青結晶の洞窟㉓

 触手のように伸びる油を、川蝉は後退しながら斬っていく。密度の薄い油であれば、簡単に切断することができた。


 だがその量が尋常ではない。その上で時には津波のように大質量の油を仕掛けてくることもあった。緩急の入り交じった怒涛の攻勢に、川蝉も防戦一方になる。


 接近がどうだなどと言っている場合ではなかった。八雲の苦戦がよくわかる。

 それでもどうにか対応できるのは、ひとえに風の魔法による機動力があってこそだった。


 必死に油の進撃を防いでいると、ふと蒼が眼に入る。その蒼はどんどんと大きくなっていった。


 それは八雲の蒼炎だった。川蝉に攻撃が集中する今、彼女の方は動きを制限させる程度の攻勢しかされていない。


 ここは八雲に任せるしかないだろう。


 ワイヤーの展開された蛇腹剣が鞭のようにしなる。

 剣は円を描く軌道で振るわれていた。


 その円が回転する度に蒼炎が強く大きくなっていく。逆巻く蒼き炎は十メートルにも達する程に肥大化していった。


「川蝉君、私に合わせなさい!」


 八雲の声が響く。


 同時に円上の蒼炎が放たれた。

 充分に育ちきった蒼炎が、螺旋の軌道を描く。


 龍のごとき蒼き劫火が、流転しながら一直線に飛翔した。


 それを阻止しようと次々に油の壁が現れていく。何重にもなった厚き壁が要塞のごとき堅牢さで立ちはだかる。


 だがそれすらも蒼炎の破竹の勢いは止められなかった。荒れ狂う蒼い龍は障壁をものともしなかった。


 ――そう言えばあの油は炎で軟化したな。


 その様子を見て、川蝉は閉じ込められた時のことを思い出す。あの時も硬い油が燃えた時、明らかに柔らかくなっていた。


 さすがに対処が必要だと思ったのか、仙人の注意が蒼炎に向く。


 仙人は仰け反るほど大きく息を吸った。そしてそれを吐き出す弾みの力で朱色の炎を吹き出す。


 吹かれた炎は油と反応して一瞬で蒼炎と同規模の規格になった。その灼熱が油を吸って、火勢を増強させながら蒼炎を迎え撃つ。


 朱と蒼がぶつかった。


 同じ火が互いを喰らい合う。均衡した炎は互いに一歩も譲らなかった。水と油のように二つの色は混じり合うことなく、せめぎ合う。


 だがその時間もそうは長く続かなかった。


 段々と朱色の勢力が蒼の層を侵略していく。一度崩されれば、もはや建て直しは不可能だった。


 決壊したダムのごとく、蒼の戦線が崩壊する。


「くっ!」


 八雲は負けるとわかると即座にその場からワイヤーを使って跳躍した。

 灼熱の津波が、八雲がいた場所を燃やし尽くす。


 仙人は勝ち誇った表情で満足そうに首を振る。


「!?」


 だが次の瞬間、仙人は目を見開いた顔で首を後ろに回した。


 川蝉と


 炎の勝負では負けた。だがそれで充分だった。時間稼ぎも仙人の注意を引くのも見事にやってのけてくれた。


 その隙に川蝉は風力を纏って移動していた。足を浮かせ、静かに油の壁を避けて背後に接近したのだ。仙人に目視されないように最大限の集中力を使った。ルートも考え、空気の振動すら操って音も消した。


 ワンドを川蝉は仙人の背中に突きつける。

 苦労の末に得た千載一遇のチャンスである。


「これで終わりだ」


 トリガーを絞る。


 有無を言わせず最大出力を放った。黒い油が防護膜を創ろうとするも、ゼロ距離から放つ魔法はそれを介入させる余地を生み出さなかった。


 鬼神のごとき風刃が竜巻となって撃たれる。その烈風は影響範囲にいた全てを荒らし尽くした。


 そして仙人の体は一切の原型を残すことなく、木っ端微塵に消え去った。すりつぶされたように血と肉が粒子となって霧のようになって飛散していく。


 コアなど跡形も残っていないだろう。


「ふう……」


 勝利が体に染み込んでいく。緊張がゆっくりと解れていった。


 漆黒の油が蝦蟇ガエルを守護していた。最後に仙人が己を守ろうとした形跡である。結局は間に合っておらず、蝦蟇ガエルだけを守る形になっていた。


 ――ボスは倒した。これで後は帰るだけだ。


 ようやくダンジョンから帰還できる。


 川蝉は気持ちを緩め、ワンドを下げた。


 これで全てが終了した――はずだった。


「オッホ!」


 老人が目の前にいた。


「えっ?」


 何のことだかまるでわからず、とっさに出たのは情けない声。


 老人は明らかに先程殺した仙人だった。顔の造形から姿勢、シミの場所まで一寸たりとも狂いはない。


 復活、


 見れば仙人の足が蝦蟇ガエルの背中にあった油と一体化している。あの油から体を再構成して蘇ったのだ。


「アンタ、すごいねえ」


 仙人が関心したように掠れた声でそう言った。


「……っ!」


 川蝉は考えるより先に体が動いていた。本能的にワンドのトリガーを引こうとする。


 だが――


「あぁぁっ!」


 激痛で盛大に呻き声をあげてしまう。


 仙人が川蝉の右腕を握っていた。正確には


 川蝉の右腕はグローブごと圧殺される。骨も神経も全てが異常な圧に消えていく。膨れ上がったトマトを握りつぶしたように、腕が破裂し血が飛び散った。


 皮だけで繋がっていた右手が重量に耐え切れずワンドごと地面に落ちる。べちゃりと汚らしい音をたてて、それは離れていった。


 この老人のような体のどこにそんな力があるのか。いや、そもそもモンスターを見た目で判断する方が間違いなのだ。


 グローブもワンドも壊された。今の川蝉はただの人間と変わらない。


「すごいねえ、すごいねえ」


 褒めながら、老人は今度は川蝉の左腕を剛なる握力で握りつぶした。


「――――ぁ!」


 思わず絶叫をあげてしまう。川蝉がここまで声を張ったのは人生で初めてかもしれないと言うほどだった。


「川蝉君!」


 八雲が救助に来ようと蒼炎を迸らせる。


 だが仙人がそれを許さなかった。油の大群が四方から八雲に迫りかかっている。すでに彼女は己の身を守るので精一杯だった。


 もはや為す術はない。


 体が寒くなってきた。

 炎の衝突で外気の温度は限界まで上がっているのにこの始末だ。


 意識も朦朧としてきている。ハッキリしたところで何も変わらないが。


 黒の油が足を伝って首もとまで上がってくる。それが縄のように巻き付いてきた。

 このまま絞め殺されるか。いや首だけ残されるのだろう。


 ――ここまでか。


 今までも窮地に陥ったことは何度もあったが、今回はわけが違う。


 強かった。ひたすらに強かった。

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