三章 桐生家


 小娘が血を流すために再び風呂場に行った間。年端もいかない幼気な少女に手を出すとは何事かと誤解を招くような発言に反発しようにも口を開けば火柱が両脇に上がる有様で、そんなんだからそのまま黙って延々とババアの説教を聞く羽目になった。あんなちんくしゃなガキに手なんか出すかよ。どこぞの物好きじゃああるまいし。


 それにしても、と一通り話して気が済んだ様子の当主が困ったように息を吐いた。


「確かに、血の痕に文字が浮かんでいたのには、気になるわねぇ」

「なんかの呪いか? 今のとこ、周囲に実害がないみたいだが」

「呪術なのかしら、あれは。妖に付ける呪印にも似ている気がするわ。それをもっと、ややこしくしたような」


 全身に文字を刻むなどよほど徹底している様子から相当な怨み辛みがあることには違いなかった。

 不可解なのは、本人がその存在自体を知らない様子だったこと。


「何かを封じているのではないのかしら?それがどういうものなのかは、分からないのだけれど」

「封じる……妖術をか? だったらアレが桐生の一族全員になければおかしいだろ。いちいちあんな手間がかかることを、普通やるか?」

「封じるのではないとしたら……あら、璃子ちゃん」


 振り返ると、なんとも微妙な顔をした例の少女が居た。寒いのか二の腕を摩っている。足下には一つ目の猫が不機嫌そうに尻尾を振り回していた。体毛はしっとり濡れていて縮んだ様にも見える――風呂に入れたな。


「本当に、何か……字のようなものが」


 風呂場の鏡で見たのだろう、寒いのではなくてもしかしたら気味が悪くて摩っていたのかもしれないが。


「それについて話してたんだよ。親とかからなんか聞いてねえの?」

「何も……これ、やっぱり呪いなんですか? 私、呪われてるんですか? これっ、どうやって取るの……?」


 落ち着いて、とババアが背中を摩りに行くとしゃくり始める小娘。あいつ今日泣いてばっかだな。そのくせ千李に楯突いたりするもんだから気が強いんだか弱いんだか。


「そうよねぇ、身体に字が刻んであるなんて気持ち悪いわよねぇ。集くんが何とかして解呪しようと躍起になっているから、もう少し我慢してねぇ」

「おい、それ語弊がある……」


 否定しようとした途端、少女に向いていた笑顔がこっちに向けられた。途端にすうっと消える表情。そして、無言。

 怒るでもなく、責めるでもない。ただ淡々とこちらを見つめる重圧と沈黙に耐えられず視線を逸らして音を上げる。


「ああ、くそ……やる、やればいいんだろ。やめろその顔芸。精神的に堪えるから」

「あらそう。よかったわねぇ、それなら時間はあまりかからないわねぇ」


 元の笑顔に戻ったババアはさらにペナルティーを科せる。これだから嫌だったんだ、厄介事は。 

 うんざりとした気分を吐き出すように息を吐いた。


「でもよ、それだけ徹底的に術を施してんなら、解呪の途中で何かしらの罠もあるんじゃねえの? 解呪した途端、死んで呪印も消えるとか。俺も巻き添えくらうのはごめんだぞ」

「そんな……!」

「そもそも俺の血で反応するのか、妖の血なのか術者なのか。それともただの人間でもそうなるのか。それすら分からねえもんを、どうやって解けってんだ」

「まさか、妖や人に血を下さいなんてとても言えませんから……どうしましょう」


 困ったように少女は視線を当主に向けると、考え込んでいた当主は口を開いた。


「でんと集くんの血ならいくらでも抜いていいのだけれど、璃子ちゃんがかわいそうだしねぇ」

「おれラはカワイソウじゃねーのかヨ!!」

「少しは謙虚になっていいんじゃないかしらねえ」


 不貞腐れていた猫がここぞとばかりに反論するも齢数百年のババアは気にすることも無くおっとりと返した。


「これ以上考え込んだって、情報が少ねえんだから何も出てこねえだろ。明日、お前ん家行くから」

「ええっ、明日!?」

「この家じゃ何にもわかんねーから、お前ん家を物色しに行く」

「い、いいですけど……でも、あるかな……」


 少女の様子から、目に届くような場所にはないのだろうし、騒動の折に探し尽くしただろう。十数年たった今、再び調べたところで術の痕跡すら微塵もないのかもしれない。

 まずは桐生家の情報収集。以前の術や活動の記録くらいは探ればでてくるだろうか。


 困惑した少女の視線と年寄りの溜息を気にすることなく物思いに耽った。







 案内された家は、新しくはないが古くもない。ただ普通とは随分と掛け離れた家だった。


「……いかにもって感じの家だな」

「私だって、普通の家が良かった……」


 門も塀も屋根付き。敷地内に踏み入れると、地面に埋め込まれた飛び石の先には広々とした庭。当然のように池があり、鯉が優雅に泳いでいた。地面には白い砂が撒かれ、水紋の様な模様が描かれている。


 気不味そうにちらりと向けられた視線に思わず後退りした。


「率直に言っていいか」

「ええと……はい」

「ここまで金を持て余してるとは思わなかった」


 顔が嫌でも引き攣る。枯山水まで本格的で、鯉なんてみごとな模様で一匹いくらするんだろうか。

 萎びた少女を他所に呆れながら眺めていると、少女の手提げ鞄がもそもそと動く。


「こんだけヒロいと、ジカンかかるナ」


 ぴょこりと出てきた猫の頭に顔を顰める。


「なんでオメーは付いて来てんだよ」

「私が頼んだんです」


 そう言って猫を抱き上げる少女。家を漁るだけなのだから連れてきた妖だけでも事足りる。居なくても支障はないが、どうせ言ったところで大人しく帰るような奴でもない。


「……使えない事もないか。そのでかい眼、隠しとけよ」


 一抹の不安が過るが、今からババアに預けに戻るにも億劫。終始ご機嫌な少女を尻目に、仕方なく溜息を吐いた。




♯♯♯



 


「璃子ちゃん、おかえりなさい。その方がお話の術師の方ね? どうぞごゆっくり」


 事前に話をしていたようで特に驚かれることなく客間に通された。外装や庭からして和風の豪邸なのは理解出来たので、趣味のいい盆栽やら掛け軸やらの飾りには今更驚かない。

 家政婦らしき女は湯呑を人数分置いて行くと静かに部屋を後にした。


「それで、何処から探します?」


 妙に期待を込めた声音で少女に問われて、軽く首を傾げる。


「別に、俺らが探すわけじゃねえぞ。人の手で見つかってんならとっくの昔に見つけてるはずだろ」


 妖術で妖を狩ってきた一族にとっては、術が使えなくなることは相当な痛手だ。家中全てをひっくり返してでも解決する手段を探したはずであることは想像に難くない。


「そっか……そうですよね。屋根裏や床下も、きっと探されてますよね……残念だなぁ」

「そんな狭っ苦しい所なんかいちいち這って行きたくもねえ。それよりも、桐生は妖を飼うことは無かったらしいな」

「まず、飼うって発想からしてありませんでした。後見をしてくださっているらしい鈴切の人たちも妖は絶対悪の考えですから」


 頭の固い鈴切に感化されてそうなったのか、それとも元々そうなのかは知る由もないが、そう言う事なら妖に探らせたことはまだないはずだろう。


「そうだろうと思って、何匹か鼻が利くのを連れてきた」

「……そっか、昨日のびゃくちゃんみたいに影に溶けられればどんな隙間でも見逃しませんもんね」

「それに、妖は人間よりも妖気を感知しやすい生き物だ。何かしらの術が掛けられていたとして、その残骸くらい見つけられれば上々だな。時間が経ってるから、あまり期待は出来ねえが」


 少女はそわそわと辺りの影を見回している。本来桐生家にあるはずの妖絶対悪の思想はもはや影も形もなさそうで、それでいいのかと少女の行く先が少し心配になってくる。……そうなったきっかけは多分、自分と化け猫なのだが。


「……祥鳳、鍾馗。ついでに紫電。影に潜んで家中探れ。妖気、術の痕跡があれば知らせろ」


 座卓の下の影がもぞもぞと蠢き、湯呑の茶が揺れる。ざり、と畳を擦るような音が聞こえた後、すっと波が引いていくように影の色が薄くなった。


「ちょっとアソびにいってくるゾ」


 するりと少女の腕から抜け出した猫はとことこと引き戸の方へと歩いて行くと、前足で器用に戸をこじ開けて去って行った。


「でんちゃんって、そんなかっこいい名前だったんだ」


 困惑したような含みのある呟きに内心苦笑する。十年の付き合いがある自分でも多少の違和感が未だに残るのだから無理もないだろう。


「あんなクソ生意気だって分かってりゃあ、それ相応のを付けたんだけどな。本当、失敗した」

「集真さんがつけたんですか?」

「ババアに言われて仕方なく」


 屍に憑いて間もない頃。慣れない身体を彼方此方にぶつけては転ぶあの猫に僅かながら同情心が芽生え、それなりの名前を選んで付けた。時間を遡れるなら昔の自分に忠告してやりたい。クソ猫で十分だと。


「……でんちゃんたち、大丈夫かな。人に見つかったりしないんでしょうか」

「影に潜んでるんだし、そうそう見つからねえよ。でんは知らねえが。後は待つだけだな」


 近場に会った座布団を枕にして寝転がる。イ草の匂いが広がってすっと肩の力が抜けた。こんな格式に拘った様な家でこの香りだけが安穏とさせてくれるような気がする。


「なんか、拍子抜け……畳ひっくり返したり、押入れの天井から屋根裏に潜り込んだりするかと思ったのに」


 期待が外れた風に息を吐いて座卓に突っ伏す小娘に呆れて、

 

「どういう探し方だそれは……そんなんいちいちやってられるかよ」


 勘弁してくれと目を閉じると、暫くして「暇です」と不機嫌そうな声が掛かる。……遊び相手にでんを残しておけばよかったと心底後悔した。


「……集真さんっていつから灯野さんの所にいるんですか?」


 唐突な質問に虚を突かれて、訝しく思いながら口を開く。


「いつって……十年くらいか?」

「じゃあ、ちっちゃい時からお世話になってるんですね」

「そこまでガキでもなかったけどな……もうそれだけ経つか」


 取り憑いた身体に暫く慣れず、引き摺り這っていた。それが今では多少の不自由はあるものの、生活に支障を感じられない程に動けている。どうしようもない状態でも、意外と何とかなるものだと胸の内に独りごちた。


「じゃあ、でんちゃんもそのくらいから一緒なんですか?」

「多分な。気付いたら、なんかいた。一つ目だわ、喋るわで気持ちわりぃ猫だと思ってたが……それは今も変わんねえか」

「十年くらい、だから……でんちゃんっておじいちゃんなんだ」

「普通の猫ならな。死体だから歳取らねえよ。あと、あいつ身体はメスだ」

「ええっ!? そう、だったんだ……あれ、じゃあ……集真さんって結構年上なんですか?」


 そう訊かれて、ふと自分の年齢について考えた。身体は死んだ時から成長が止まってはいるが。自分がこの身体に入ってから数えればいいのか、それとも全部ひっくるめて計算すればいいのか。


「……あいつが今、十八だから……」


 悶々と思考を巡らせていると、床の軋む音が耳に入った。帰ってきたのだろう。

 思っていたよりも随分早い。これだけ早いのなら、僅かなりでも収穫は期待できそうだ。猫の出て行った戸の向こうに声をかける。


「何かあったか?」

「おう。ジュツはナかったけド、イイもんはあっタ」

「おかえり、でんちゃ――っひ、」


 小娘の悲鳴に訝しみながらむくりと身体を起こすと、影からとことこと歩いてきた姿にぎょっとして息を飲んだ。


 猫の口元から胸毛にかけて、白い体毛が赤錆色に染まっていた――明らかに血だ。それもでんのものではない。


「お前それ、まさか喰ったのか!?」


 それに答えたのは卓の下の影。


「ネコはクった」

「コイツダケ、クッタ」


 その拙い言葉に頭を抱えた。また、ババアにどやされる。……今回は事が事だけに炙られるかもしれない。


「ミがあんまりナかったけどナ。ススるだけススってきタ。フルくてマズかったゾ」

「古い……腐ってんのか……? なんだってそんなもんが」

「私が聞きたいです。まさか家に、ネズミが住み着いてたなんて」

「何処だ?」


 小娘の呟きは無視して猫に問う。


「ぐェっプ……こっち」


 そいつは汚え音を盛大に出した後、尻尾をゆらゆらと振りながら歩き出した。









「ここだゾ」


 屋敷の中心部分だろうか。広すぎて感覚が鈍くなっているが、多分そうだろう。襖はピタリと閉じられ、侵入を拒むような薄暗い雰囲気。その周囲、僅かに血の――それもかなり時間が経っている臭気が鼻を掠め、背筋がぞわりと粟立った。

 小娘は気付いていない様で、猫は呑気に毛づくろいをしている。


「ここ、父の部屋ですよ。勝手に入っちゃ駄目ってきつく言われてるんです。家政婦さん達も勝手には入れなくって。何もない部屋のはずなのに」

「入った事あんのか」

「父が居る時だけですけど。虫一匹見たこともなかったのに……」


 どう考えたって怪しい。普段入れない部屋。古くなった血。でんが血を付けて現れた時点で術書や呪術云々の話どころでなくなったのは確かだ。

 この安穏とした屋敷で、何か得体の知れないものの正体を垣間見ようとしている気がして、これ以上は関わるなと本能が拒絶する。


――これは、ヤバい


「……お前、死にたくないなら暫くババアんとこいろ」

「どういう、事ですか」

「でん、数は」

「サンジュゥ、ヨン。メスしかいなイ」


 絶句した。

 てっきり数体程だろうと思っていたものを、まさか十倍以上の数だったとは。想像以上に事態は最悪で思わず小娘の方をまじまじと見やる。


「そんなにいたんですか!? 気付かなかった……

後でネズミの駆除、業者にお願いしなくちゃ」


 言うべきか、それとも黙っているべきか。一瞬だけ迷ったが、黙っていてもいずれバレる。困った様に腕を組む少女を尻目に、仕方がない事だと自分に言い聞かせて重々しく口を開いた。


「……コイツはな、本来食わなくても生きていけるんだよ。死体だから。それでも、どんなにキツく言っても喰うんだ」

「たべる……? 何を」

「人。人間は美味いってよ。獣なんか絶対口にしない。この色は妖の血じゃねえから、人間でしかありえない」

「ぐるめとイえヨ」

「そんな、まさか」


 信じられない、とでも言うような乾いた声。


「今んとこ考えつくのは……家政婦。入れ替わり激しいんじゃねえのか」


 思い当たったのか、小娘の顔は気の毒になるくらい更に青ざめる。


「うそ……そんな、こと」

「……一回戻るぞ。俺だけじゃどうしようもねえ。ババアに采配頼む。祥鳳、鍾馗。先に行って知らせろ」


 ずるりと影から頭を覗かせた二頭の妖はその声が通じると再び影に身を溶かした。


 少女は口元を抑えて茫然と突っ立っている。そんな小娘を猫は訝しげに見上げていた。


「お父さん、が……? そんな事しない……だって、変なとこなんて何もない……普通の、」

「落ち着け。お前の親父がやったなんて誰も言ってねえ。今は一旦戻るぞ」


 自分に言い聞かせるように呟くそいつを、半ば引きずるようにして屋敷を後にする。でんに付いていた血の臭気は本物。わざわざその惨状を見に行くまでもないだろうが。家の当主の素の顔が脳裏にチラついて重々しく息を吐いた。


 放心状態で大人しく着いてくる少女を見る。


 三十四体。それだけの数がこの平穏な屋敷に、本当に投げ捨てられているのだとしたら――桐生家は終わりだ。


 



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