自分の家へと走っていく途中、ちらほらと眼の端に映る厚手のコートを避けるようにして走る。

 

 ただでさえ走っていて息が上がるのに、いつ襲ってくるのかという恐怖でさらに呼吸が苦しくなっていく。

 

 だが走っている内に奇妙な事に気付いた。



(追ってこない……?)



 脇道の側に立って通り過ぎる璃子に視線を向けているだけ。帰り道から反れたり近道を通ろうとする時だけ動き出すように思える。

 

 家族も同然だった家政婦の皆が璃子の帰宅を見守っているようで、それが全部屍だと思うと胸の内が悔しさと泣きたい気分で一杯になった。


 脚がもつれて転びそうになりながらもようやく見えて来た自分の家。その塀に手をかけて咳込みながら息を整える。

 ゆっくり歩いて行くと玄関先に大きな影が見えた。

 


「っお、お父さん!!」



 見慣れた背中に叩きつけるよう怒鳴る。

 くるりと振り返った体格のいいその男は少女を見て驚いた顔をして駆け寄った。



「璃子!? どこに行ってたんだ、心配したんだぞ。せっかく母さんが帰って来たって言うのにお前がなかなか帰ってこないから、警察に捜索願届けようかと思ったよ」


「どういっ、え……? お母、さん……?」



 続けざまに怒鳴ろうとするも、思っても見なかったその言葉にキョトンとして父親の顔を見返す。

 もうずっと会っていない。顔すらも朧気になった母親が、まさか帰って来たのか。


 照れたように頭を掻きながら嬉しそうにその人は話を続ける。



「ああ、そう、母さん。これから一緒に暮らす事になるけど、いいかな」


「それは、いいけど……そうじゃなくて、木村さんが!」


「木村さん? 木村さんなら璃子を探しに行ったっきり戻って来ないけど、どうかしたのか?」


「……どういうこと? お父さん、何も知らないの?」



 まるで辞めて出ていった事すら無かったことのような反応に困惑して父を見上げていると、ぽんと肩に大きな手が置かれた。



「なんの事かよく分からないけど、早く母さんに顔見せてやれ」



 背中を押されて先に行くよう促される。

 訝しげに見上げるも返ってくるのは見慣れたいつものにこやかな笑顔。


 先程の悲惨な出来事がまるで嘘か夢のような笑顔で、木村さんが辞表を置いて出て行った事さえも、きっと何かの間違いだったんだろうと少しずつ思い始めていた。




 家の中へ入ると誰も出迎えてはくれなかった。首を傾げているとみんな忙しいんだと靴を脱ぎながら父親は話す。


 確かに、随分久し振りに帰ってきたのであればご馳走やらの準備もあるのだろう。


 母親の顔を必死に記憶から引っ張り出していると、奥まった戸の前で父親の足はぴたりと止まった。


 そこは薄暗い影を落とした、開く事は滅多にない一室。


 この場所がどこなのか理解できたとたん、ざっと頭の先から足元まで、血の気がひいた。



「お父さん、そこ、入っちゃ駄目って」


「今日はいいんだよ。ちゃんと片付けたからね」



 進むよう促されても足は頑として先に進むまいと力が入る。

 信じていたいけれども、不安と恐怖が勝って脚が動かない。



「ほら、母さん待ちくたびれてるぞ」


「私、そこいやだ。入りたくない」



 背中を押す手の力がぐっと強まった。押し込むかのように力が掛かって、声は自然と震えた。



「璃子」


「お父さんやめて、放して!!」



 踵を返そうにも後ろ手に腕を抑えられ、腕を振り解こうと暴れようにも掴んでいる手は岩のようにびくともしない。


 父親の表情はこんな時でも何事もないかのようににこやかで、その場違いな笑顔に恐怖さえ覚える。


 必死になって抵抗しても、どんどん引き摺られて行く。



「だれかっ!! 三好さんっ! 藤木さん、原田さん!?」



 玄関先へと声を張り上げても、しんとしていて物音一つもない。


 ふと、先程から屋敷が異様なほど静かなことに気付いた。皆は……?


 どうしてと父を見上げるとああ、と思い当たったように声を零した。



「皆も中で待っているよ。他の皆ももちろん、母さんも父さんも、これからずっと一緒にいられるんだよ」



 大丈夫だからと穏やかな声で、引き摺るように襖へと向かう。

 まるで焦っているようにぐいぐいと腕を引っ張られて耐える足も一歩、また一歩と進まざる負えなくなっていく。


 耐えている途中で床に刻まれた目新しい傷が目に入った。

 茶色い床にくっきりと白い線が五本。間を置いてもう五本。


 目で追っていくとそれが途中で赤色に変わった。それが襖の入り口辺りで遮られるように途切れていた。近くには転々と白い欠片が落ちている。



「なに、あの白いの」


「爪だね。途中で気付かれてしまって、抵抗されたから仕方なかったんだ」



 あっさりとそう言った父はやっぱり穏やかな声で話す。



――狂ってる。



 がくがくと足が震え、立っていられなくなった。

 掴んでいる腕を必死に叩いて叫んでも、その指は解けない。


 璃子もそうなりたくないだろう、と一層力が入った手に思うがまま引っ張られた時だった。



「キリ!!」



 ばしゃりとバケツをひっくり返したような水音がした。



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