行きは晴れやかな青空だったのに、帰りの空は日が傾いて綺麗な夕暮れに変わっていた。もう少しだけ居たかったのだけれど、遅くなってしまうからとまた次に行く約束をして灯野さんの家を出て帰路を歩く。またすぐ会えるというのに、なんだか名残惜しい。


 あれから集真さんに付いて回り、書物庫として使われていた蔵の中で目的の術書を探し続けていた。

 随分と時間が経って今にも崩れそうな巻物から店で売られているような真新しい本まで蔵の棚や壁際にびっしりと積まれ、頻繁に掃除でもしているのか埃一つ見当たらない。


 どうやら灯野さんは読書が趣味のようで、何百年も前からこつこつと蒐集していたらしい。何百年、には首を傾げたけれども蔵の中の資料に圧倒されてそれどころではなかった。集真さんが出した書物や資料を読み終えた順から片っ端に片付け、たまにそれをこっそり読んで夢中になり怒られては片付けの繰り返し。読むのが早い彼の周りには次々と書物が積み上げられ、結局帰るその時まですべてを元に戻すことは出来なかった。


 自分で片付けている様子はなかったから、きっと今も次々と積み重ねられていてそのうち埋もれてしまうんだろうと思う。


 次に行くときは差し入れも用意しないと、マタタビも忘れてはいけない。あとは何を持っていこうかとぼんやりと思考を巡らせていると「璃子ちゃん?」と聞き覚えのある声が聞こえて現実に引き戻された。後ろを振り返るといつかの鈴切の術師が駆け寄って来る。この前のような冷たい雰囲気は微塵もなく、今日はなんだか穏やかな笑顔で一瞬の緊張が緩んだ。


「鈴切……千李さん。どうしたんです?」

「見回りの帰りに偶然見かけたんだよ。一人で上の空みたいだったから、何だか危なっかしくて。妖がどれだけ危ないか、この前話したと思うけど……あまり分かってもらえなかったみたいだね」


 困ったように眉を下げる少年に気まずい思いをしながら俯く。妖全てを憎んでいるような人だから、下手に反論は出来ない。


「……私の事は、大丈夫ですから」

「疎かにするわけにもいかないんだよ。桐生家は鈴切が後見してるんだから。何かあったら困る」

「……それ、初耳です」


 確かに、術が使えない事を相談しに術師の人を招いたり、妖について相談したりと度々お世話にはなっていたような気はする。桐生家に対する協力者、有権者の人達も顔を憶えられないほどいるけれども、鈴切家の後見が必要なほどの状態だったとは思わなかった。やはり術が使えない事が大きいのだろうか。


「……まあ、大分昔の話だし知らなくても無理ないけど。昔は桐生家も鈴切、坂谷と並んだ大家だったんだよ。でも急に術が扱えなくなったらしくて、その折に……」

「そ、そのことなんですけど……どうして術が使えなくなったのか今調べてるんです。灯野さんは呪術なんじゃないかなって言ってて」

「灯野って、あの妖を飼い慣らす邪教の?……何でまたそんな所に」


 訝し気に見下ろされて、動かしていた足が止まる。灯野さんまでも嫌悪の対象になっているなんて知らなかった。ひやりと背筋が寒くなる。どうしてこの人はこう、優しい時と怖い時の差が極端なんだろうか。


「それは、いろいろとあってですね……それより、桐生家の件で何か分かること、ありませんか?」

「うーん、大分前の事だから。資料に残っているかどうか……家で調べてみるよ。灯野家にはもう近寄らないって約束してくれるのなら、ね」

「ど、どうして」


 鈴切家も再度調べてもらえるのなら、何か進展があるかもしれない。そう思ってすぐに突き付けられた条件はとても苦いものだった。

 焦り、懇願するように尋ねる。


「灯野は邪教だって言っただろう?人喰いの妖を飼い馴らすなんて、どうかしてる。討伐が通例なのに」


 渋い顔をして言う千李さんに眉を寄せ、ポツリと呟いた。


「でんちゃんはそんなに悪い子じゃないのに」

「でんちゃん?」

「猫です。白い猫」

「……あの時のか。それならあいつは今、灯野にいるのか」

「そ、そこまでは知りませんけど」


 慌てて誤魔化すように視線を外す。その様子を目敏く察した千李は目元が厳しくなる。


「庇うと重罪だよ。アイツは人喰いの妖だ」

「……うそ」

「本当だよ。だって、被害者は……僕の兄だから。十四年前の妖害による大虐殺事件……鈴切の次期当主だった僕の兄と、数十名の手練がみんな、喰い殺された」

「そんな、ことをするようには……」


 とても思えなかった。確かにガラは悪いしお年寄りに平気で暴言言うし動物虐待もしている最悪な人ではあったけれども。それでも巻き込まないように庇って戦っていたり、妖から(一応)助けてくれたり、傷の手当だって(嫌々ながら)してくれた。そんなこともあった手前、話のような残忍なことをするような人には思えない。


「あいつがやったんだ。あいつ以外、妖ごとみんな喰い散らかされてた……駆除しないと、兄さんもみんなも浮かばれないじゃないか」


 強い口調でそう言う彼に怖くなって後退りすると、逃がさないと言うかのように肩を掴まれる。ぐっと力を入れられて抵抗しようと伸ばした手が空いていた片手に掴まれる。抵抗すら許さない、そんな雰囲気で。


「い、った……!!」

「アイツの居場所、知ってるんでしょ。教えてくれる?」


 一瞬だけ、彼の身体から黒い靄のようなものがじわりと湧くように滲んで現れた。不可視のはずの感情が形になって現れたようでそれがさらに恐怖を掻き立てる。

 答えを急かすように掴まれた部分にどんどん力が入って、折れてしまうんじゃないかと怖くなって渾身の力で突き飛ばして逃げた。



***



「何か分かった?」


頭のすぐ側で問われて視線だけ向けると、粗方読み終わって放り投げたはずの書類を手に持つババアがいた。呪術関連のものは大方読み終えて、積み上げきれない紙の束を布団代わりに寝転がっていたもんだから背中が異様に痛い。むくりと起き上がって肩を回す。

久し振りに頭を使ったからか、疲れ果てて悪態をつく余裕がない。なにも、と息を吐くついでに呟いた。


「……それっぽいものはあっても微妙に違うし。呪術か、ってんなら呪術なんだろうな。誰がやったのかは別として」

「そうねえ。片親が術師であれば素質は必ずあるはずだから。でもって璃子ちゃんは母方が術師だったから、何らかの術がかかっているのは間違いはないわね」


 そう言い、積み上がった書物を懇切丁寧に引き抜くとそこから少しずつ片付け始めた。灯野の影からは妖が二~三湧いて、倒れそうな紙の塔を支えている。でんはどうやら母屋でまだ寝ているようで(呼んでも役には立たないだろうし別にいなくてもいいのだが)仕方なくそこらの子猿姿の妖を捕まえて「茶」とだけ命じた。猿にしては異様に長い尻尾を引っ張られた挙句、命令された妖は拙い言葉でぶつくさ呟きながら蔵を出て行った。それを視線だけで見送って再び紙の布団に横になる。


「集団……だろ……面倒くせえ。こんなん、一から術創るようなもんだろ。手掛かりゼロで、術書も無し……」

「璃子ちゃんのお家にないのかしらね、術書」

「あったら話はここまで難しくなってねえと思うけど。それによそ者には見せねえだろ、普通」


 先祖代々から創られ受け継がれてきた術書は基本、他の術師や一般人に見せることは無い。


 今からおよそ百と数十年前、深山家という大家が禁を破って他の一門に金と引き換えに術書を渡す。その術書の内容が、当時最も力があった一族の逆鱗に触れてしまったため術書と共に当主が塵も残さず燃やされてしまったそうな。以来、術書を他に渡すことを憚って各家々で厳重に保管することになり、それは現代でも灯野家以外は続いている。


 ついでにその深山当主と術書を燃やしたのは灯野当主……すぐそこで本棚を弄っているババアだと言われているが実際に見た者がもう死んでいるために定かではない。

 

「時代がどれだけ変わっても、当主というのは頑迷なのよねぇ。でも今の桐生当主は意外と気前がいいかもしれないわ。後でご主人にお願いしてみようかしらねぇ」


 外れた棚板を片手でぷらぷらと泳がせる灯野当主。後で直せ、ということだろう。普段なら業者雇うか新調しろと一蹴するのだが今は気分転換に丁度いい。もう達筆な文字も印刷された字ですら目に入れたくない。


 妖が引き摺りながら持ってきた土瓶に手を伸ばしたとき、誰かが走ってくる音がして伸ばした手を引っ込めた。まさか鈴切の連中でも攻め込んできたかと半身だけ身を起して戸口を見ていると、現れたのは思っていたよりも小柄な姿だった。


「集真さん……灯野さん」

「帰ったんじゃねえのかよ。いったい何しに――お前、その手……なんだそれ」


 息を切らして戸口に立っているのは先程帰ったはずの桐生家のお嬢サマで、文句を言おうとして一拍止まった。白い右腕の手首に赤い痕――手形だとわかるほどにはっきりと付いていて見ているこちらも痛々しくなってくる。行く先々に厄介事に巻き込まれる不幸体質なのかこいつは。


「あらあら、手首痛そうねえ。どうしたの?お顔も真っ青よ。とにかく座って、湿布を持って来るわ」


 母屋へ戻っていくババアを尻目に、ずるずると座り込みしゃくり始めた小娘をどう扱っていいか分からず途方に暮れどうしようもなく自分もその場に座り込んだ。

  どうしろってんだ、こんなの。



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