」


 す、ストレートすぎるだろおおおおお……!


 まつりの顔に負けないぐらい、俺の顔は真っ赤になっていると思う。もう、顔から火がでそうなほどに、熱い。


 しかし、まつりらしいといえば、まつりらしい。

 しかし……あまりにも直球すぎる質問だ。


 好きか嫌いとか言われたら、好きに決まっている。しかし、この場合の好きはライクではなく、ラブであろう。


 そこまで、断言できるか? 俺は、まつりのことをラブとして好きなのか?


 正直、それを判断するにはあまりにも日数が短すぎる。なので、誤魔化すことにする。


「好きか嫌いといったら、間違いなく好きだ。しかし、まだお互い出会って三日だろ? もうちょっと、お互い、一緒に過ごしてから判断すべきじゃなかろうか?」


 途中から自問自答みたいになってしまっている。なかろうか、ってなんだ、なかろうかって。


「相変わらず、あんた、難攻不落だよね」


 俺を城とか要塞みたいに言うんじゃねえ。あまりにも悲しいだろ、難攻不落の童貞城とか絶対に落とせない童貞要塞とか。


「まぁ……まだ俺たち十七だからな……。かすみさんの言うとおり、急ぐことはないのかもしれない」

「んー、このカタブツめ」

「俺は清く正しく美しく童貞だからな」


 俺の童貞力は五十三万を遥かに超えている。その俺が、千載一遇どころか兆載一遇のチャンスを迎えているのだから、さっさと飛びつくべきなのかもしれない。


 しかし、安易に流されるのは俺の人生哲学に反する。童貞こそが、俺の美学でもあるのだ。確固たる信念に基づいてこそ、童貞は捨てるものだ。それを捨てるだなんて、とんでもない!


「……ま、そういうところが、好きなんだけどね」


 そう言って、まつりは不意打ちに気味に、俺の頬にキスをしてきた。


「おっひょおおおおおおおおおおおおおおおううう!?」


 ほっぺたに触れる唇の感触に、俺は飛び上がる。あまりにも不意打ちなので、奇声を発してしまった。


「ちょ、びっくりするじゃない! おかーさん、起きちゃうでしょ!?」

「す、すまん……って、お前が不意打ちするからだっ!」

「今度は、口にしてあげよっか?」


 まつりは『んーっ』と唇をタコみたいにして、俺に伸ばしてくる。


「や、やめいっ」


 顔を近づけてくるまつりの両肩に手をやって、接近を防いだ。

 ちくしょう、俺のピュアな童貞心を弄びやがって……。


「ま、冗談は置いておいて。そろそろ、眠くなってきちゃった……」


 まつりはそう言って、俺の肩によりかかってくる。


「お、おいっ……寝るなら、自分の部屋に戻って寝るのだ!」


 また語尾がおかしくなっちまったじゃないか。自由すぎるまつりを前に、俺はいつだってペースを崩される。


「んー……ここで寝る」

「だめ」

「けちー、いじわるー、どうてー」


 どどど、童貞で悪いかっ!

 ともかく、寝ている間に何をされるか、わかったもんじゃない。この超肉食系まつりさんには自室にお帰り頂くしかない。


「いーじゃん、ここで寝てもー……」

「だめ、ぜったい」


 俺の中のメガネ風紀委員長も、お怒りに違いない。


(Zzzzz……)


 って、寝てらっしゃる!? おい、起きろ! ここが正念場だろ!


「くっ……ふああぁ……。うぅ、俺も、眠くなってきたじゃないか……」

「ん、ふあぁああああ…………あくびって移るよね……なんでだろ」

「さあな……」


 いかん……。瞼が落ちてきた。そういえば、今日は相撲だ宴会だでずいぶんと疲れたもんな……。


「ほら、早く部屋へ行くんだ」


 俺はまつりの両腕を掴んで、無理矢理立たせる。ここまですれば、大丈夫だろう。……と、思った俺が馬鹿だった。


「くうー……」


 まつりが思いっきり俺のほうに倒れ込んできた!


「うっわわっ!?」


 俺を押し倒すように、まつりの体がのしかかってくる。なんとか顔と顔の接触は避けたが、俺の首筋のあたりにまつりの顔が……。というか、髪が首筋をくすぐって、やばい。そして、この至近距離でシャンプーの匂いは……!


 う、ううううう……!


 血が沸騰するような感覚に襲われる。やばい。こんな感覚ははじめてだ。理性を失ってしまいそうになる。


 だめだ、耐えろ……! 俺は童貞の中の童貞……童貞キングじゃないか!

 こんなところで理性を失ってしまうだなんて、絶対に許されることではない。


 し、しかし、ああ……いい匂いだし、髪サラサラしてるし、体も柔らかいし……。

 ……ん? でも、やっぱり、こいつ、まな板だな……ぜんぜん胸が柔らかくない。


「……あんたいま、わたしの胸について失礼なこと思わなかった?」


 ぱちりと目が開いて、まつりが睨んでくる。


「って、起きてるのかよっ!」

「衝撃で起きただけよ……もうっ」


 ふぅ……どうやら俺は、このまな板のおかげで、命拾いしたようだな。これがまな板じゃなくて肉まんだったら、俺の理性は吹っ飛んでいた可能性がある。


「ふああ……でも、眠い……。寝る。やっぱり、ここで寝るから」

「なっ、ちょ、ちょっと待てって」

「問答……無用……これ以上抵抗すると、キスしちゃうんだから……」

「なっ、わっ……」


 まつりは全身をベッドの上に乗せて、俺の全身に覆いかぶさってくる。そして、俺の胸に顔を埋めてしまう。


「ちょ、ちょっと待て! 寝るならせめて、この体勢はやめろっ! こんなんで、眠れるかあぁっ!」


「くー」

「起きろ、起きろって!」


 しかしながら、本当に眠ってしまったのか、まつりは起きてはくれない。


 ……こ、こんな状態で眠れるわけねぇえええええええええええ!


 全身のあらゆるところに、まつりの体があたりまくってる。顔を動かすたびに、髪が首筋をくすぐり、シャンプーの匂いは強まるばかりである。


 童貞の俺には、いや、普通の青少年男子なら、耐えられない苦行である。


「起きろ、起きろってヴァ!」

「むにゃむにゃ……もう食べられないよぉ……くー」


 くそっ、超肉食系まつりめ……。とにかく、ここで俺が理性を失うわけにはいかない……って、これ、朝までずっと耐え続けるとか、どんな無理ゲーだ!


「くっ……」


 やばい、鉄壁の童貞守護神である俺ですら、この状況はヤバイ。このままでは、ゴールを許してしまいそうだ。もう、本当に、だめ、かもしれない……。



(……ここまできて、諦めるの?)



 ……!? この声は!


(……あなたがずっと守り続けてきたものを、そんなに簡単に手放してしまってもいいのっ!?)


 そう。この声は、俺の童貞無敗人生の勝利の女神たるメガネ風紀委員長のものだ。


(ほら、凡人くんにはわたしがついているから、煩悩を振り払って、悟りを開き、この局面を切り抜けるのよっ!)


 そんな急に悟りなど開けるわけがない。しかし、まつりに乗っかられているという現実を直視し続けたら、俺の理性は朝まで持たないだろう。


 ……考えろ。なにかあるはずだ。この難局を乗り切るための、手段が。


「んぅん……」


 まつりがもぞもぞと動いて、ますます髪がサワサワと首筋に揺れる。ってか、俺の胸元にまで髪がっ……!


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」


 俺は目を血走らせながら、荒い息を吐いている。かなり、やばい人間だ。しかし、ここで流されるわけにはいかない。俺は、男だ……!


(そうよ、頑張って、凡人くん……! あなたの童貞を奪っていいのは、わたしだけ!)


「え?」


(う、ううんっ、なんでもないわ! 頑張って耐え続けて!)


 なにか気になることを言っているが、よく聞き取れなかったので、スルーしておこう。たまにこのメガネ委員長は、実在するんじゃないかと思うような言動をする。俺の作り出した脳内設定だけでは片付けられないものを感じるのだ。


 なんか、一度だけ妹尾くんの家で会ったことのある妹尾君の姉の声に似ている気がするのだが……。まさか……な。


(そ、そ、そんな、わたしが妹尾家と関係あるわけあるないじゃない! 凡人くんにひとめぼれしたわたしが凡人くんの精神に干渉して童貞喪失の邪魔をして、いつかわたしが童貞を奪おうとしてるだなんて……そ、そんなことあるわけないでしょ!? あは、あはははは…………)


 ううむ、なんか、やっぱり、怪しい……。でも、その話は置いておくとして、現状をどうにかすることを考えないと。


「ふにゅうぅ……猪、つかまえた」


 寝言でそう言うや、まつりは俺の両脇の下に手を通して、抱きついてくる。しかも、両脚を使って、俺の両足を押さえ込んでくる。


 うっ……これは完全に入っている。肩も、足も決まっていて、脱出不可能だ。


 これはいわゆる柔道でいうところの『縦四方固(たてしほうがため)』だ。女の子に掛けられたら理性が吹っ飛ぶ寝技ランキング一位である。ちなみに二位は『上四方固(かみしほうがため』、三位は袈裟固(けさがため。※ただし巨乳に限る)。……とかなんとか考えてる場合ではない! まさか、相撲の次は柔道だなんてっ!


 しかし、まつりからますます全身に強く抱きつかれて、容赦なく体が当たりまくっている。うわああ……なんで女の子の身体ってこんなに柔らかいんだ! こ、このままでは、理性が……!


 ……しかし、その中でも、胸だけはやっぱりまな板だった。

 ……本当に、こいつの胸、まな板だな……。

 ……。……! ……っ!? そ、そうだ! まな板だ! このまな板なら……!


 俺の頭に起死回生のアイディアが浮かんだ。


「……まな板が、一枚……まな板が、二枚……まな板が、三枚」


 俺は羊を数える要領で、まな板を数えはじめた。

 まな板を数え続けることで、俺は煩悩を追い出すことにしたのだ!

 ……俺がヒンヌー教徒じゃなくて、本当によかったぜ……。


「まな板が、四枚……まな板が、五枚……!」

「うぅ……う、うーん……うーん……」


 お、効いてる、効いてる……。

 まつりは脂汗を流しながら、己のコンプレックスに苦しんでいるようだ。


 やられっぱなしはごめんだからな。まつりにもせいぜい苦しんでもらおう。それで、目を覚ましてもらえれば、なお、よい。


「ククク……どうだ、思い知ったか、まつり……。まな板が六枚、まな板が七枚……」


(さ、最悪で最高な手だわ……!? 凡人くん、恐ろしい子……!)


 委員長もドン引きしているが、これで俺の煩悩は振り払うことはできる。まな板は童貞を救う。


 コッチコッチと時計の針が聞こえる中、俺はまな板を数え続ける。

 そして、ついに――。


「まな板が、百枚!」

「う、ううっ……!」


 ついに、百まで数え終わった。まつりはすっかり汗びっしょりだ。正直、俺も汗びっしょりだ。ヌルヌルして、シャワーを浴びたい。というか、やっぱり、女の子の体とはいえ、ずっと下敷きになっていると、重い……。


「おい、起きろ、まな板……じゃなくて、まつり」

「うー……まないたぁあぁ……」


 やりすぎたか。ちょっと、目尻に涙がにじんでいる。


「ほら、起きろ。お前も、熱いだろ?」

「むにゃむにゃ……ちゃんこ鍋、おかわり……」


 だめだ、こいつ……。というか、俺ももう、まな板を数えることに疲れた。

 もう、いいか……。頭の中がまた板でいっぱいで、煩悩はだいぶ吹き飛んだ。


 こうなったら、さっさと寝てしまおう。

 そうして、攻防に疲れ果てた俺は、ついに眠りに落ちていくのだった。


 明日の朝が平和でありますように、と願いながら――。


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