第13話:かみさまと再挑戦美少女
バラエティ番組を潰してまでの緊急報道。
明るみに出たテロ計画はすぐに国中を駆け巡り、人々を震え上がらせた。
病院という病院が患者で溢れ、真偽の定かではない情報が錯綜する。
一関係者として眺める混乱は、まるで三流の喜劇のようだった。
陽が落ちた頃には、前倒しでのプリエ運用が決定される。
軽症者には錠剤やシロップ剤の経口投与。重傷者には点滴での治療が施された。
緊急入院も相次ぎ、医療機関は一瞬でパンクする。
僕はアンネリースとアナスタシアを病院に残し、捜査に付き合わされた。
なので、こちら側にはあまり関与していない。
治療関係に関しては姉さんとキース先輩に託していた。
予想していた混乱は予想を遥かに上回り、各方面から悲鳴が上がりっぱなしだ。
そんな状況下での懸命な治療の結果、新型グラナタスを投与されたテスターたちは無事、暴走を免れた。一報を聞くまでに、アンネリースもアナスタシアも凄まじい量のメッセージを送りつけてきたので心配はしていなかったのだけれどね。
もらったメッセージの大半は「退屈!」だの「さっさと帰ってこい」だの不満ばかりだった。もうちょっと褒めてもらえると嬉しかったのに。
仕方ないか。僕はおもちゃだ。
ちなみに、やっぱり供給が間に合わず製薬会社はクレームの嵐だったらしい。
彼らも必死に要望に応えてくれたし、何たって非常事態だ。
怒りの矛先を向けるのはテロの首謀者だけにしてほしい。
一連の事件の捜査が落ち着きだした頃、アンネリースとアナスタシアは退院した。
二人はマンションに戻り、数日前から始まっていた学校に復帰する。
入院生活は実に三週間に及んだ。
ちなみに、二人ともまだ法力素の数値が高いため、制御用バングルをつけて生活している。
病院も落ち着いた患者はじゃんじゃん退院させないと回らない。
軽度であればすぐに入院治療から通院治療へと切り替えるよう上から指示も出ていたしね。
そんなこんなで、グラズヘイムが開発したバングルは老若男女問わず大流行のアクセサリーと化したわけである。
これが色も柄もサイズも様々で、ころんとしていて結構おしゃれなのだ。
バングルの流行と同時に、複合型療育研究施設グラズヘイムの名は聖都中に知れ渡った。あれほど無名だった施設は、一瞬にして誰もが知る救世主に格上げされたのだ。プリエとリンラン・シャノワーヌの名を添えて。
秋の始まり。
ようやく解放された僕は、ある人と会うため、聖都聖区の城へと向かっていた。
ずっと避けていた人と会うために。
誰よりも会いたい人に会うために、神官服を新調してまで。
敬愛してやまない彼とは、十八の頃から一度も顔を合わせていない。
でも、今回の事件をきっかけに急に会いたくなってしまった。
会って話をしたくなった。
最愛の、神王様に。
*****
「あらぁん? もしかしてソールちゃん?」
神王直属機関、枢機卿団および神王専用フロア。
厳重な警備に護られた聖域へは、専用エレベーターでしか行けなくなっている。
そのエレベーターのドアが開き、目の前にいたのは……。
「うわ。って、お久しぶりです」
顔なじみの枢機卿団員さんだった。
浅黒い肌に、明るい刈り上げ。
指には高そうな指輪がいくつも輝き、腕には枢機卿団の青い腕章をはめている。
派手なアイメイクと紫の口紅がトレードマークの男性だった。
歳はもう壮年に差し掛かっているだろうか。
神官服のズボンが怖いくらいぴちぴちの細身で、思わず目がいく。
「んふふぅ。アタシの美脚衰えないでしょぉ?」
「お変わりないようで安心しました」
「そういうソールちゃんはちょっと背が伸びたんじゃなぁい?」
でも彼の方が背が高い。引き締まった筋肉質な身体にも遠く及ばない。
いぶし銀の貫録を纏った彼に、若造の僕は勝てやしないのだ。
「さすがにもう背は伸びませんよ。僕、二十四ですし」
「あんらぁ信じらんなぁい。ほんの少し前まで可愛い可愛い赤ん坊だったのに、大人になったのねぇ。そうだ、今日は神王ちゃんに謁見だったかしら?」
「ええ、まぁ」
「ふっふぅーん、オニイサンが案内してあげるっ」
「いいんですか? 下に用があったんじゃ……」
「いいのよいいのよぉ。下界の雑事なんて後回し後回しぃ」
艶めかしい手招きを受け、僕は彼の後ろをついていく。
臙脂色のカーペットが敷かれた廊下は、煌々と照明で照らされている。
すれ違う人物もいない。カーペットを踏みしめる音だけが静かに響いていた。
「団長ちゃんねぇ、ついさっき緊急召集かかっちゃったのよぉ。ほら、例のテロの件で。ごめんなさいねぇ」
「お騒がせしてすみません……」
大体僕のせいである。
彼らには一連の事件について事前に知らせていなかった。
ルーファスが拘束されて初めて情報が舞い込んだはずだ。
「団長ちゃんったら資料にソールちゃんの名前を見つけてから、しばらく腰が抜けて動けなかったのよぉ? 神王ちゃんはいつもどおりへらへら笑ってたけどぉ」
「いやぁ、母にはあのあときっついお叱りの言葉をわんさかと……」
実家に呼び出され、鬼のような形相かつ涙を堪えた母さんにこってりと。
予測していたけれど結構きつかった。泣かれるとは思わなかった。
そりゃあ心配はかけた。ずっとかけまくって生きてきた。
でも、あれはこちらも辛くなる顔だった。
あれほど母さんに真摯に謝ったのはいつぶりだろう。申し訳ない。
「甘んじて受けなさい? 今回はアタシも団長ちゃんの味方よぉ」
振り返ったその顔はわずかに険しかった。
「すみません……」
枢機卿団団長こと母さんとは、しばらく顔を合わせたくない。
取り繕えば取り繕うほど傷つけてしまうから。
親孝行に遠ざかってしまうから。
「ふふふぅ。でも、ありがとねぇ。ソールちゃんのお蔭で最悪の事態は避けられたんだものぉ」
「団員の皆さんは、その、あれを使っていませんでしたか?」
「何人かはバングル付きで勤務よぉ。アタシは元々贔屓にしていたブランド一直線だったから、ヘ、イ、キ!」
ぴんと立てられた人差し指がゆらゆらと揺れる。
僕は言葉の代わりに笑顔を作った。
「さ、入って入って」
事務室を過ぎ、僕が通されたのは広々とした応接間だった。
大きなアーチ型の窓と、天井のシャンデリア。冬用の暖炉。壁際に並ぶアンティーク品。床には廊下とは異なる美しい文様のカーペットが敷かれていた。
そして、部屋の中心に置かれているのは、重厚な木製テーブルと本革の三人掛けソファーが二脚。
「適当にくつろいでてねぇ。すぐに神王ちゃん捕まえてくるからぁ!」
ぱたん、と両開きの扉が閉まり、僕は一人部屋に残される。
一応覚悟は決めてきた。
「大丈夫、大丈夫」
暗示めいた言葉を呟いて、手前側のソファーに座った。
待って、待って、待ち侘びて、数分後。
やっと、隣の部屋と応接間を繋ぐ右手側のドアが、緩々と開かれる。
その動きに合わせて僕は立ち上がりソファーから一歩離れた。
「やあ」
声だけでわかる。
現れたのはこの国の象徴。僕の敬愛する男性、我らが神王様だった。
お顔を拝見する前に僕はひざを折り、深く頭を垂れる。
左胸に添えた右手から爆発しそうな心音が感じられた。
「お久しゅうございます、我らが王。この度は――」
「堅苦しいのは無しだよ、ソール。顔を上げておくれ」
「……ですが」
「よく来てくれたね」
くしゃり、と手のひらが髪に触れる。
「六年ぶり、かな」
「……はい」
「身体の傷は癒えたかい?」
「……はい。もうすっかり」
痛みはほぼなくなった。包帯もとれた。
「お疲れさま」
こうなることを、きっと彼は予見していた。
だから動かなかったのだろうに。
「君を信じていたからね」
「……ありがとうございます」
ああ、心を読まれた。
どんなにかたく心を閉ざしても、彼には読まれてしまう。
「会いたかったよ、ソール」
あなたこそ、僕らの前から突然姿を消したくせに。
「ごめんね。ごめん。でも、会いたかったんだ。僕は我が儘だから」
怒りは六年前に置いてきた。
僕はぐっと唇を結ぶ。すると頭に置かれていた手のひらが顎に移動した。
「さぁ」
指先の繊細な力に従って、ゆっくり顔を上げる。
視線の先で、胸元に多くの勲章をつけた神官服の男が笑っていた。
赤茶の髪を一つ結びにし、赤茶の隻眼を朗らかに細め、柔らかく笑む神王様が。
何もかもを内包してしまうかのような温かな顔つきに、緊張の糸が切れた。
「僕も、会いたかったです。父さん」
ふっ、と父さんの笑みに儚さが混じる。
彼は、僕にカフスをくれた人。
僕を愛してくれた人。
僕に料理を教えてくれた人。
僕を導いてくれた人。
僕との血縁を決して明かしてはならない人。
たった独り、永遠を生きる人。
「ケーキ、焼いてきたんだ。一緒に食べようよ」
「はい……!」
父さんは手に持っていた小さな白い箱を見せる。
こうして僕と父さんの六年ぶりのお茶会が始まったのだ。
*****
最初は他愛のない世間話から。
例えば「眼帯、新調しました?」とか「当たり前だけど、背が伸びたね」とか。
今は二区に暮らしていて、仕事を休んでいることとか。
当たり障りのない会話をしながら、僕たちはいちじくのケーキを頬張っていた。
二人して甘いものは好きだし、作るのも好きだ。
だからレシピを聞いたり、最近凝っている料理なんかも聞けた。
対して父さんは、どうして僕が仕事を休んでいるのか聞いてこなかった。
「へぇ、二区かぁ。あそこはラングリッジ当主領だ。静かでいいところだろう?」
「聖区に比べるとのどかで落ち着きますよ。大きなマーケットもあるし、治安も悪くないし。気に入っています」
「だろうね。君の気質にはぴったりの場所だと思うよ」
向かい合って座る父さんは終始笑顔だった。
「出来る事ならもう少し、あそこで暮らしたいです」
お嬢様方のおもちゃとしてもう少しだけ。
いつまでもは許されないと知っているけれど。
「あの辺りは景色もきれいだしね。ほら、二区中心部にはレストランの併設された展望台があっただろう? 夜になると美しい夜景が拝める、とかなんとか」
「展望台なんてあるんですか? どこだろう。一度、行ってみないといけないですね」
お嬢様方を連れて行ったら喜びそうだ。
「あはは。でも、もう君は見ていたんだっけ」
「……え?」
穏やかな瞳が繊月のように細められる。
「――二百八十六階建てのビルから見た夜景はどうだったかい、ソール」
息が止まった。
口の中のケーキはもう飲み込んでいたのに、詰まらせたかのように苦しくなった。胃に溜まった甘い欠片が冷たい塊となり、内臓を焼く。
僕は父さんから目を逸らしてしばらく固まっていた。
「あ、の」
随分たってからやっと顔を上げた。
「ん?」
笑顔を崩さず、父さんは首を傾げる。
「怒って、いますか」
どうして止めてくれなかったんですか。とは口が裂けても言えない。
「いいや。怒ってはいないさ。でも、感心しないよ」
「すみません。その、一時の気の迷い、というか」
「そんな生ぬるいものじゃなかっただろう?」
また言葉に詰まる。
父さんには何もかもお見通しなのだ。魔法を持つ彼に隠し事はできない。
きっとあの時も、僕が彼女たちに出会うと知っていて助けなかった。
僕が死なないと知っていて、動かなかった。
「なんてね。……ちなみに、僕はここのてっぺんから落ちたことがある」
「城の?」
「ああ。大体三百階くらいだったっけ、ここ。三百六十度、壮観だったなぁ」
ははは、と軽快に笑う父さん。
こんなところから落ちたら、助かりっこないだろうに。
「どうして、そんな」
「死にたかったからだよ。まだ母さんにも出会っていない頃かな。色々あって追い詰められて、仕事終わりに飛び降りたんだ。……死ねなかったけどね」
ケーキにフォークが突き立てられ、切り離される。
色の薄い唇がおいしそうに切れ端を飲み込んで咀嚼した。
「確かに落ちた。確かに潰れた。手足が捻じれて、頭が砕けた。意識が飛んで、やっと死ねると思った。なのにさ、気がついたら無傷で仮眠室のベッドに寝てたんだよ。神様って怖いね」
不老不死は自殺までもを拒んだ。
父さんは死を選べず、未来永劫生き続けるしかない。
「あはは。親子っていうのは妙なところまで似るものだねぇ」
朗らかに笑い、父さんはコーヒーカップに口をつける。
僕は両手を膝に置いて黙ったままだった。
「君が助かって心底ほっとしているんだ。君の死を見るのはもう少し先であってほしいから。僕は年老いた君が安らかに眠る姿を見たい。自慢の息子が選んだ道が、必ず優しい結末を迎えてくれると祈っている。……なんておこがましいかな」
僕は首を横に振る。
言葉に詰まってそれだけしか応えられなかった。
「全ての元凶を作ったのは僕だ。僕が幸せを願わなければ、君たちは苦しまずに済んだ。蔑まれずに済んだ。傷つくこともなかった」
かち、っと音を立ててソーサーにカップが戻る。
ブラックコーヒーはほとんどなくなっていなかった。
「紛い物の神様は所詮、紛い物の父親にしかなれない定めなんだろうね。これは、どれだけ懺悔しても償えない罪だ」
「ちがう」
「……あの日。僕は嫌われたかったんだ。六年前のあの日に。間違いなく、愛想をつかされたと思っていた」
僕たち家族は別々に暮らしていた。
事実の露呈を避けるために、父さんだけ聖区郊外の一軒家に。
毎週末、僕たちは父さんの家に行き、たくさんの愛をもらった。
勉強も教えてもらった。料理も教えてもらった。
護身用の体術も教えてもらった。人となりも、何もかもをもらった。
学校では辛いことばかりだったけれど、ここに来れば無償の愛を与えられる。
甘やかされて、肯定されて、褒め称えてもらえた。
だから、僕たちは父さんが大好きだった。
誰よりも愛していた。
誰よりも愛されていると思っていた。
なのに、僕たちが十八歳の時、父さんは前触れなく蒸発した。
家具を部屋に残し、豪勢な料理を残し、銀細工のカフスを置き土産として。
さようならを告げずに、消えた。
そのくせして仕事には律儀に出てくる。
だから、テレビでは相変わらず父さんの様子が映されているのだ。
左耳に銀のカフスとペリドットのピアスをつけた父さんが。
「僕だってさっさと嫌いになりたかった。憎みたかった。恨みたかった。でも、無理だった」
ただの一度も、父さんと一緒に外で遊んだ経験はない。
家の中で料理をしたり、いっしょにテレビを見たり、お昼寝したり。
僕と父さんを結ぶのはたったそれだけの思い出だ。
「父さんとの記憶は僕の救いだったんです。光だったんです。灯火だったんです。……幸福そのものだったんです。きっと、死んでも僕は父さんを憎めない。それが僕の
こんなにも近くで一等星が輝いていたのに、なぜ見失っていたのだろう。
幸福を思い出せなくなっていたのだろう。
救いに縋らなかったのだろう。
「ごめんね、ソール。陳腐かもしれないけれど、僕も初めて君たちを腕に抱いた日を忘れられないんだ。喜びを夢幻にできない。自慢の息子だと誇ることをやめられない。だから――」
「ひらめいた! 来年は僕がケーキ焼いてきます! 楽しみにしててください」
父さんの言葉を遮って、僕は精一杯笑う。
「――ああ、待っているよ」
父さんのように上手には作れない。
ブランクもある。
だけど、一年あれば取り戻せる。取り戻してみせる。
それから僕たちは、一時間ほど語り合った。
六年の空白を埋めるように、ただひたすらに笑いながら。
「あぁーあ。一年後、なに作ろっかなぁー」
城の敷地から出て、まず口から飛び出したのは未来を待ち侘びる独り言。
「んー。父さん好き嫌いないし……」
思いを巡らせながら街をさまよい、気がつくと地下鉄のホームに立っていた。
「んー」
彼なら何を作っても美味しいと喜んでくれるだろう。
だったら自分を満足させられる出来にしたい。
今は、それを生きる意味にしたい。
「あぁー、考えるの楽しいなぁ……」
ぽろろろろ、とメロディが鳴ってホームに電車が到着した。
バングルをつけた人々に流されながら車内へ雪崩れ込む。
満員電車の中で、僕はドアのそばに立った。
「たのしい……」
ああ、たったこれだけで生きるのが楽しい。
「……たのしい、なぁ……う、くぅ……」
発車ベルが鳴り、電車が動き始めた。
がたん、ごとん、と揺られながら僕は天井を見上げる。
視界がかすかに滲んでいた。
だめだ。とまらないや。
「う……あぁう……」
情けないことに、僕は泣いていた。
声を殺して号泣していた。
隣の女子高生がぎょっとするくらい大泣きしていた。
恥ずかしいけれど、もうとめられない。
二区に到着するまでの間、さんざん泣き続けてやっと、僕は思い至る。
僕はただ、父さんに認めてもらいたくて、誇ってもらいたくて、頑張って、頑張って、頑張って、頑張りすぎて、壊れてしまったのだ、と。
*****
やっと鼻水が止まったのは、太陽が西に傾き始めた時刻。
恐らくまだ目は赤いし、腫れている。でもそろそろ帰らないと。
なんか、まだ喉の奥がぷるぷるしているけど、まあいい。
大丈夫大丈夫、ばれないばれない。
いい年した男が号泣したなんて、ばれっこない。
いや、まあ中身は子供のままなんだけれどさぁ。
「ただいま戻りましたぁー」
一応挨拶しながら八〇八号室のドアを開ける。
「やーっと帰ってきたなぁ! このおもちゃめ!」
「ふぎゃっ」
間髪入れずに投げつけられた白くま君が顔面にぶち当たった。
「ていうか、神官服着てるし」
「あら。この前ズタボロにしてたんじゃなかったかしら」
「やっぱり絶望的に似合わないよ、ソール君」
「脱がす?」
「よし。なっちゃん、引っぺがそう」
「やめてぇ!」
帰った瞬間にこれですよ。あーもう。
詰問されるよりはマシだけどさぁ。
「ちぇっ」
「つまらないわ」
「お早いお帰りですね……うん、午前授業だもんね……」
午後からずっと僕の部屋に入り浸っていたわけだ。
ごはんもおやつも用意しておいたけど、絶対すべて食べ尽くされてるに違いない。
「昼過ぎには帰るって聞いてたんだけど?」
「もう夕方よ? 断りもなしに外出したのねぇ、おもちゃ」
「ごめんなさいぃ」
どの区でも多くの学生がグルナード製品を使用していた。
入院した子も、通院している子もたくさんいる。
だから通院時間を作るため各学校で定期的に休みを設けているのだ。
「ソール。あなた、目、腫れてない?」
「え? あー、ええと。あれだよ、ぬいぐるみがぶつかったせい」
「ふーん。ま、別にどうでもいいけど」
「あはは……」
まさか無関心に助けられるとは。
悲しむべき、なのかな。
「ほーら、ソール君。いつまでも玄関で突っ立ってるんじゃないの。ちゃっちゃと着替えて。私たちゲーセン行きたくて待ってたんだから!」
「ゲーセン……もしかしなくても費用は僕持ちですよね」
「当たり前でしょ。だから律儀に待っててあげたの。もっと言うと、なにも取れなかった時の保険」
開けっ放しの玄関ドアを閉めた。
ふてぶてしくも可憐なお嬢様に、まさか逆らうなんてありえない。
「かしこまりました。すぐに用意するのであっちで待っててくださいな」
「さっさとね」
「遅かったらバラすから」
「はぁーい」
アンネリースとアナスタシアは手を繋ぐ。
「ああ。そういえば私たち、帰りにケーキをワンホール、あなたに買わせる予定があるの。そのつもりでよろしく」
「よろしくぅ」
「え、ちょっワンホールって。……あー、消えちゃった」
消えやがられた。
残ったのは僕と、お嬢様方の私物が増えた静かな部屋。
「いつもいつも唐突だなぁ」
僕はまだ、死ねない。
僕はまだ、彼女たちに付き合わなければならない。
僕はまだ、生きていたい。
「さぁて。バラされたくないし、急ぎましょうか」
この騒がしくも愛おしい日々に、もう少しだけ浸っていたいから。
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