5
急に宙から湧き出た大量の水に、驚いた桐生当主はとっさに飛び退いた。
その拍子に掴まれていた腕が男の手元から開放され、もがきながらも声が聴こえた方向へと無我夢中で這っていく。
さらに滝のように降り注ぐ水にもみくちゃになりながら逃げる様に離れると、ぐっと二の腕を引かれ身体が恐怖で強張った。
頭の上から聞き覚えのある溜息が聴こえて安心して肩の力が抜ける。
「げほっ、う……集さん」
「本当に、どうしようもねえ馬鹿だなお前は」
水を飲んで咽る璃子に呆れたような視線だけを向け、すぐに桐生当主に向き直る。
同じく水を飲んだのか、咳き込む桐生当主は集真に気付くときょとんとした顔で呆けた。
「……ひょっとして、深山君かい? 久しぶりなのに、随分だな」
「悪いけど、今は深山じゃないんで」
びしょ濡れになりながら困った様に呟く桐生当主を冷ややかな目で集真は見据える。
「コイツを見付けるのに あんなモノまで用意して、随分と必死だったようだな」
「ああ、自分でもやってみたんだけれどね。やっぱり妖気が足りなくて、腐敗の進行はどうにもならなかったよ」
一切悪びれることも無く、まるで日常会話のような声音でにこにこと話す男にゾッと背筋に冷たいものが走った。
目の前にいる男が人間の皮を被った得体の知れない化物に思えて、一歩、二歩と後ろに下がる。
「千李さんは」
「今ババアと合流して片付けてる最中。数も相当いるみたいだな」
「灯野さんも……」
安心したような声で呟く娘とは対象的に父親は困った様な声で唸る。
「灯野当主にも知られたのか……厄介だな」
「まさか、いくらなんでも妖仙に敵うとは思ってねえだろうな」
「ああ、残念だけど僕の計画は中止になるな。まさか君に邪魔される事になるとは思ってもいなかった」
集真は怪訝そうに顔を顰める。
さっきから、何かを含ませて話している。
まるで、自分も関係しているような、そんな口調で。
「どう言う事だ、俺が――深山があんたのした事と何の関係があるんだ」
当主は何も分かっていないのか首を傾げる。
「君は――深山君じゃないのかい?」
「俺は屍人憑きだ」
それだけ言うとぽかんとした顔でしばらく突っ立っていた当主は「屍人憑き」と繰り返し呟きながらやがてやっと理解ができたのか、みるみる内に表情が明るくなっていく。
まるで子供が新しいおもちゃを見つけたかの様な、キラキラした顔で。
「羨ましいな、深山君は成功したのか。でも、何処から膨大な量の妖気を集めたんだろう? まさか新しい妖仙が見つかった……? 君、何か知らないかい?」
「動くな」
縋るような目で近寄ってくるそれの足元に水の塊を叩きつける。
衝撃で床がべきりと割れた。
「俺の質問に答えろ。深山はお前にどう関わってる」
「言ったら君は、灯野当主に話すだろう。そうなったら、僕と妻だけじゃない。娘だって殺されてしまうんだよ」
「え……なんで、私……?」
「血が繋がっているからと言ってこの件に無関係な小娘を殺すほど、灯野は落ちぶれていない。何百年も生きてんだから、ものの分別くらいは流石に分かってるだろう」
「だったら、いいんだけれどね……」
桐生当主は暫くして諦めたように溜息を吐くと、降参するかのように両手を上げた。
それだけ重大な事をしているという自覚はあるようだ。
だったら、なぜそこまでのリスクを負ってまで一線を超えたのか。一応隠していたとは言え、屍を外に出したのは何故か。
そうまでしてキリを連れ戻す理由は。
「灯野にコイツを近付けさせたくなかったのか」
「せめてもの親心、と言うものだよ。無関係なのに殺されては、たまったものではないからね」
本当に、そうだろうか。
それにしては動機が弱い気がする。
聞きたいことは山程あるが、眼の端に映る少女がかたかたと震え出した。
水を被って身体が冷えたのか、それ以前に精神的にも限界だろう。
「……まあいい、後は坂谷の所でゆっくり聞き出してやる」
これで、まずは一件落着か。
その後の後始末に駆り出される事を思うと憂鬱な気分にさせられるが、自分よりももっと悲惨な立場にいる少女の手前。溜息を吐くのも抵抗があって肩の力を抜くだけに留めた。
突然、くっと袖を軽く引かれる。
見ると少女が父親の方向を見て遠慮がちに袖を摘んでいた。
まさか自分の父親をどうにかしてくれと言い出すんじゃなかろうか。
「流石に、情状酌量の余地はねえぞ」
それには答えず、ただずっと父親を見ている。
何をそんなに熱心に、と訝しんでいると少女は目を細めて口を開く。
「集さん、奥に何かが居るみた、い……っ」
不自然に言葉が切れたのに不思議に思ってキリの視線を辿ると、どうやら父親ではなくその少し上を焦点に当てているようだった。
そこには例の部屋がある。
ただ、ぴったり閉じられていたはずの引き戸がいつの間にか少しだけ空いていた。
その暗闇の奥。
何か、ぬらりとした白いものが光を反射して、それだけがくっきりと暗闇に映える。
しばらく目を凝らして見ていると、その正体が認識出来た。
眼だ。白濁しきって真っ白な眼。
ず、ずと引き摺るように襖を開く音。
次にその奥からびちゃり、びちゃりと粘着質な水音が聞こえてその全容が明確になる。
そのあまりにも醜い姿に、ぶわりと全身に鳥肌が立った。
「な、に……あれ」
あまりの歪な姿に少女は一層震える。
襖の奥、その暗闇からゆっくりと身体をひきずりながらそれは現れた。
人間を継ぎ接ぎにした肉の塊。
無数の頭が融合して肥大化したような顔。視線は定まっておらず、人形の目玉のようにゆらゆらと揺れているのが一層におぞましい。
頭部と思わしき所からはだらりと黒い髪がそれを所々隠し、それが不気味さを際立たせていた。
下肢と思われる所には取って付けたような細身の腕や脚が、まるで百足のように付いて――あるいは飾りのようにぶら下がっている。
ずるずると血と体液で汚れた身体を引き摺りながら、倒れる事のないように無数の腕や足が身体を支え、ひしゃげた指をぴくぴく動かしながら這ってくる。
その化物に、桐生の当主は愛おしそうに柔らかい笑みを浮かべて語りかけた。
「おお、待ちきれなかったのかい? 困った事になったよ。ようやく家族皆そろうっていうのに、また邪魔がぎゃ、ぇ?」
一瞬の事に思えた。
能面のように固まった顔の口元と思しき所から突然かばりと横に大きく裂け、それが覆い被さるように男の頭を攫った。
ぶつりと千切れるような音が響いて、力を無くした身体が鈍い音を立てて床に落ちた。
血溜まりが瞬時に出来上がり、それに群がるように頭部の無数の口元が一斉に横に裂け、再び覆いかぶさった。
耳を塞ぎたくなるような音が室内に響き渡る。
「お、お父、さん……?」
「バカ、お前も死ぬぞっ!!」
近寄ろうとするキリを慌てて引き寄せ、目元を手で覆った。
その場を後にしようと、一歩ずつ後ろへと下がる。
首をさらっていった速さ、何十人分の継ぎ足された身体に妖気。相手は屍の寄せ集めだから水術の相性も悪い。足手まといだっている。
こんなもの、一人ではどうしようもない。
化物が夢中になっている間、逃げるのなら今しかない。
「離れるぞ……早くしろ」
「なに、何なの、あれ……?」
キリの僅かな声に反応したのか、咀嚼の音がピタリと止まった。
すっと、重たげな頭が上がる。
「……り子。りコ。璃コ、リこ、璃子ちャン」
能面のような顔という顔が、一斉に口を動かして不気味に鳴く。ゆらゆらと揺れていた瞳は全て少女だけを見ている。
「だれ、知らない……あなたなんて知らない!!」
その怒声を皮切りに、どすどすと無数のおもたげな音がして化物が徐々にスピードを上げて距離を詰めてくる。
一歩。二歩、三、四五六――
「璃こチゃン……り子、ぁアぁあ゛ぁアァあ!?」
弾けるような乾いた音が響き渡る。
目の前にずいっと迫る頭の横っ面をほぼ反射で叩きつけた。
その手には、護符。
バチバチと電気が走る様な音に次いで火花が上がり、化物は痛みで仰け反った。すべての顔が不快げに歪む。
下級の妖なら一枚で吹き飛ぶ威力のはずだが、これに関しては不意打ちで転ばせる位が限界のようだった。
「札も効き悪ぃ、がやれないこともないか。キリ、外まで走れ」
「……足、動かない……立てない」
「お前、走って行った時のあの威勢どこいった……っくそ」
柱に縋って必死に立とうとする少女を咄嗟に抱えて走り出した。化物すべての目がぎょろりと集真を捉える。
巨体がゆっくりと起き上がり、無数の手足が地面を這う。
その腕や足にぐっと力が込められたかと思うと、ばきりと床が割れる音がした。
化物が跳躍し、影が覆い被さるように迫ってくる。
思わず舌打ちがでて、キリを玄関先へ突き飛ばす。
そして化物の肥大化した腕を迎え撃とうとするも術が間に合わず、それは脇腹へと思いっきり振り回された。
何かが折れるような鈍い音がして、足が地面から離れ壁に叩き付けられる。
「集さん……ひ、っ……や、だ」
璃子は壁に叩きつけられた集真を横目で追い、やがて見えなくなると代わりに視界全てを覆うように不気味な顔たちが映った。
がぱりと再び、横に大きく口が開く。
その奥。暗闇の中で何かが二つ、転がっていた。一つはよく見知った、男の顔。
「りこちゃん」
寄り添うようにして転がる女の顔がゆっくりと名前を、酷く懐かしい声で紡いだ。
幼い子供をあやすような声で。
「おかあ、さん……?」
突如、何かが視界を遮る。
見覚えのある腕。
その先の手が女の顔を鷲掴みにする。指の隙間から紙が何枚も覗いてパチパチと細かな音がした。
「悪いけど、こいつは勘弁してくれ。代わりに腕一本はくれてやるから……オマケ付きでな」
どん、と突き飛ばされるような衝撃が襲う。
庇った集真と一緒に壁に叩きつけられ、衝撃で息が詰まった。バチバチと弾けるような、凄まじい音と耳を劈くような悲鳴が、彼の向こう側から聞こえてくる。
低い呻き声に目を開くと、肉片となって散らばった化物と、ぼたぼたと血を流す肩が目に映った。
「うで……手が」
「……バラバラになってるし。あーあ、……キリ? おい」
頭を打ってしまったのか、ガンガンと頭の中が痛む。
彼の心配そうな呼びかけに返事をしようにも思うように言葉が出ない。
視界がどんどん霞んで、意識も共に遠退いていった。
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