俺が好きだった美しい女はとても美しく微笑んだ
「やるだけのことはやったんだ。あとは結果待ちだよ」
俺がそう言うと、キャリーは「フーン、そうなんだ」と、そっぽを向いて興味なさそうにストローでアイスカフェラテを掻きまわした。
明けて土曜日の午後、昨日の夜のことがあって家に居づらかった俺は、朝から街をブラついていて、同じように早めに街に出てきていたキャリーと昼過ぎには合流した。練習に使っているスタジオ近くのタリーズコーヒーで時間を潰すついでに、俺は昨日のオーディションの手応えをキャリーに報告していた。
「よく分からないけれど、でも、いい顔になったかもしれないね」
キャリーは結局、掻きまぜたアイスカフェラテには口をつけずにそう言った。「大人の顔になったかも」と、テーブルに頬杖をついて、俺の顔を覗き込むようにする。
「顔なんか、そんなすぐに変わるもんか?」
俺が口を曲げてそう疑問を呈すると、キャリーは「当たり前よ」と平然と答える。
「顔は心を写す鏡だもの。心が変われば、当然、顔も変わってくるわ」
たったの一日で、心が、なにか変わっただろうかと俺は思う。ただたんに、東京のスタジオまで出かけていって久我山輝美と、あと知らない何人かの前でドラムを叩いてきたってだけの話だ。たしかにこれまでにない種類の経験だったし、体験したことのない緊張感ではあったけど、でも、そんなことで、心がなにか変わったりするだろうか。
「ああ、でも」
「でも?」
「とてもじゃないけど太刀打ちできない、とまでは、実際、思わなかったんだよな」
オーディションでは、久我山のピアノと軽く合わせるシーンもあった。久我山のほうで合わせていてくれただけのことかもしれないが、俺のドラムと久我山のピアノで、不思議としっくりくる感じがあった。とても俺では見合わない、という風には感じなかった。いや、あれは多分……。
「久我山も、別に本当に天才ってわけじゃあ、ないんだろうな」
久我山も藤見も、若き天才という触れ込みで事務所は売り出そうとしているし、実際に、久我山はクラシックからの転向だから、ピアノ歴はトータルすればほぼ年齢と等しい。ある種の英才教育によって生まれた天才ではある。
でも、久我山のそれは天性の才能や勘でやっているのではなく、膨大な理屈と理論と、練習と訓練の積み重ねの結果なのだろうと思われた。個性的な旋律もグルーヴも、個性的に聴こえるような理屈に則ってやっているような、ある種の整然さがそこにはあった。つまり、タイプとしては俺と同じ系統だ。習熟の度合いが圧倒的に違うとはいえ。
ならば、たとえ今は劣っていたとしても、俺だってそこに到達することはいずれできるのだろう。たしか俺は、そんなことを思ったのだった。その感覚は、昨日の出来事のはずなのに、もう遠い昔のことのように、俺からは離れたところにある。
「自信がついたのかもね」と、キャリーがクスクス笑う。「神経質そうな、いつもイラだっているような、ブランカみたいに地肌からビリビリ電気を発してるみたいなあの感じがなくなった気がする」
そう言われてみれば、と俺は俺の、胸の内側を探る。
そこにあるはずのマグマが、ない。
なくはないが、それはもはや灼熱に滾ってはおらず、じんわりとした炭火のような熱源に代わっていて、ほのかに暖かいような。
「マグマが冷えるとね、大地になるのよ」
あまり見たことがないような優しい笑顔で、キャリーがそう言った。「大地というのは礎よ。しっかりした大地があって、そこに地層が堆積して、それでようやくなにかが芽吹くのよ」
いまはまだ、スカスカのスポンジみたいな不毛の大地って感じだけどね、と歌うように節をつけて呟いて、キャリーはようやくアイスカフェラテに口をつける。その横顔は相変わらず美しくて、まるで大地の女神のようだと思う。豊穣を司るアフリカの大地の女神。
「俺、キャリーのことが好きだよ」
なぜだか知らないけれど、急に俺はそんなことを口走っていた。チャンスの女神の前髪が見えたのかもしれない。たまに見間違いをすることもある。
「10年早いわ、少年」
キャリーは1ミリたりとも表情を動かすことなく、平然とそう答えた。まるっきり、心は揺れなかったらしい。大地にしっかりと根ざしている。地平線を見渡せるアフリカの大地に佇む、そんな巨木をイメージする。
「でも、実際あと10年もしたら、ハジメはいい男になるかもね」
「アンタだって、あと10年もしたらますます美しくなって手を付けられなくなってるだろ」
俺がそう言うと、キャリーは堪え切れないという雰囲気でプッと吹き出して、俺はなんだか一矢報いてやったような気分になる。
「ええ、その通りよ」
そう言って、俺が好きだった美しい女はとても美しく微笑んだ。
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