第11話 『この世界は』上

「いらっしゃい!」

 仕事帰り、一琉は待ち合わせの居酒屋「鬼怒屋」ののれんをくぐった。仕事が終わる時間は日によって違うが、今日は遅い方だった。それにも拘わらず、佐伯はまだいなかった。

(先になにか注文するか……)

 空いているカウンター席に着き、さりげなく荷物を置いて隣の席を確保する。明日も仕事だ。アルコールはやめておこう。のども焼けたように痛いし。

「ウーロン茶お願いします」

 カウンター越しの正面で揚げものを揚げている禿頭の店員に声を掛ける。

「トキエ、ウーロン茶一丁!」

「はい、ウーロン茶ですね!」

 ぶっきらぼうにトキエと呼び掛けられた若い女の人が微笑んで出てきて、大きく返事をした。

「はい、おまちどお!」

「どうも……」

 一琉は小さくつぶやいて受け取ると、ドアの方をちらりと見て、一口啜った。ウーロンの苦みが微かな氷の欠片とともに喉を通る。あ、ウーロン茶って、のどに悪いんだっけ? のどに張っている油を取ってしまうとかで。

 どこかにあるスピーカーから、渋い歌が流れている。ラジオじゃなく。再生機器を正規に購入しようとすると夜勤にはかなり高い買い物になる。この店が繁盛しているのか、店員がよほどのファンなのか、または昼の協力者から提供されているのか――だが、そんなふとした疑問はすぐに一琉の頭から消えた。

「まじありえねぇっつの! 俺、あんな死獣見たことないって! まじ、デカいんだよ!」

 どこの隊だろうか、黒の制服を来た若者四人衆が、叫んでいるのが聞こえてきた。

「俺も昨日インカムで聴いてたけど、ビビって足ガクガク震えたよ」

「僕のところは、そんなことなかったけど……」

「ていうか草津、もしかして見たの?」

「見た! 俺見た! あ、俺が行った時にはもう死骸だったけどな。いや、出くわさなくて正解だぞ! あんなのと戦ったら、死ぬって!」

 一琉は僅かに身じろぎして後ろのテーブル席を確認する。同じ年くらいの男四人。だが知らない顔だ。耳を澄ませる。

「信じられないよー。初級地域だぜここ」

「なんか、おかしんじゃねーの?」

 おそらくはこいつらも、ここの新宿区の隊員だろうけど。

(やっぱり、異常だよな……)

 ガラリという音がして背後の引き戸が開けられた。軽くあくびをしながら佐伯が入ってくる。一琉は荷物をどかして隣の席を空けた。

「おつかれ! いやあ、悪いな、待たせたか? つい二度寝しちゃってさー……」

「いや、俺もちょうど今来たところです」

「そういうのは、女に言わないと、意味ないぞ。こんなオジサンなんかに言ったって」

「今来たのは本当ですからいいですよ」

 佐伯と入れ違えになるようにして、さっきの二等兵たちが席を立つ。ため息交じりに財布を出し、 “月円 ”で支払って出ていく。弁当の配給カード分はここでは使えず、晩飯は二重支払いとなる。夜勤はぜいたくするな、罰金だ、とばかりに。

「あの人たち、噂してました」

「ん?」

「おかしいんです。今、新宿区」

「おかしいって、どうおかしいんだ?」

「昨日は、Ⅲ型死獣が出ました」

「Ⅲ型ァ? うそだろ」

「本当です。それで、俺らの班から、一人……」

「一人?」

 そこまで言いかけて、静かに一旦引っ込める。野並のことを流れで話すにはまだ……早すぎる。

「いえ……それから、今日も。Ⅰ~Ⅱ型ですが、同時に四体も出現して」

「お! ? おーおー……」

 佐伯はテーブルにトントンと煙草の袋を打ち付けると、一本抜いて火を点けながら、手を挙げた。

「トキちゃん、ビール、それから~……焼き鳥」

「はーい!」

「一琉、おまえは?」

「なんでもいいです……おまかせします」

 佐伯は他にもいくつか料理を注文すると、煙草を銜えて、「それで?」と先を促した。

「俺らの班には昼生まれ兵がいますし、それに」

 ちょっとした手違いかなにかで、一般市民の昼生まれまで紛れ込んでいた。そう言いかけて、店員から差し出されたお通しを受け取った。

「俺たちはまだ、訓練中の二等兵ですよ? 四体同時はありえないと思って、教官に言ってみたんです。そうしたら……」

 今日のあの死闘の後。

 隊長に頼み込んで、指令室を訪れた。医官から創傷処置を受けて安静にしていた棟方に、事の重大さを示すために一緒に来てもらって。(委員長には「血も涙もないことを言わないで!」などと反対されたが、これは棟方を含めた今後の夜勤の環境改善にもつながると説得してなんとか連れ出した。棟方に頼むよりずっと骨が折れる。)

――「これは異常事態だと思います! 私たちではとても手に負えません!」

 強大な死獣は出ないという理由から新兵の訓練地域とされているこの東京都で、あんなⅡ型やⅢ型が出ているというのに。それなのにいつもと変わらない出撃命令でいくんですか? 都会は、眠る昼生まれの数も多い。防壁を厚くするに越したことはない。応急処置でもいいからまずこの事態を――!

 だが、上の人間たちの反応は、一琉が期待したものとはいえなかった。

――「死獣の出現率は近年、上昇傾向にある。やむをえん」

 主力の部隊は、より大型で凶暴な死獣討滅のために各地域で戦っている。都会が危険なことになっているとわかれば、一部の部隊をこちらに回してくれると一琉は思っていた。

 そんな期待に反して、司令部は口をそろえて言うのだ。

「都市に主力の隊を回せないほど、各地域も同じく大変なことになっているからなァ……」

 夜勤の業務内容は、軍事機密情報などといってマスコミには秘匿にされることが多い。マスコミといっても夜勤は国営放送しかなく、国に管理されている。大変なことになっているというのは噂程度に聞こえてくることはあっても、そんなに深刻だとは思わなかった。

「なんだよそれ、って、思いましたよ」

 一琉はそう愚痴ると、ウーロン茶を呷った。

「各地域も同じく大変なことになっている……って、じゃあどうなるんです。今後ずっと、連日連夜あんなのと戦えってことですか」

 一琉は手を挙げて、勢いに任せてビールを注文する。

 苦い虫を噛み潰したような顔で、佐伯は煙草を口から遠ざけた。

「なるほどなあ……そいつは、問題だな」

「そうですよ……」

 中年らしい禿の店員にすぐに手渡された冷えたジョッキを、これも一気に呷る。

「……」

 手で口元に付いた泡をぬぐって、一琉は続けた。

「本当、なにが訓練地域だって感じですよ。戦地に出て隊に配属されたら、上等兵の楽しい洗礼が待っているとかいいますけど、でも、それで先輩から身を守ってもらえるなら、安いと思いますね。俺は」

「うーん……俺が新兵だった頃は、も~っとのんびりしてたんだけどなー……」

 佐伯は一琉におしぼりを手渡してやりながら、鶏皮や塩のかかったネギまをうまそうに食べている。一琉はなんだかそんな気になれず、焼けたのどにビールを流し込んでいた。明日も仕事だ。くそ。じゃあどうなるんだ。明日は。

「でもな」

 黙って串を二本空けたあとふいに、佐伯は芝居がかったように、手に持っていた串をびゅーんと指揮棒のように振って、一琉を指した。

「たしかに、その上官の言ってることも間違いじゃ、ない」

「え?」

「もうそんな時代じゃないってことだ」

 そのままひゅっと壺に放る。

「でも……」

「戦地の本場にいる一等兵は、東京に帰りたいって言ってるぜ」

 佐伯は意趣返しのように、片眉を上げて笑う。

 一琉は、横目でそれを見て、苛立ち混じりに鼻から息を吐いた。

「それはきっと、東京が今どうなっているか、知らないだけですよ」

 一琉は佐伯が、「仕事なんてそんなもんだからな」といったような先輩面で、やれやれと笑っているように見えた。嘆く新兵をやりこめているつもりなのだろうか。軽く失望を覚えて、口調を強めて言った。

「一年前、俺が入隊したばかりの頃のここは、こんなんじゃなかったんですから。もっと訓練っぽくて――」

「いや、察しはついているだろうさ」

 一琉が苛立っているのに気が付いているのかいないのか、佐伯はまだ続けるようだった。

「でも、どこにも逃げ場がないから、そう言うんだ。心の中にユートピアを作ってな。もう自分の住んでいた頃の東京都はどこにもないと、わかっていながら。東京は安全だ、東京に戻りたい、って嘆くんだよ」

「……」

「そうじゃないとやってられるかーってね」

 佐伯は軽快に笑う。

「部下の身を守るどころじゃない。街どころか、自分の身を守るので精いっぱい。誰もがそんな感じなんだからな」

「そんな、まさか」

「嘘だったらいいんだけど、あいにくホントなんだよ、その上官のぼやきは」

 変わらない調子の佐伯の言葉。

 その冗談めかした調子は、佐伯なりの気遣いだと途中から気が付いた。

 これはちょっと精神的に不都合な現実だから、冗談だと思いたいなら冗談として聞いてくれればいいぞ、と。おそらく、受け入れられないという意思表示をすれば、本当に冗談にとどめてやめてくれただろう。でも、一琉は踏み込んで聞いた。

「どうして、そんなこと知っているんですか」

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