第6話:悪い夢と傷心美少女
喜ばしいことに、今夜も眠れなかった。
悪夢を見るくらいなら眠れない方がずっとマシだ。
深夜三時。
とうにお嬢様方は部屋に帰り、物音も聞こえなくなった。
一体どんな夢を見ているのだろう。
幸せに溢れた物語であれば、僕は嬉しい。
「睡眠薬、欲しいなぁ」
ベッドに横になったまま呟く。
没収を喰らった理由が自業自得なので、今更無理だとは思うけれども。
じっとしていると、ちくちく傷が痛むんだよなぁ。
背中の傷のお蔭で下手に寝返りも打てないし、あおむけなんてもってのほか。
「あー」
たまらず起き上がって部屋を徘徊しても眠気は来ない。
来たとしても、待っているのは悪夢のみ。
「あー!」
憂鬱だ。
また高層ビルに上りたくなってきた。
今ならバレない。今なら。今なら。今なら――
「だぁーもー、まだ二人に付き合わないといけないんだって」
頭部の傷口を強めに叩く。
鈍い痛みで、狂いかけていた精神が戻ってきた。
考えるな、ソール。ほら、水でも飲んで落ち着こう。
吐き出しそうになった感情を全て飲み込んで、無かったことにするんだ。
言い聞かせながら、僕はキッチンスペースへとぼとぼ歩いた。
冷蔵庫を開けて中からミネラルウォーターのボトルを掴む。
冷蔵庫の中身は以前と比べ、随分充実していた。
こん、こん。
不意に、消え入りそうな微かなノック音が玄関から響く。
小さな小さなそれに驚いてボトルを落としてしまった。
ボトルは足の小指にぶち当たり「ひょあっ」なんて素っ頓狂な声が出る。
しゃがんで小指を労わっている間にもまた、こん、こん。
どうやら空耳ではないみたいだ。
さて、開けるべきか、無視するべきか。
こんな風にお淑やかにノックされると気になっちゃうじゃないか。
疲れるけれど、しょうがない。
僕はそこに誰がいるのか、玄関ドアを見つめ目を凝らした。
心の扉は物体を透過して視ることも可能だ。
集中すれば薄いドア一枚くらい楽勝なのである。
そして、ドアの向こうに浮かんだ扉の形は。
「なぁんだ」
ひし形のステンドグラスが散りばめられた木製の扉。
見慣れた女の子のものだった。
変質者でないのなら選択肢は一つ。
三度目のノックが聞こえたところで僕はドアを開けた。
「はーい」
薄暗いコンクリートの廊下に佇んでいたのは、扉の持ち主であるアンネリースだ。
タンクトップにショートパンツの寝間着のまま、肩で息をしている。
顔は青白く色を失い、表情も暗い。脂汗までかいていた。
「どうしたの?」
じっとこちらを見上げて、訴え続けるアンネリース。
上目遣いの青い瞳も心なしか曇ってる。
「あっちゃん?」
左足がない。片足で来ただなんて何事だろう。
一呼吸おいてアンネリースは俯いた。
上下する肩からタンクトップがずれ落ちて、未発達な膨らみが……。
ああ、これは見たら怒られるやつだ。
慌てて視線を上に向けると、唐突にアンネリースが僕に抱き着いた。
「……ベッドまで運んで」
「わかりました」
どうも様子がおかしい。逆らったり茶化したりするのは得策ではなさそうだ。
僕は大人しくアンネリースを抱き上げた。
あれ、十四歳の女の子ってこんなに軽かったっけ。
小学生くらいの重さしかない。
そうか。足一本分の重量がないからか。
ドアを閉めながら思い巡らし、幼い身体をベッドへ運ぶ。
アンネリースは無言のまま、ぼくに強く抱き着いていた。
ちょっと痛いくらいの力だ。
傷の上でやられたら、声が出るかもしれない。
「あっちゃん、下ろすよ」
ゆっくりひざを折って、アンネリースの身体をベッドに下ろす。
「あっちゃん?」
腕は解かれない。
「どうしたの?」
「……うるさい死んじゃえばぁーか」
声が震えていた。
「えー、僕もう少しだけあっちゃんたちのおもちゃでいたいなぁ」
「死んじゃえ」
拳が鎖骨の上を殴る。
「痛いよ」
「死んじゃえ、死んじゃえ! 死んじゃえっ!!」
一度、二度、三度。
殴りつける拳は固く握られている。
爪が刺さっていないかな。
心配だ。
「大っ嫌い!!」
叫びと共に僕を睨みつけた彼女の顔は、ぐちゃぐちゃに歪んでいた。
唇を噛み締め、目を剥いて、眉は恐怖を物語っている。
「いたっ」
拳が左頬にあたる。
反射的に目を瞑った僕が暗闇の中で聞いたのは、か弱い嗚咽だった。
目を開けると、アンネリースは拳を握り、ぼろぼろと大粒の涙を流していた。
首回りや顔へ次々拳を浴びせながら、ばか、死んじゃえ、嫌い。と、アンネリースは叫ぶ。僕は彼女を抱き上げたまま、僕ではない誰かに対する罵りをずっと受け続けた。
*****
昔の夢を見たの。
記憶の一番初めに残っている、あいつの夢を。
やっとベッドに下りてくれたアンネリースは、下を向いたまま、ぽつりと零した。
目を赤く泣き腫らして、手のひらに血を滲ませて。
「ソール君、包帯巻くの上手いね」
「まぁねー」
爪の形にぱっくり裂けた手のひらを消毒して、包帯を巻く。
何故救急箱があるのか、甚だ疑問ではあるのだが、中身が劣化していなくて助かった。絆創膏すらないと思われた部屋だったのに、いつの間に誰が置いたのやら。
いや、一番に気にすべきはアンネリースの放った「救急箱ならクローゼットの一番上の左の棚」なのだけれど。
一体どのタイミングで見られたのだろう。ちょっと怖い。
「よーし、これで完成」
包帯を止めて僕は立ち上がった。
「……おもちゃにしては上出来」
「どういたしまして」
両手を握って開いて、アンネリースが僕を見る。
表情に覇気はなく心細そうな口元をしていた。
「意外と手、大きくてびっくりした」
「そう?」
「チャイカ園の男の先生より大きいよ」
「へぇ。気にしたことなかったなぁ」
自分の手のひらをまじまじと見てみる。
あ、そろそろ爪切らなきゃ。
「ソール君、背も高いからじゃない? 顔はアレだけど」
「アレって……傷つくなぁ」
「……中の上くらいはある、かな。私のタイプじゃないって意味でアレなだけ」
「やっぱり傷つくー」
褒められてるんだか、貶されてるんだか。
「そうだ。傷つきついでにおもちゃから提案なんだけどね」
「なに?」
「僕さ、喉乾いたんだよねぇ。一緒に何か飲まない?」
「……温かいの」
「よしきたー。ちょっと待ってて」
笑い顔を保ったままキッチンスペースへ入る。
室内はフロアランプの明かりだけで薄暗い。
だが、他の光源には頼りたくなかった。
材料を冷蔵庫から取り出してコンロに鍋をかける。
コンロの火がわずかな光を生んで手元を照らしてくれた。これで十分だ。
「ソール君さぁ」
「なにー」
「ソール君のお母さんって、どんな人?」
「うーん……強くて優しい人、かなぁ。あと、仕事はできるけど料理洗濯掃除に整理整頓が絶望的にできない人」
「料理不味かった?」
「口が裂けても美味しいとは言えなかったなぁ。目玉焼きすら灰にするからね」
「……羨ましい」
鍋の中身がふつふつと泡立ち始めた。
「じゃあお父さんは? どんな人だった?」
その問いに、僕は静かに嗤う。
「……いないよ。お父さんは、いない」
背後でシーツの擦れる音がした。
それを合図に、僕たちの会話は途切れた。
*****
アンネリースにマグカップを渡し、隣に腰かける。
「ホットミルク?」
匂いを嗅ぎながらアンネリースは尋ねた。
「うん。はちみつとシナモンがちょこっとずつ入ってる」
「本当だ。シナモンの香りするね」
シナモンとはちみつ入りの特製ホットミルク。
このレシピは抜け落ちていなかった。忘れていなかった。
それがむず痒い。
「あちち」
息を吹きかけながらアンネリースがマグカップに口を付ける。
ゆっくりと喉が動き、白い液体は嚥下された。
「……甘くておいしい」
「落ち着くでしょ」
「うん。ぽやぁーってする」
おかしな例えに僕は笑ってしまう。
「作った甲斐がありました」
アンネリースも淡く微笑んで、また、マグカップに口をつけた。
「ねぇ、おもちゃ」
「どういたしましたか」
「精神感応系って、心が読める法力でしょ?」
「そうでございますね」
「昔の体験とか、記憶も視えるんでしょ?」
「その通りでございます」
「じゃあ、私に昔、左脚があったこともソール君は知ってる?」
「……そうなの?」
僕は嘘つきだ。
「そうなの。わたしね、元は足、二本揃ってたんだよ。でも生まれつき左足だけ動かなくてね。母親に切り落とされたんだ」
僕もホットミルクを一口含む。
はちみつを多めに入れたから、甘みが強い。
「聞いてよソール君。私の親ね、どっちもクズなんだよ。父親は女遊び大好きで、私が生まれた後に別の女孕ませてさ。母親は母親で毎日毎日私に、お前のせいで私は不幸になったんだ! とかヒステリックに叫んじゃって。ホント、最低だよね」
アンネリースは三歳でチャイカ園に入った。
物覚えがついて初めに刻まれている記憶がそれなのだ。
「父親のことはあんまり覚えてないけど、母親とのことは忘れられないの。あの人、頭おかしかったから。ほんの少し前までニコニコしてたのに、急に悪魔みたいな形相になってさ、お前なんか死んでしまえ!! って喚き散らして」
母親は世間一般で言う、育児ノイローゼに陥っていた。
相談相手もおらず協力者もいない。
護ってくれる人も止めてくれる人も。
親も子も地獄だっただろう。
「お前のせいで離婚できない。こんな身体に産んでごめんね。足が動かない子は幸せになれない。お前の足が動いていたら、私は愛されていたはずだったのに。とかさ。もう支離滅裂も大概にしろって感じ。泣いたり怒ったり忙しい女だったなぁ」
「お母さんのこと、嫌い?」
「嫌いも何も、死ねばいいのに、って思ってた。死んじゃったけどさ」
母の死によってアンネリースはチャイカ園に迎えられた。
全てを失って、新たな居場所へ導かれたのだ。
「人間って結構あっけなく死んじゃうんだよ。……すっごく晴れた春、だったんだけどね。私、昼寝してたの。で、目が覚めたら母親が泣きながら一緒に死のう、って言ってきてさ。よく一緒に死のうって、首絞められてたから、またいつものかって思ったんだけどね」
母親は首を絞めた後に必ず、ごめんね、と謝ってアンネリースを抱きしめた。
泣きながら、ごめんなさい、ごめんね、ごめん、と懺悔し続けた。
「でも、その日は違った。手にすっごい大きい包丁みたいなの持っててさ、すぐに追いかけるから、って」
左脚を切り落とした。
自らを落ち着かせるためか、アンネリースはまたホットミルクを飲む。
悪夢の内容はこの日の心中事件をなぞっていたのだろう。
三歳の子供の心には重すぎる痛みと恐怖が、彼女を取り乱させたのだ。
「気がついたら病院にいて、母親が死んでて。父親にいらないって言われて。チャイカ園行きが決まって。なっちゃんに出会えて。……なっちゃんの話を聞いて、自分がまだマシな方って知って」
「どうして?」
「……なっちゃんには内緒にしてくれる?」
「うん。約束する」
僕は踏み込むべきでない領域に踏み入ろうとしてる。
でも、アンネリースの誘いは断れない。
聞いてほしいのだ。ずっとため込んできたものを、誰かに。
「……なっちゃんね、生まれてすぐにチャイカ園に預けられたの。母親も父親も分からなくて、会いに来たことも無くて。ファミリーネームだって園長先生のチャイカをもらってるんだよ」
「そっか」
「本当の誕生日も分からなくてね。だから、私は……」
涙ぐみ、言葉を詰まらせる。
「怖かったら我慢せずに泣いていいよ。僕も昔はよく泣いてたから。泣かなくなったら、仕事が続けられなくなって、ビルから飛び降りてたし。僕みたいになるくらいなら泣いた方がずっと健康的だ」
「泣きたくないの。あいつらのこと忘れたいの。笑ってたいの。怖い夢は見たくないの」
「多分、一生忘れられないし、悪夢は見続けるんじゃないかな。僕がそうだから。でも、怖い夢を見たとしても、大切な人が誰か一人でもいてくれれば耐えられる……と思う」
寝ても覚めても孤独と悪意ばかりの日々を過ごすとどうなるか。
答えは単純明快。
死にたくなるのだ。
「大切な人かぁ……。私は、なっちゃん……かな。初めての友達だから」
「友達ってね、大人になると簡単に繋がりが途絶えたりするものなんだよ。だからさ、絶対に手離さないでね」
「大丈夫。死んでもずっと一緒って、決めてるから」
僕を見つめる眼差しに、光が灯る。
アンネリースは僕なんかより百倍も千倍も強くて、愛されている。
愛されている人は、強く生きられる人だ。
「……なんかごめんね。気持ち悪い話しちゃって」
「ううん。二人きりで話せて楽しかった」
自らの幼少期の体験が、そのまま大人との歪な距離感となって表れている。
彼女は、大変だったね、辛かったね、と憐れんで欲しくて僕に話したんじゃない。
ただ、受け入れてほしいのだ。
わがままを、心の内を受け入れてくれる大人を探し求めているのだ。
「あー、喋ったらすっきりした!」
アンネリースは一気にホットミルクを飲み干し「はい」とマグカップを僕に渡す。
そして、そのままごろんと、ベッドに横たわった。
「ソール君、ここに寝て。これ命令ね」
ここ、とベッドの空いたスペースをぼすぼす叩く。
「はぁーい」
マグカップ二つをサイドデスクに置き、僕はアンネリースの隣に寝転がった。
「こう?」
「あっち向いて」
次なる命令で、僕はアンネリースに背を向ける。
「よーし」
タオルケットが腹にかけられ、背に温かいものが触れた。
細い腕が胴に巻き付き、吐息の熱を背中に感じる。
どうやら、抱き枕にされたようだ。
「おやすみソール君」
「おやすみ」
今度こそ、優しい夢が見られますように。
僕も悪夢を見ませんように。
祈りながらまぶたを閉じた。
「明日の朝はワッフル、食べたいなぁ」
暗く閉じられた闇の中、寝言のようにアンネリースが囁く。
「……かしこまりました」
またレシピを調べなきゃ。
でもまぁ、朝になってからでもいいかな。
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