第29話 『研究施設での日常と非日常』中

 続きを話します。

 私は気が付いた時からそこにいたので外の世界もわかりません。教えてくれる人もいないですし、四六時中監視されていて、誰かと一緒に考えることもできません。ルールに違反した者を見たことは何度かあります。「なんでこんなことしなきゃいけないんだ!」「ここはどこなんだ! 出せ!」なんて、反抗する子などですね。でも、そうするとすぐに別室に連れて行かれて、ここへはもう戻ってくることはありません。それからスコアの成績が悪いと、部屋を移動されていって、そのうち見かけなくなります。まれに廊下で出くわすこともありますが、顔をよく知っている場合でも前にいた子だと気づかないことの方が多いです。なぜなら、決まって変わり果てた姿になっているからです。まばたきもせず涎を垂らし、正気を保っていない子や、どういうわけか髪が真っ白になってしわだらけのおばあさんのような姿になった子もいました。三晩前まで同じ部屋でおとなしく「資料整理」のお仕事をやっていた子が、奇声を上げて廊下を何往復も四足走行しているのを見ると、別室に行くと私もすぐにあんな風にされてしまうんだなという恐怖が襲ってきます。でも見かける彼女たちは歩行できているだけまだマシで、多くは、部屋の中から出てこられないような状態なのだと、指導員の脅し文句で聞きました。これは予想ですが、人体実験をされているのではないかと思います。普通の治験では行うことのできないような、非人道的な人体実験を。でも、ここにいる人たちの人数はいつも一定で、立て続けに人が連れていかれても空席ができることはほとんどありません。代わりに、見たことのない人を見かける回数は多かったです。おそらく、新しくたくさんの人が連れてこられて、たくさんの人が別室に閉じこめられ――たぶん、殺されているのだろう、と思いました。そう考えると、ずっと残っていた私はけっこうな古株だったのだと思います。ですので最後の方では優等生としてそんなに悪くない扱いを受けていたと思います。もちろん、研究所の中では、という程度のものですが。食事も栄養剤のようなものを飲まされるだけでしたので……。

 私はそのころも、記憶がぼんやりとしていた気がします。どれくらいいたんだろう。三か月……? 半年? 一年? 実はもっといた……? 時計やカレンダーなんてものはなかったので、わかりません。数えてもいなかったですし。

 でも私はいつでも、そこではないどこかへ帰りたいと思っていました。

 ぼんやりする中で、「経験上ではここにしかいたことがないはずなのに、ここではないどこかに家がある」と感じてならなかったのです。家族がいて、友達がいて、仕事があって、趣味に興じて……そんな風に過ごしていた過去があるような気がして、そこに帰りたい! と叫びたくなるほど強く願っていました。

 それでも、先には色のない毎日が続いているばかりで。

 楽しいことも見つからず、生きているのか死んでいるのかよくわかりませんでした。

 まるで養殖される鶏みたいに、狭い小屋の中で生まれて、生かされて、卵を産み落とすだけの毎日。産めなくなったら、挽肉にされて終わりかな? そんな風に思いながら、私は次第に無気力になっていきました。腐ることもなく、無菌室の中でただ静かに乾いていくような感覚です。

 でも。入れ替わりの激しい鶏小屋の中でも、やっぱり長くいると、顔見知りはできてきます。何度も見かける顔が目立ってくるのです。表情のクセとかしぐさに見えてくる性格とか、なんとなく気にして覚えるようになります。本当に動物みたいですけどね。

 ある日の朝でした。たしか、とても肌寒かった日でした。

 洗顔の順番が回ったことを知らせるノックをされたときです。いつものように顔を上げると、蛇腹のパーテーションに、何やら文字が書いてありました。すりガラスになっているそこに、指を濡らして書いたのでしょう。鏡文字になっていて読みにくかったのですが、蒸発してすぐにも消えそうでしたので私は慌てて読みました。

【やっほー! 名前は? あたしはチカ☆】

 隣人からのメッセージ。

 その非日常な出来事に私は一瞬で高揚した気持ちになりました。自分も書きたい。そう思った私は、支給されているペットボトルの水をてのひらに少し出し、同じように書いてみることにしました。ですが、すりガラスは片面はザラザラして水を含むと透明度が増すように変化しますが、もう片面はつるつるとして普通のガラスと同じです。すりガラス加工された面にしか書けません。私は蛇腹の一端を折り曲げて、さっきのメッセージの下に書いてみることにしました。曲げた時、向こう側の住人の微笑みが見えました。栗色のばざばざとした髪の子でした。何度か見かけたことのある、いつも快活そうに歩く女の子です。

【まひる】

 私はそれだけ書くと、すぐにくるりとガラス板を戻しました。洗顔の順番があるので、私は急いで席を立ちます。顔を洗っている間、私はずっと、なにを話しかけてみようかとそればかりを考えていました。

【ここ、謎がいっぱいだよね――】

 帰ると、すぐにそんなメッセージが書かれました。一端を折り曲げて、私もすぐに返します。

【うん。あなたはいつから?】

【ひと月はたったかな】

【じゃあ私はもっと長いな】

【それなら!いろいろ教えて!】

 チカはそう書いて蛇腹を折り曲げたあと、待ちきれないと言ったようにこっちへ身を乗り出しました。意気揚々とした表情で、ペットボトルを片手に、私のベッドの隣に座ってきます。驚く私に構わず、彼女はそのまま、

【うちら、なにしてんだと思う?】

 と、書き加え、真剣な表情で、その文字をてのひらでばんっと叩く――フリをして止めました。音を立てるのは厳禁です。

 私は首を横に振りました。「わからない」と、口の動きだけで伝えました。それでその朝のやり取りは終わりました。「資料整理」に呼びに来る案内人の気配を感じたからです。チカは扉を閉めるように、パーテーションを元に戻して向こう側へ消えました。

 長期の孤独にちょっと気が狂いかけていた私は、言葉を交わすという行為に希望の光を見た気がしました。チカからの返事がある限り、もう少し生きていよう、と思いました。毎日の「資料整理」のスコアも、部屋替えされないように必死で維持しました。

 ある日、先に終わった私はいつものように資料整理から戻ってくるチカを待っていました。私たちは、早すぎる消灯時間まで、情報交換を楽しむのです。ドアが開く音がしたので顔を上げると、仕切り板の隙間からチカが見えました。板をチラチラと気にしていると、その日は薄い紙のこすれる音がしたような気がして。私がその元を振り返ると、ついたて板の端から、指先だけが見えました。その指は折りたたんだ紙――ティッシュでした――をつまんでいました。私が気付いた時ちょうど、それはひらりと落とされました。私はあわてて拾い上げて中を見ました。見ればやはり文字が書いてありました。手紙です。

 どうやらチカはその日、ペンを入手したようでした。私がチカの隣にいようと必死になっている間、チカはもっと効率のいいコミュニケーションの方法を模索していたのです。その手紙は、ペンをうまく仕入れたことを誇るような内容でした。チカは研究所の人間の胸ポケットに何本も刺さっているペンをずっと狙っていたようで、今日、偶然を装ってわざとぶつかり、その拍子にかすめ抜いたとのことでした。それを読んだ私はチカの勇気と行動力に感動と尊敬を覚えました。それにメモ用紙として使ったティッシュはひとり一箱ずつ与えられていて、なくなれば掃除の際に補充され、特に制限されることなく使えました。書きにくい、破れるなどと文句を言ってはいられません。最後はトイレに流して証拠隠滅もできます。私はティッシュの手紙のあと、静かにそっと回されたペンを借り、チカの偉業をほめたたえました。

 その日、チカはこう宣言しました。

【ここから脱出しよう。私が作戦を立てるよ。外の世界に行こう!】

 私は、この先どこまでもチカについて行こうと思いました。


 それからチカは、紙を他の人にも回し始めました。ペンも二本目を仕入れていました。チカの意識が自分以外に行くことが私は少しだけ寂しい気持ちもしましたが、もちろんそれはチカの目標でもある脱出のためには必要なことでした。その行動から得られた情報量は多かったですし。

 みんなで話し合った結果、この研究所は、昔の技術を現代にもたらすために情報を集めている施設だという共通認識が出来あがりました。現代の世界は、昔の技術を得るためにこういった研究所を作って、情報を持った私たちを閉じこめて利用しているのです。チカは全員で脱出するには全員の力を集めないといけないと言いました。たとえば私は太陽光について、チカは重力について詳しく知っていました。それぞれの知識を出し合って、抜け出すための策を用意し始めました。

しかし私たちが恐ろしかったのは、問題を起こした子や成績を上げられない子についての扱いでした。

 とある子のメモには、成績が悪化した時、変な薬を注射されたと書いてありました。その注射のあとは異常に集中力が高まり、スコアも飛躍的に向上したそうです。しかし、その晩、頭痛と酩酊感と吐き気、そして幻覚にも似た悪夢に苦しんだと書いてありました。それからはもう、その恐怖心だけでなんとかスコアを維持しているそうです。何度もされたら間違いなく気が狂うだろうとも言っていました。そこからわかったことは、記憶からうまく情報を取り出せない者は、強い精神作用をきたすなんらかの薬を入れられるのだろう、ということでした。強制的に意識力を上昇させ、情報を吐きださせるのです。それでその子が頭痛や吐き気に毎晩もがき苦しもうが、幻覚や幻聴をきたし人格破綻して廃人になろうが、必要な物さえ手に入れば後はもうお構いなし。ということです。

 そして、そもそも情報を持っていないと判定された者や、反抗的でおとなしくしない問題児についてもわかってきました。奥部屋の中を見た子がいたのです。二十四時間廊下に響き渡る絶叫の正体――それは、手術によるものだ、とその子は書きました。手術台に立つのは、医師の格好をしているだけの、ただの研究員です。手術台に拘束されているのは、患者ではなくて実験台の少女。人体実験に麻酔は必要ないのだ、と。生きたまま切り開かれ、拘束具の上で暴れる赤い影。音も、悲鳴も、私たちへの脅しになると好都合。そこまで触れて書くと、その情報を提供してくれた子は筆を置き、蒼白な顔で口元を抑えて、トイレに駆け込んでいました。

 非人道的な人体実験が行われていることは私も薄々感づいてはいたことでしたが、改めて突きつけられると堪えるものがありました。使える者だけはそのまま養育を続け、使えない者や反抗する者は、あらゆる手段で搾り取れるものすべて搾り取ってから、廃棄する……。期限切れの食品を廃棄するように、すごく気軽にそういうことがされている現状。みんなで知っている情報を持ち寄ってメモを交換する行為は、始めた当初は、ただ機械的に生かされていただけの日々から抜け出して強大な敵に立ち向かっているような冒険心を満たしてくれていました。しかし、うまく情報交換ができるようになってからは、そんな重い現実を知るばかりで、不安に震えて眠れない夜が増えました。それでも、チカは「いつか全員の力を合わせて脱出しよう」とみんなを鼓舞しました。

 しかし。研究所も何か変だと感づき始めたのでしょう。いつからだったか、一人一人、個人呼び出しがはじまったのです。

「最近、なにか変わったことはないか」

「妙な動きが報告されている。今隠して後で関わっていたとバレたら、処罰は免れないぞ」

「情報を提供した者は、特別に処分を免除する」

 そんな内容の面談が行われ始めました。中には、自白剤を飲まされたという子もいたようでした。

 ティッシュの使用量があまりにも増加したことから訝しがられていたのかもしれません。または、捨て損ねた手紙があったか。それとも、妙に活気づいた雰囲気からか。

 ある日チカが数回にわたって呼び出されました。その時に殴られたのか、青痣が三つもついた顔で部屋に帰ってきました。わざと顔を殴って、見せしめのつもりだったのかもしれません。チカからのメモにはこうありました。

【動きがバレてて……首謀者があたしってことまで知られてるっぽい。あたしはもうすぐ隔離されることになったけど、たぶんもうダメだと思う。廃人行きだ。ゴメン】

 それを読んだときの私の顔もチカに負けないくらいの真っ青な色をしていたに違いありません。でも誰よりも動いていたチカは、告げ口した者を探して責めることなど一切なく、ただ一言そう謝っていました。

 たしかにこちらは施設にすべてを握られているのですから、みんなが隠し通せるわけがないのです。誰にも責められることではありません。敵に訝しがらせた時点で、もう負けたようなものでした。そう感じさせないよう動くことのできなかった私たちの敗北です。監視の目も厳しくなると通達されました。近日中に部屋にカメラが取り付けられることになりました。

 私は暗澹たる気持ちになりました。チカがいなくなるということに絶望しました。私がチカを助けることができたら。どうにかして助ける方法はないか。必死に頭を巡らせましたが、でも私はチカのようにはいかないのです。私の心は悲しみに襲われて、ただただ、「一人になりたくない」「チカと離れたくない」ということだけを考えるようになりました。そのためなら、チカと一緒にだったら、壊されてもいいと。そしてその思いは、なんとかしてチカの処分時に私ももぐりこむことができたらいいという願望になりました。チカを傷つけるなら、私も同じようにして。チカを壊すなら、私もそうして。狂気の中でもいいから、チカと、どこまでも同じ世界に連れてって。チカと一緒なら、地獄の果てでだって、生きていける。

 ここからは、私一人の戦いでした。チカに言えば、後追いなどやめてくれと言うに決まっています。どうしたら、チカの処分時に自分も居合わせることができるか。自分も同じようにされることができるか。

 結局、作戦は単純でした。チカが連れて行かれたことを知ったら、どこにいても自分も飛び出して追いかける。できれば一丁大暴れでもして、ついでに自分も処分してもらうのだ、と。幸いにも、チカが連れて行かれる日は翌日、同じ部屋からでした。寝室に白衣を着た案内人の男一人と、力の強そうな大柄のスーツの男二人が突然やってきました。武装していて、首謀者のチカを連れて行くのだとすぐにわかりました。

「0213号大井チカ、こちらに来なさい」

 白衣の男が指図するのが聞こえ、私はパーテーションの隙間からチカを見ました。チカはベッドから降りる際に布団の中にさっと何かを入れたように見えました。なんだろう。しかも通り様に私に目配せをします。私は、チカに注目が集まっているうちに彼女の布団に手を伸ばしました。コツンと硬いものに当たりました。取り出してみるとペンです。もう一度手を入れると、今度はふわっと柔らかいものが手に当たりました。ティッシュでした。彼女の最後の言葉を書いた手紙でしょう。私はそれを読まないわけにはいきません。私ははやる気持ちを必死で押さえて彼女を見送った後、急いで手紙を開きました。そこにはたった一言。

【まひる、あとは頼んだよ】

 その手紙と共に入れてあった、チカが蛮勇を働かせて入手した最初のペンは、不思議と重く感じました。私はチカが重力についての知識が豊富で、実験室では重力制御装置の研究をさせられていたことを思い出しました。

 私は、胸がつかえる思いでした。ごめんなさい、ごめんなさいと心の中で謝りながら、私は彼女を追いかけました。私はチカに憧れていましたが、チカのように勇気のある人間ではありません。チカの期待に応えることは、どうしてもできませんでした。人気のない階段を、私は全力で駆け降りました。息は乱れ、心臓はどうにかなるほど早く高鳴っていました。でも、そんなことは気に留めていられません。チカの処分に間に合いたいし、間に合わなくても中途半端にまた連れ戻されるのだけは嫌でした。私は足をもつれさせて何度も転びそうになりながら、手術室がある廊下を走りました。チカは手術室に連れていかれていると踏んだのですが、どこもかしこも空っぽでした。私はさらに奥へと進みました。

 奥はひんやりとしていてとても暗く、雰囲気が違いました。音もうるさかったです。機械の音がガーガーと鳴っていて、空気も振動しているようでした。そしてなにか……妙な感じがしました。氷を首筋にあてられるような、ぞくっとする奇妙な感じです。

 シャッターが閉められていて、封鎖されている通路をいくつか通りすぎ、角を曲がり、もしかしたら同じところを何度も通っているかもしれない……と不安になったとき、鉄の大扉がありました。「!」マークの目立つ黄色のステッカーが貼られていました。もうここしかない、と思いました。この扉の向こう側に、チカがいるはず。うるさい機械音にごまかされますようにと願いながら、そっと細くドアを開けました。

 しかしその先は、想像とは違うことが行われていました。私は、ようやく気付いたんです。この施設の意味、そして今の世界で何が行われているのかを。


 まひるの言葉がリビングに響き渡って反響した。

「……続きを聞くぞ」

 話している内容の重さに押しつぶされるように黙りかけるまひるに、一琉は続きを促す。

「俺たちは味方だ」

 一琉の言葉に、有河も加賀谷も、委員長も棟方も、はっきりと頷く。それを見たまひるは、小さく深呼吸をして、口を開いた。

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