今日ほど厄日な日はないだろうと色が変わっていく手首の痕を摩りながら思った。

 大蜘蛛に襲われ、命からがら逃げ果せて擦り傷で済んだのは運がよかった。もし集真さんが私の前に現れなかったら擦り傷どころではなかっただろう。 

 少しでも恩を返せればと彼を庇って自分を奮い立たせ反論したはいいものの、千李さんが妖に抱く怨恨は思ったよりも相当深いようで火に油を注ぐような結果になってしまった。灯野さんが来てくれなければいったいどうなっていただろう。

 自分がこんなに無力で迷惑ばかりかけているのが悔しくて堪らない。


「怖かったわねえ。最近の男の子にしては強引だったかしらね」


 そう言って背中を労るように摩る灯野さんに、たまらずしがみついて泣いた。突然の事なのに驚くこともなく彼女は子供をあやす様に軽く背中を叩き続けてくれている。


「やっと帰りやがった……遅えんだよ」


 ずるりと炬燵から這い出てきた彼はなんだか妙に疲れた様子で訊いてくる。その腕からは不機嫌そうな白猫がするりと抜けて身震いした。

 その一連の様子に呆れたような声で、


「いろいろと言いたいことがあるのだけれど、まあいいわ。家を壊されたら堪ったものでもないし。集くんはお布団と、お風呂用意しておいてねえ」


 適当に返事をした彼は居間を出てどこかへ行ってしまった。

 驚いて見上げると「泊まっていくのでしょう?」と微笑む灯野さんの顔があった。そういえば、勢いで言ってしまったかもしれない。


「すいません、急に……」

「いいのよお。うちには口の悪い子しかいないから、むしろ申し訳ないわあ……災難だったわねえ」

「本当に……色々なことがあり過ぎて」


 驚いた拍子にとまった涙をぐいっと袖で拭う。思い返すたびに疲れがどっと押し寄せるような感じがして、深く息を吐いた。少しだけ、気分的にゆとりができたかもしれない。


「そうでしょうねえ」

「でも……集真さんとでんちゃんに会えて、灯野さんに助けてもらえて。妖術がどういうものかもちゃんと教えてもらえたし。それから、妖に対する考えも前と変わって……それだけでも、悪いことばかりでもなかったって思えます」


 そう言うと、彼女は意表を突かれたように瞬きし、そして穏やかに微笑んだ。つられて自分も頬が緩む。


「厄日だと言ってしまえば簡単だけれど、一日を振り返って思慮すべき事を見つけられたのはいい事ねえ。璃子ちゃんは敏い子だわ」


 敏い、だなんて多分初めて言われて正直嬉しかったのだけれど「そんなことは……」と遠慮がちに否定した。思い返せばでんちゃんを追って土地勘のない危険な場所まで突撃してしまったことはどう考えても敏いとは思えない。そのあとまた探しに行ってしまったし。ちょっとだけ、気まずくなってばつが悪そうに視線を下におろす。少し離れた場所で白い長毛の猫が毛繕いに勤しんでいるのが目に映った。


 さて、と灯野さんは呟いて軽く背を叩く。


「今日は疲れたでしょう。明日は日曜日だから学校はお休みね。お家に連絡しておくから、ゆっくりおやすみなさいねえ」

「何から何まで、お世話になります」


 「自由にしていてね」と言って灯野さんも部屋を出ていった。きっと家に電話をしに行ったんだろう。

 ふう、と深く息を吐いて座った。遠くでは水を流すような音と、灯野さんの話声が聴こえてくる。テレビは置いていないようで、それどころか家電というものがあまりないように思えて不思議に思ったけれど、これはこれで落ち着く雰囲気があるような気がする。

 何もすることがなくてぼうっとしていると、とことこと白い猫が傍に寝転んだ。


「きりコ、ココに、スむのか?」


 そう訊かれてきょとんと猫を見やる。きりこ……なんだか愛称みたいで嬉しくなって口元が緩んだ。


「今日だけお泊り。でんちゃん、一緒に寝よう?」


 白猫は少しだけ嫌がるように目を細める。


「だめ、かな」

「……ヒゲひっぱんナヨ」


 やれやれとでも言いたげにふうと軽く息を吐いた。了承を得られたことに嬉しくなって寝転がっている猫を撫でる。時折「ミミのウシロ」、「クビんトコ」なんてぶっきらぼうな注文も、その見た目のもふもふのせいか許してしまう。


 そういえば、とふと思い撫でていた手を止めた。


「でんちゃんは、生まれはどうなんだろう。お母さんはいるの?集真さんは生えるとか言っていたけど」

「ハえるゾ。ツチから」

「つ、ち……土!? 生えるって、土から?」

「オゥ。ハハなるダイチにチチなるソラだゾ」

「なんだか、壮大だねぇ……」


 「だロ?はよ」と自慢げに鼻を鳴らして続きをせがむ猫の出自の片鱗を知って、感嘆として息を吐いた。生まれてから育ててくれる親が居なかったとしたら、灯野さんの家に来る前まではどうやって生きてきたんだろう。

 ちらりとそんな考えが掠めたけれどゴロゴロと喉を鳴らして転がるでんちゃんを見ているとそれ以上は考えないでおこうと思えた。きっと今の方が幸せそうだと思えたから。


 暫く白い体毛を撫ででいるとおい、と戸口から低い声が呼び掛けた。


「風呂、入っちまえ。ソレは風呂入れる必要無えからな」


 ソレの部分を強めに言われて言葉に詰まった。すでに片手は抱きかかえるように猫の身体に回されており、もう片手は指摘を受けて行き場を失い宙を彷徨う。肝心の本人(猫)は恍惚とした表情で余韻に浸っていて、くてりとその身を任せていた。呆れたような視線が璃子に向けられる。


「お、置いて行きます……残念だけど」

「……着替えはババアが用意してるだろうから、あとは適当にしとけ。なんかあったらババアに言えばいいから」


 そう言って玄関の方へと向かう彼はパーカーのフードを深く被っていて手には千円札が一枚握られている。お財布はないんだろうか。


「どこか行くんですか?」


 彼は振り返って「飯」とぶっきらぼうに一言だけ発して家を出た。もう少し愛想よくできないのかと内心で文句を言って浴室へと歩き出した。






 びちゃりと袋に飛び散った体液を見てあーあと内心で溜息を吐いた。

 袋の中までは入っていかなかったようで軽く安堵の息が零れた。これで中の弁当にでも血がかかっていたら……顔が引きつる。どうして女って生き物は頭数が増えるとああもやかましいんだか。

 着古してボロボロになった袖で血痕をぞんざいに拭うと指から血が滴ってまた袋を汚した。もうなにもかも面倒になって見なかったことにしてをぶら下げて気持ち重い脚で歩く。要は調子に乗って馬鹿を見ただけの話だ。


 数分前。不規則に点滅する街灯の影にかさこそと蠢く生き物が見えて鼠かと思い術を仕掛けた。今思えば止めておけばよかったものの、妖の餌に丁度いいかと欲を出したのが悪かったんだろう。

 結果を言えばそれは鼠ではなく鼠様の妖で、その小ささにナメてかかったばかりに右掌の肉の一部をこそぎ取られてしまった。指を食い千切られなかったのが不幸中の幸いか。


 仕留めたそれの鱗が生えたような尾を掴んで家の戸を開けた。血の匂いを嗅ぎつけた妖が影の中でもぞもぞそわそわと蠢いているのを目の端で捉えて土産を放り投げる。それは伸びてきた無数の手に覆われて影の中に引き摺り込まれ、音もなく消えていった。

 たとえ同族だろうと屍肉であれば何だって食うのが妖なのだ。腹が減ることもないし生きるために必要な為でもない。ただ喰いたいから喰う。

 こんな野蛮で情もない化け物どもをかわいいと言えるあの小娘はやっぱり普通の感性じゃない。



 玄関を後にして居間を覗くと、ほかほかと湯気を立てて猫と戯れる例の小娘が居た。


「あ、おかえりなさ……どうしたんですか、それ」

 赤い色が付いた袋を見たそいつはさっと血の気が引いたような顔になって、分かってはいたが居心地が悪くなる。


「ちょっとそこで引っ掛けて来ただけだ。それより、これお前の飯」


ずいっと袋を押し付けるように渡す。微妙な顔をして見てくる少女にまあそうだよなとは思う。一応袖で拭ったものの、赤が点々と白いビニール袋を汚していた。


「気味悪いのは分からんでもねえけどよ。仕方ねえか、また買いに行ってく――」

「そうじゃなくて、怪我したんですか?こんなに血が多いのなら、結構酷い傷じゃあ……」

「いや、別に……そんなでも」

「ユビでもチギれたカ?」

「千切れてねえよ、ちょっと肉が削げただけだ」

「削げた、って……」


 真っ青になって詰め寄る少女から逃げる様に数歩下がるとその分距離を詰めてくる。背中に隠すように回した右手の傷は護符を張り付けて血止しただけのお粗末な状態。変にいじくりまわされるのは何となく、嫌だ。


「隠さないで見せて下さい、手当てしないと」

「いい。血は止まってるから」

「本当に……?放っておいて悪化したら大変なことになるんですよ」

「いいって。そもそも俺死んでるから悪化も何も、」

「そうやって訳わからないこと言って誤魔化すんですか。さ、見せて」


 呆れて溜息を吐く。こいつは俺の母ちゃんか何かか。押しに負けて嫌々右手を出すと目を丸くしながら手を取る。血止めに使った護符は真っ赤に染まって今にも滴りそうなほどに濡れていた。


「とりあえず止血しないと」

「それは札でしてる」

「それじゃあ……病院に」

「俺、指名手配されてんだけど。騒ぎになるぞ」

「ええと、じゃあ……どうしよう」

「だからいいって言ったんだよ。そんな大した怪我でもねえし、後でババアにでも縫ってもらうから」


 掴まれた腕を振り払うと、垂れそうだった滴がその衝撃で少女の頬に飛び散った。うっ、と短い呻き声に流石にマズいと思って「あ……わりぃ」と袖で拭おうとして、目を見張った。


 重力に従って赤い線を引いていったその跡から、ぼうっと所々光るそれに。


「お前、これ……」


 指で引き延ばしていくとその正体がはっきりと確認できた――文字だ。

 あまりに達筆なその文字は漢字であることは何となく理解は出来たが、浮かび上がったのは血に濡れた一部分だけ。

 他に飛び散った滴を引き延ばしていくとやはりそこだけ文字が浮かぶ。どこもみっちりと隙間なく書かれていた。


(これ、まさか全身に彫ってあるのか)

「あの……?」

「うオォ、キリコやべェ。ミミナシホーイチりすぺくとカ」

「え……何、それ。どういうこと……?」


 顎や首筋にまで飛び散ったそれを順に引き伸ばしていく。「ひっ、ちょ、ちょっと」と暴れ始めた少女を「黙れ、静かにしろ」と制す。そこも同じようなもので全身に文字が刻まれているのはほぼ確実だろう。問題は、なぜ血で文字が浮かび上がるのか。それからいったい何が書かれてあるのか。もしかしたらこいつの術が使えない理由にこれが関係している可能性も――


「こらっ、何をしているの」


 顔のすぐ横でごう、と小さな火柱が上がった。はっとして声がした方向を見るとただでさえ皺のある顔にさらに皺を寄せた皺くちゃのババアがいた。


「あっぶねーな、いきなり何すんだクソババア」

「こちらが訊きたいわね。よそ様からお預かりしている大事なお嬢様に、いったい何をしているのかしら?」

「あ?何って」


 少女を見ると真っ赤な顔を背けてぷるぷると小動物のようにふるえていた。何してんだ、こいつ。


「んなことより、これ見ろよ。こいつ身体中に文字彫ってんだよ」

「ミミナシホーイチのふぁんだゾ。イマドキしぶいだロ?」

「……とりあえず、璃子ちゃんを放してあげたらどうかしら」


 少女は相変わらずぷるぷると震えていて今にも泣きそうだ。そっと距離をとるとふらふらと力なく歩き出してババアにしがみついた。そんな少女を労るように背中を摩るその一連の流れを訝し気に見ていた。

 俺が何したってんだよ。




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