2
灯野家の一室にて。
襖の奥から静かに音を立て現れた皺だらけの顔に、いつもの笑顔は無かった。珍しく悩まし気な表情をしているのが事態の深刻さを物語っている。
「あいつは?」
近くにあった座布団を軽く投げると当主は慣れた様子で側に落ちたそれを整えて座った。
「少し落ち着いてきたみたい。びゃくを付かせてきたから、幾らか大丈夫でしょう。それにしても、大事になったわねぇ」
困窮して溜息を吐く当主に、自分も同じく息を吐く。
あれから一度、確認しようと部屋に入った。薄暗い部屋の中、大量に散らばる何かの書類を踏み分けて向かった先は物々しい鎖と南京錠が付いた押入れの前。僅かに開いた隙間から照らして見えた凄惨な空間。漏れ出す強烈な腐臭。
まさか信者に大層慕われ町民でさえも敬意を払う名家で、屍が大量に隠されているなど誰も思いもしないだろう。現状を確認した自分でさえ、まるで幻でも見せられたかのような気分なのに。
「家柄の事もあるし、あいつも相当参ってるようだからとりあえず坂谷には連絡しなかったが」
「信じてもらえるかも分からないものねえ。ご立派な名家でそんな嘘みたいな事があるなんて」
最初はこの当主も半信半疑だった。小娘の青褪めた顔と、でんの口周りに付いた血を見るまでは。
「あの家で働いてる女共は何も知らない様だった。部屋に入るなとご丁寧に言い聞かせてたみたいだぜ。桐生の当主は」
当主は思い悩むようにこめかみを抑える。
「それで、当主はいつ帰ってくるのかしら?」
「知らされてねえって。連絡無しに帰ってくる事が殆どらしい。」
「報せもなく? それは、困ったわ……対処しようにも難しいわねぇ」
「あいつをあの家に置いといても仕方ねえと思ってとりあえず連れて来た。この後どうするかは知らねえけど」
「それならここに住んじゃえばいいじゃないの。部屋は余っているのだもの」
そう簡単に言う当主に半ば呆れながら顔を顰める。
「冗談じゃねえ、そもそも灯野の一門に誘った事は一度も無かったんじゃないのかよ」
「灯野の一門には、よ。家に住むくらいは全然問題ないわぁ」
「あんたが良くても、周りがそうは思わねえだろ。また、鈴切と坂谷のジジイが難癖付けてくるぜ」
「言わせておきなさいな。その内諦めるでしょうから」
文句を言おうとして開いた口を諦めて黙って閉じた。どうせ何を言おうにも考えを曲げるような事は無いのだ、このババアは。
住人が増えるのかと頭を抱えて項垂れた。しかしそんなことは今はどうでもいい。
「そんなことより、あの家に何匹か張り込ませといたほうがいいと思うんだけど」
「それはそうねえ。祥鵬、鍾馗。桐生家に付いてなさい。当主がお帰りになったら教えなさいね。くれぐれも口に物を入れないように」
後ろに控えている狐の頭をした二頭は心得た様に頷くとするりと影の中へ溶け込んだ。
「……そういえば、集くんは食べてないのかしら?」
聞き慣れた質問に、ぴくりと肩が揺れた。責められている様な声音でもないのに、背中に冷たいものが走る。
「……喰ってねえ」
「ならいいのだけれど。一度でもそれを口にしたらどうなるか、分かっているわよね?」
咎めるような視線から逃れるように顔を反らした先には、身動きすらままならない様な小さな鉄の檻に入れられた白い毛玉がくたりと項垂れていた。
*
少女がいる部屋の前を通りかかると、毛並みが乱れてぐちゃぐちゃになった白砂が憔悴した様子で出て行く所だった。そう言えばババアが付かせたとか言っていたか。
影に溶けていく小猿を見送った後、僅かに開いた戸を閉めようと手を掛ける。
「どう、なるんですか」
か細い声が聞こえて、伸ばした指がぴくりと震えた。半ば程戸を引くと布団の上で膝を抱え、俯いている小娘が背中を丸めてぽつんと座っている。
「まだ起きてたのかよ」
「……私の家、どうなるんですか」
再び問われた細い声にいつもの威勢はない。この状況でこの様子は当然のことながらも、ざわざわと胸の内が喚いてなんだか調子が狂う。
「坂谷に引き継ぎ頼むだろうな。化け物屋敷の灯野一家に出来る事なんざ、お前の身の潔白の証明ぐらいだろうし」
「……そう、ですか」
「寝とけよ。明日学校じゃねーのかよ」
足元に丸められた布団を広げて寝るように促すも、一向に従う様子はなく、再び溜息を吐いて仕方なしに傍に座ってみた。
暫くしてぽつり、ぽつりと少女は話し始める。
「……木村さん、家政婦の……二週間くらい前に突然辞めちゃったんです。ちっちゃい頃からお世話してもらってて。辞表だけ、置いて出てっちゃったんですって。挨拶も出来なくて、すごく悲しかった」
「余計なこと考えんなよ、寝ろ」
「吉田さん、まだ若いのにご両親がいないって。私、お姉さんが出来たみたいで嬉しかったのに……」
「…………おい」
「三好さんは、どうなるの……? 藤木さんと原田さんは……?」
「キリ、いいから寝ろって」
ピクリと肩が反応して、ようやく顔を上げた。泣き腫らした顔できょとんとこちらを見上げる。
「その呼ばれ方、初めてです」
「……名前、忘れたんだよ。何だっけ?」
「ひど……ふふ」
気不味く思いながらも、青褪めた顔から少しだけ笑顔が溢れただけでいくらか気が抜けた。
いつの間にか、自分まで状況に緊張していた様だ。
「どうせ、今やれる事なんか何もねえんだ。だったら今は寝て、明日ババアと考えればいい。それしかねえだろ?」
「……そうですね」
早く寝とけ、と未だ寝ようとしない小娘に布団を頭から被せて部屋を出る。
やれる事なんて、何もない。
ことが明るみに出れば、桐生家は他の二家――鈴切と坂谷によって解体されるだろう。
坂谷のような権力もなければ、桐生のような大量の信者もいない。鈴切のような妖退治の実績も皆無に等しい。呪われた深山一家を背負った化け物屋敷の灯野に、出来る事なんて幾らもない。
*
「…………頭、いたい」
目に熊を作った少女ことキリは眠たそうに目を擦りながら通学路を歩く。
何かあっては困るから、とババアの指示で送り迎えを任されたが、今思えば家の妖をつけても良かったんじゃないかと今更ながら思う。
「どうしても、お休みしちゃ駄目ですか?」
「休むんなら保健室で休め。その程度であの学校を休めると思うな、甘ったれ」
高い学費払ってもらっているのだろうから、せめて皆勤賞くらいはとれよと思う。
どうせ桐生の当主が帰って来るまで何も出来はしないのだから、家に籠もっていつまでもうじうじしているよりはいいだろう。
こっちだ、と近道である薄暗い小道を示すと不思議がられるも大人しくついて来た。
「こっちの方が近いんだよ。妖も湧きやすいから見付かったら説教かまされるけど。教育指導の藤崎とか、しつけーからな」
思い出してげんなりしているとキリは意外そうな視線向けてくる。
「集さんも、同じ学校に通ってたんですか?」
「術師はそこしか入れねえだろ」
省略された名前にむず痒くなりながらもそう答えると、混乱したような様子のキリが見上げてくる。
「うーんと……妖は、見たことないけれど」
「案外、隠れてるかもな。机ん中とか教壇の下とか」
「ええっ!?」
「なんて、いる訳ねえだろ。術師の教員がうろついてる中で生き残ってる方がすげえわ」
ぽかんとした間抜け面が不機嫌な顔に変わっていく。からかわれた事に腹が立ったのか、むうっと頬を膨らませてそっぽを向いた。
それを指でぶすりと潰して遊んでいると、ふとどこからか、微かに異臭がした――何かが腐ったような。
昨日のこともあってか、緊張が走る。
キリも気になったのか困ったように見上げてきた。まさか、隣から漂ってきていると思っているのか。
俺じゃねえ……はずだ。まだそこまで腐ってねえ、失礼な。
臭いの元を探して辺りを見回すと、少し離れた小道にぽつりと女が立っていた。雪も溶け、新芽が地面から覗く頃だというのに厚手のコートを羽織り、首には暗い色のストールを巻いている。
不審者かと無視を決め込もうと先を歩くも肝心の少女が付いてこない。まさか厄介事に首を突っ込むつもりかと苛つきながらも振り返ると、キリは不審者に対して目を見開き、固まっていた。
「リ子ちゃん」
「……き、木村さん!? ああ、良かった……無事だったんですね」
知り合いかと気が抜けかかったが、何か様子がおかしい。キリの口調からして辞めたはずの家政婦だろう。
「旦ナさまが、しん配なサってたのよ」
「え? ……お父さん、帰ってるの?」
帰っているのなら、憑かせた妖から報せがあるはず。事が事なだけにババアだって呑気にしているはずもない。嫌な予感がして引き止めるように近寄ろうとするキリの袖を引く。
「帰りまシょう」
「き、木村さん? どうしたんですか。なにかいつもと雰囲気が、違うっていうか……」
「旦ナさまが、しん配なサってたのよ」
「え、えっと」
発せられた声は変に単調で一歩、一歩と足を動かすも機械のようにぎこちない。何より近付いて来るごとに腐臭がどんどん濃くなっていく。
「キリ、下がれ」
少女を引っ張って離れさせ、家政婦の上を指差す。そこに水塊が出来上がるとそのまま指の力を抜いてそれを落とした。
ばしゃりとけたたましい音が周囲に鳴り響く。
「集さん!? な、何してるんですか、いきなり水かけるなんて」
「旦ナさまが、しん配なサってたのよ」
「木村さん……どうしてさっきから、同じ事しか――っ!?」
水を吸って重くなったスカーフがずるりと地面へと落ちる。露わになった首元にキリは悲鳴を飲み込んだ。
首の一部が変色して溶けかかっている。
厚化粧でも落ちたのか、顔も所々色が変わり喉元からは白いものが覗いている。明らかに生きている人間のものではない。
「腐ってんな。でんが、身がないって言ってたのはこれでか」
「そんな……そんな、うそ……」
少女は棒立ちになったまま放心したように呟く。
「帰りまシょう」
緩慢とした動きで延ばされる腐敗した腕を持っていた護符で吹き飛ばす。飛んでいったそれには目もくれず、怯む様子もなければ表情一つ動かない。
「くそ、死人じゃあ相性悪ぃ。下がれ」
キリを庇いながらゆっくりと後退りすると、後ろで小さく悲鳴が聴こえた。
新手かと振り返ると、転んだのかキリがそいつに支えられていた。丁度、曲がり角でぶつかったのだろう。
「璃子ちゃん? おはよう。その……昨日はごめ、っ!? なん……」
こちらに気付いた鈴切の少年はその奥、腐りかけた屍に目を見開いた。
「……千李か」
「お前、これは……どういう事だ!?」
「見ての通りだ、そいつ連れてどっか行ってろ」
片腕を失くしてふらつく屍を思いっきり蹴り飛ばす。
後ろから上がる短い悲鳴に鬱陶しく舌打ちをした。
「き、木村さん!!」
「もう死んでる。ただの悪趣味な人形だ、あれは」
壁に打ち付けられたそれは痛みに蹲ることも無く、ゆらりと立ち上がりまた向かってくる。
死霊が憑いているようには見えない。まるで感情――魂が抜け落ちて魄だけで動いているようで、これは自然に生えたものとは思えない。
誰かが造った。死体を術で弄って。
きらりと鋼鉄が光を反射し走り抜ける。
千李が背負っていた得物を引き抜いて屍目掛けて振り上げていた。
「や、やめて!!」
駆け寄ろうとする少女の腕を掴んで引いた。
一切の容赦もなく、右肩から斜めに裂かれたそれは大きく痙攣した後、電池が切れたようにぐしゃりと崩れ落ちた。
それっきり、その人形はピクリとも動く事は無かった。
「キリ、立てるか」
ずるずるとへたりこんで呆然としている少女に反応は無かった。
キン、と鍔を鳴らして振り返る千李は哀れむような顔を少女に向けた後、視線を少し上に向けて睨みつけてくる。
「どういう事か、説明してもらう」
「これは灯野がもう動いてる。鈴切に用はない」
冷静に、淡々と応えると一層睨みが強くなる。坂谷の介入はもう必然的の状況で、ここで鈴切なんかが関わってくれば泥沼は避けられないし解体どころの騒ぎではなくなるかもしれない。
地面に力なくへたり込んで動こうとしない少女を見て思う。
そうなれば桐生の一族信者は疑念を抱き始める。内部分裂は避けられないだろう。取り纏めるはずの当主が、役に立たないのなら。
「……なら、個人的に関わる。この件に鈴切は関係しない。こんなのが襲ってきて、放っておける訳ないだろう!!」
ぴくりと僅かにキリの口許が動く。
「こんなのじゃ……ない」
放心状態で呟かれた言葉に千李は訝しげに眉を顰める。事情を知らない上に妖絶対悪の思想なら仕方のないことだとは思うが。
深く息を吐いて、周りを見渡した。今のところ、近くに新たな屍はいないようだ。
動かない少女を無理矢理立たせて腕を引く。
「移動するぞ。探し回ってんのがコレだけってのは、考え難いからな」
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