狭間の日常⑤
簡素な白い部屋。机と椅子とソファーに本棚があるだけだった。あまりものを置くのを好まない、と言うかそんな余裕のなかったせいで生まれた部屋でもある。
「さてどうするか」
七瀬はシャワーに入っていた。ガスも水道も止められていたせいでそれもしばらくぶりらしい。
川蝉は彼女の居所を考える。寝るところは元々妹の使っていたベッドを使わせれば問題ないだろう。食器なども家族が使っていた物を使い回せばいいだけだ。
不便はなさそうである。ここは元々四人暮らし、本来なら一人には物が多すぎるのだ。
「そうだ」
バスタオルを持って行かねば。
それと着替えも妹の夏に使っていた物を渡そう。
川蝉はそれらを持って脱衣所へ向かう。ドアの前に、洗面台のところにでも置いておけばいい。
そう思って足を踏み入れた時だった。
「いやぁ、生き返ったっす!」
ガチャリ――
満足そうな笑みを浮かべた七瀬が浴室のドアを開けた。
「あっ……」
七瀬の健康そうな裸体が眼に入る。程良い肉感のあるふんわりとした柔らかさと色気を感じる体だった。
それが口をパクパクさせ、完全にフリーズしている。
――そう言えば前にもこんなことが。
七瀬と初めて出会った夜を思い出す。
今回もあのときと似た対応で問題はないはずだ。
「これバスタオルと寝間着。妹の使っていた物だから。不便があったら言ってね」
「……はいっす」
悪いことはしていないので堂々とする。
とは言え申し訳ない気持ちはあったので、こっそりと川蝉はその場を去るのだった。
*
黄色く丸い満月が空に浮かぶ。
中央線の線路沿いに川蝉と七瀬は歩いていた。
近くにあったスーパーに二人で夕飯のお弁当を買った帰りだ。白いビニールの買い物袋を引っ提げる。
七瀬は鼻歌でリズムを取るほど上機嫌だった。
「一日に二食も取れるなんて幸せ。これも川蝉さんのおかげっす」
「それはよかった」
「そうだ、私達って同い年なんすよね?」
「みたいだな」
共に今年で十七歳になる学年だった。高校生で言えば第二学年に当たる。七瀬の体型から中学生ではないだろうとは思っていたが、まさか同じとは。
「じゃあ下の名前で『透さん』って呼んでいいですか?」
「それは構わないけど」
「やったっす、えへへへ」
七瀬はニコニコと満面の笑みを浮かべるのだった。
*
時計を見るとすでに二十三時を回っていた。
食事も風呂も歯磨きも終え、川蝉はあとは寝るだけになっている。
――もう寝るのか。
未だにこのスローライフは慣れていなかった。ダンジョンに行く前はバイトが終われば夜十時、そこから帰宅して晩御飯や身支度をすれば十二時に、次の日も朝の五時には出発しなければならずできるだけ迅速な睡眠を。
余裕と言うものは一切なかった。
だからなのか解放されてすぐは時間の使い方が正直よくわからない。
――勉強でもした方がいいのか。
大検と言う高校卒業程度の資格があると、バイト先の大人から聞いたことがある。調べてみる価値はあるのかもしれない。
「さて」
それはそれとして居間の電気を消そうと立ち上がった。
すると寝室からパジャマ姿の七瀬が入ってくる。
身長のサイズは問題なかったが、胸だけはぱっつんぱっつんでボタンがはちきれそうなくらい盛り上がっている。
「透さん、ちょっといいですか?」
「いいけど」
七瀬が枕をちょこんと抱いてやってくる。
川蝉が木製の椅子を引いて座ると、七瀬はソファーに腰を下ろした。
彼女の顔は芳しいものではなかった。
「次っていつなんすかね」
「ダンジョンのことか?」
「はい……」
「近い内に、と黒業から聞いている」
「そうっすか……」
川蝉の情報を聞くと、七瀬の顔はより一層暗くなる。
「またあそこに行かなきゃ行けないんすよね。……私、正直行きたくないっす」
七瀬は溜めていたものを少しずつ出すようにぽつぽつと語り出す。
「あんなところ、私みたいなのがどうにかなるわけなかったんすよ。前だって透さんがいろいろしてくれたから、どうにか生きてますけど……」
話しながら体育座りで枕を抱きしめる。
「ダンジョンから戻って、ふとした瞬間にいつも考えちゃうんす。万が一、次に生き残れても、また次がある。それを奇跡で乗り越えても次が……そんなの私ができるわけない」
最後は消え入るような小さい叫びだった。
七瀬が枕から顔を離して、川蝉のことを見上げてきた。
その眼にはうっすらと涙が滲んでいた。
「どうしたらいいんすかね? もうこのまま死ぬしか……」
「七瀬……」
川蝉はこう言うときにどうすればいいのか、わからなかった。
安易なことは言えない。死には川蝉自身も何度も直面している。だからこそ言うことはよく理解できた。
そんな七瀬に言えることは一つだろう。
「俺も偶然に生き残っているだけだ。次にどうなるかはわからない。でも俺は生きて帰りたい。稼いで、どうしても成し遂げたいことがある」
例えどんな恐怖があっても、妹のことは諦められない。
覚悟はとっくに決まっていた。
「だから俺は戦う。どう足掻いても俺達は戦うしかないんだ」
七瀬の方に川蝉は手を差し伸べた。
「でもできるだけキミのことは守る。絶対なんて言えないけど、仲間だから」
「透さん……」
「不安かもしれない。でも一緒に乗り越えよう」
七瀬はその手を自然と握り返してくれた。
瞼を擦って、落ち着いた表情に戻る。
「すみません、こんな愚痴言ってもしょうがないっすのに」
「いや、あんな体験をしたんだ。恐いのは生き残ったみんな同じだ」
「透さんは優しいっすね」
七瀬は川蝉の手に、彼女の指を絡めてくる。そして体が触れるほど近付いてきた。
「今日は一緒に寝ましょうっす、透さん♪」
「いやあのベッドで二人は無理だ。俺はいつも通り布団で寝るよ」
「……つ、釣れないっすね」
苦笑いの七瀬だったが、しかし普段の調子に戻っていた。
――仲間か……。
その言葉自体は深く考えずに言ったことだった。
けれど七瀬の体温を手から感じると、不思議と一人ではないと思うようになった。
孤独から離れるのは悪い気分ではなかった。
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