◆アナスタシア編

第14話:イースターの娘




 昨日までの猛暑がうそのようだ。今日は随分と過ごしやすい。

 晩夏の空は忌々しく晴れ渡り、草木は生命を謳歌している。


 俺は夏が嫌いだ。

 秋も冬も春も、あらゆる季節が嫌いだ。

 世の中が、世界が、人間が、自らの血筋が、大嫌いだ。


 ……ああ、クソが。なにイライラしてんだ俺。

 舌打ちすら叶わないこの空間でイラついても、殴られるだけなのに。


「なぁ」

「ん」

「結局教えてもらえなかったな。引き取り先の施設のこと」

「うん」

「もしかしたら、聖都の外かもな」

「かもね」

「かもね、って。お前はそれでいいのかよ」

「別に。いいも悪いもないよ。規則だもん。仕方ないじゃん」


 案外落ち込んだりしないんだな、こいつ。

 さすが暴力女。


「ねぇ、キース」

「あ?」

「やっぱりやめた。言ーわない」

「気になるからそういうのやめろよ」


 返答はなかった。

 車内に静寂が訪れる。

 運転手も気を利かせているのか無言のままハンドルを握っていた。

 黒光りする高級セダンは、俺と暴力女、リンを目的地まで送り届けようとしている。


 青い髪を顎のラインで切り揃えたリンとは、ずっと視線が交わらない。

 当人がずっと、腕に抱いた赤ん坊に釘付けだからだ。

 薄桃色のおくるみに包まれたそいつは、すやすやと気持ちよさそうに眠っている。

 よほどリンの腕の中が心地よいのだろう。

 癖のある灰色がかった茶の髪を撫でられても、起きやしない。


「ねぇ、キース」

「なんだよ」


 今度は言わないじゃ済まさないからな。


「ごめんね。巻き込んじゃって」

「……ったく。お前が謝るとか気持ちわりぃんだけど」


 意外だった。

 しっかりと目を見据えて謝られたことが。

 俺に対して悪意でもなく敵意でもないものを向けてくることが。

 優しくされ慣れてないから、俺にはこの手の抗体がないのだ。だから、くすぐったくて、温かくて、とても恐ろしい感情に脳が支配されてしまう。

 俺はリンを嫌いじゃないんだろう。

 暴力女だけど、嫌いじゃない。

 もちろん好きではないが、信用できる女だから嫌いじゃない。


「あ、起きた」


 覗き込むと、リンの腕の中で赤ん坊が目覚め、もぞもぞと腕を動かしていた。

 つぶらな紫の瞳が、まっすぐリンに注がれている。


「いい子だねー。もうすぐ着くからねー」


 よしよし、とあやしながらリンはふわふわのほっぺをつつく。

 すると、赤ん坊はその指を握った。


「わ、捕まっちゃった」


 小さく笑うリンにつられ、俺も口角が上がる。

 柄じゃないが、ここで笑っても嗤う人間はいない。蔑んでくる人間はいない。

 リンとなら、自分の気持ち悪い部分をさらけ出しても許される気がした。

 だから素直に笑えたのだ。


「お前、きっと美人になるぞ」


 臭いセリフで誤魔化して、触りたくてたまらなかった頬をつつく。

 綿雲みたいにふかふかで、絹のように滑らかなさわり心地だった。

 こりゃあ病みつきになりそうだ。



「キース様。そろそろ目的地に到着いたします」


 にやけていると運転手がこちらを一瞥し、終焉を告げる。


「ああ」



 もう別れが近い。

 俺たちは人払いされた聖堂で、この子を知らない誰かに託さねばならないのだ。



 *****



 静まり返った聖堂で待っていたのは、一組のおばさんだった。

 一人はやせたメガネ。もう一人は太っていて穏やかな目つきをしていた。

 どちらも四十台後半か五十台前半位の年齢に見える。どこまでも好意的な表情をした彼女たちが、どこかの児童養護施設の職員なのだろう。


 夏の日差しを受けたステンドグラスが光り輝き、俺たちを優しく色づける。

 まるで七色の衣装を纏ったかのように色彩が降り注いでいた。

 リンが肩にかけているショルダーバッグすら、精巧なガラス細工だと思えるくらいに。


「初めまして。あらあら、可愛らしい赤ちゃんだこと。あなたたちが見つけてくれたのねぇ。ありがとう。命を救ってくれて」


 太った方のおばさんは大らかに微笑む。

 口調にも棘がなく、態度も言葉もうそや建前ではないのが伝わってきた。


「いえ。……私たちはこの子しか助けられなかったから」


 唇をかむリンの腕の中では赤ん坊が「あう、あ」と陽気に笑っていた。



 あの日、あの部屋には無数の遺体が転がっていた。

 へその緒がついたまま腐った嬰児の死体がごろごろと。

 ウジが沸いてひどい悪臭が漂い、ハエが飛び回っていた。

 その中でたった一人生きていたのがこの子だ。

 俺たちが救えた小さな命は、生後間もない最後の女の子だけ。



「あなたたちはこの子だけしか助けられなかったんじゃないわ。この子を助けられたの。消えかかった命の灯火を護ってくれた。だからね、そんな顔をしたら、この子が悲しんでしまうわ」


 わざとらしいセリフだこった。

 励ますにしろもっとましな言葉を選べなかったのか、このおばさん。

 いや、悪気はないんだろうけどよ。


「これから、この子はどうなるんですか?」


 不安を滲ませた顔でリンは問う。


「私たちの園には赤ちゃんばかりが暮らす乳児院があるのよ。だから、まずは乳児院で責任を持ってお世話するわ。大きくなったら上の子たちと一緒に暮らすことになるでしょうね。でも、この子はとっても可愛らしいから、すぐに新しいお父さんとお母さんが見つかるんじゃないかしら」


 隣に並ぶ俺を紫色が見つめる。

 車の中で見たものとは色味がまるで違う。揺らめく夜の水面みなもみたいに深くて濃くて、神秘的な色だった。ステンドグラスからの光を受けているから、なのかもしれない。


「……あの」


 長く黙っていたリンは、まっすぐ太ったおばさんに青い瞳を向ける。


「なにかしらぁ?」

「名前。私、この子の名前を、考えてきました」


 赤ん坊には名前がなかった。

 赤ん坊には養育者がいなかった。

 だから、大人たちが赤ん坊の今後を議論している間、リンにはある宿題が出されたのだ。

 夏生まれの女の子の名前を決める、なんて重大な宿題が。


「教えてくれるかしら」


 俺もまだ知らされていない。

 聞きたくても聞けなかった。

 雰囲気のせいで、切り出せなかった。

 考え込んで、落ち込んで、悩んでいるリンと正面から向き合う度胸がなかった。


「――アナスタシア。私の可愛いナーシャ、です」

「まぁ、とっても美しい名。この子にぴったりだわ。将来は名前通り、美しくて気高い女性になるんでしょうねぇ」

「……ナーシャのこと、どうかよろくしお願いします。私、この子には幸せになってほしいんです。愛される子になってほしいんです。最期まで笑っていてほしいんです。だから、どう、か――」


 くそ。見てられない。

 俯いて隠れた目元から、ぽとりぽとりと雫が滴り落ちている。

 透明な雫はアナスタシアのおくるみに落ち、桃色のシミを作っていった。


「わ、私が、もう少しだけ大人、だったら……育てられたのに……!!」


 リンはアナスタシアを抱きしめて、わぁっと泣き出した。


「私が、もっと、もっと、早く気づいてあげられたら、こんな……!」


 おろおろしている俺の代わりに、おばさんたちがリンの肩を摩って宥める。

 そうか。こうすればいいのか。


「泣かないで? アナスタシアちゃんは私たちが世界中の誰よりも幸せにするわ。約束よ。絶対絶対破らないから。ね?」

「だけど……!」


 あの暴力女の発する泣き声で、俺は完全に動揺していた。

 心臓がバクバクして手足が冷えて、息がうまく吸えない。


「あまり泣きすぎると、アナスタシアちゃんにも悲しみがうつっちゃうわ。笑ってお別れしましょう?」


 ガキみたいに頭を撫でられたリンは「うぅ……」と唸った。


 涙をのみ込んで、鼻をすすり、目を強く拭って、顔を上げる。

 瑠璃色の眼差しはどこまでも慈愛に溢れ、どこまでも苦しみを孕んでいた。



 俺を救い上げてくれた、あの色だ。

 俺を友達だとのたまった、あの色。

 俺を人として見てくれた、あの。



「お願いします」


 うとうとし始めた小さな身体は、太ったおばさんに託される。

 これで、さよならだ。


「またね、ナーシャ」


 ぐずりもせず、アナスタシアはすやすやと眠りに落ちた。


「いい子ねぇ」


 太ったおばさんは目を細めて満面の笑みを浮かべる。


「すみません。もう一つ、お願いがあります」

「ふふ、何かしら」


 リンはショルダーバッグから、薄っぺらくて長方形のものを取り出した。


「手紙を、書いてきたんです。ナーシャが字を読めるようになったら見せてあげてください」

「まあ。紙の手紙だなんて! きっと喜ぶわぁ」


 リンはあまり裕福な家の子供ではない。なのに紙の手紙なんかを用意した。

 一式揃えるだけで小遣いが何か月分飛んだのやら。


 でも、それほどアナスタシアに思い入れが強いのだろう。

 青い鳥が描かれた封筒には、流れるような字で『ナーシャへ』と記されていた。

 暴力女のくせに字がきれいとか、ふざけやがって。


「確かに受け取りました」


 メガネのおばさんは両手で手紙を受け取った。


「少し時間は経ってしまうけれど、必ずアナスタシアちゃんに」


 あいた両手でまたリンは目元をこする。


「大きくなったらまた会おうね」


 アナスタシアの頭を撫でながら、リンは無理やり作った笑顔で「絶対会おうね」と囁いた。



 こうして俺たちはアナスタシアを手放した。

 赤の他人にアナスタシアの人生を託した。



「うぅ……」


 車に戻った途端にリンは鼻をすする。


「出してくれ」

「かしこまりました」


 運転手は緩やかに車を発進させる。

 車内には、涙の余韻を引きずる声が響いていた。



「……早く大人になりたい」


 五分ほど走ったところでリンが、ぼそりと呟く。


「生きてりゃそのうち会えるだろ。聖都は意外と狭いし」


 あ、もしかしたら聖都外かもしれなかったんだっけか。

 まあ今は置いておこう。


「探し出して、時々遠くから様子を眺めたりしちゃダメなのかな」

「……俺たちと関わらない方がアナスタシアのためなんじゃねぇの。普通の生活を送らせたいのなら、なおさら、な」

「でも、会いたいんだもん」

「我慢しろよ」


 暫しの無言。怖ぇよ。


「キースの、ばあぁぁか」

「うるせぇ」

「我慢できなくなったら、あんたのこと蹴りに行くから覚悟しとけばぁーか」


 どうしたらそうなるんだよ。俺をサンドバッグにするな。

 割とやわいんだからマジでやめてほしい。


 でも。


「……気が済むまで蹴って、殴って、へし折れよ」


 抱き締めるとか、肩を摩るとかの行動を起こすには、まだ勇気が足りない。

 だが、暴力なら気恥ずかしさを感じずにリンと対話できる。

 気負いせずに向かい合える。選べる選択肢は一つ。

 なら、甘んじて受けよう。


「バカ。ありがと」


 リンは心臓が跳ねてしまうような顔で微笑んだ。

 背筋が凍ってしまうくらい、きれいに笑った。


「抵抗はするからな」


 俺の言葉にリンは噴き出す。


「望むところ!」


 二人してげらげら笑いながら、悲しみを吹き飛ばす。

 考えたくない結末を無視してただひたすらに。



 初めての友達と過ごした数時間は、ただひたすらに幸せな記憶となった。



 *****



 キース・ラングリッジ十四歳。

 リンラン・ローゼンクランツ十四歳。



 これが僕の視た、あの日の記憶だ。

 僕が十歳の時に起きた、忌まわしき事件の真の結末だ。


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