4.白翼の天使《ホワイトエンジェル》と沙織の走り
目黒にある屋敷に沙織が戻ると、ガレージで専属メイドの
「お帰りなさいませ、お嬢様」
恭しく頭を下げる千歳に、ニッコリ微笑んでから沙織はサイドシートから車椅子を
千歳は車椅子の後ろに立つと、ハンドグリップを持って屋敷の方へと押し始めた。
沙織が足を怪我した時に屋敷はバリアフリーに改築してある。なので一人でも移動できるのだが、普段はメイドが付き添っていた。
「なにか良い事でもありましたか?」
主が上機嫌なのに気付いて、千歳は尋ねた。
「探し求めていた人と、やっと会えましたの」
口元に笑みを浮かべながら、沙織は答えた。
今日、昼間に首都高を攻めに行ったのは単なる思いつきだった。だが、それが幸運に繋がるとは夢にも思わなかった。
足の怪我をしてから約一年半。苦しいリハビリを克服して退院してから半年。特注のマクラーレン・セナを受理してから三ヶ月。もう会えないと諦めかけていた白いロータス・エキシージCUP260に今日、やっと出会えたのだ。
ドライバーこそ違っていたが、あの走りは明らかに
「ふふふ……」
今日の夜、また
「それは良かったですね」
沙織のあまりの機嫌の良さに、千歳は自分の事のように喜んだ。
「ちょっと仮眠を取りたいから、部屋まで行ってくれるかしら?」
「かしこまりました」
沙織の命に千歳は、階段へと向かった。
階段に取り付けられた
「お着替えはなさりますか?」
千歳の問いに沙織は首を横に振った。
「いいえ、このままで良いですわ」
自力でベットへと移ると、掛け布団代わりのタオルケットを身体に掛けてから千歳を見た。
「夕食になったら起こしてちょうだい」
そして、静かに目を閉じる。
「かしこまりました」
眠りに入る主に、千歳は頭を下げた。
ホテルに戻って、天道が最初にした事は姉、
「でるかな?」
空子も売れっ子グラビアアイドルなので、捕まえるのはかなり困難だと天道は予想していた。けれども、今はどうしても話さなきゃ行けないことがあったので、是が非でも捕まえなければならなかった。
『タカ君?』
だが、意外にもコール一発で空子は電話に出た。
『どうしたの? こんな時間に』
空子は聞いてきたが、それに応えるのももどかしくて天道はいきなり本題を切り出した。
「今、東京に来てるんだけど」
『えっ?』
驚きの声を上げる空子を無視して天道は要件を続けた。
「少しで良いから時間、作れないか?」
『無理矢理にでも、作る!』
空子は即答した。
「カイガシ渋谷ホテルって、知ってる?」
『うん』
「じゃあ、そこのロビーで。どれぐらいで来られる?」
『十分ぐらいで行けると思う』
「じゃあ、それぐらいに』
それで通話は終わった。
「ちょっと行ってくる」
「う……ん」
霞に断ってから天道は部屋を出た。エレベーターでロビーまで降りる。
待つ事、十分。
地下駐車場から上がってきたエレベーターの扉が開き、空子と紗理奈が降りてきた。紗理奈のランボルギーニ・アヴェンタドールLP700でここまで来たのだ。
「タカ君!」
ロビーのソファーに座る天道の姿を発見した空子は満遍の笑みを浮かべて手を振った。
「東京に来るなら、前もって言ってくれれば良いのに」
天道の前に座りながら、空子はほんわか笑顔を浮かべた。隣に紗理奈も座る。
「なんで東京に来たの?」
空子はいつもの調子で聞いてきたが、それには答えず、天道はシリアスな顔で言った。
「姉キ、前にも
「えっ? 何のこと?」
しかし、空子はキョトンとした。
「会ったんだよ、さっき、姉キと
それから天道は、沙織の事を話した。
「最近、噂になってる銀のマクラーレン・セナは、
すると紗理奈が感慨深げに言った。だが、空子は、それでもわからないような顔をしていた。
「一時期、粘着されてたマクラーレン・F1のドライバーだ」
「ああっ……」
紗理奈の補足で、ようやく空子も思い出した。
「そんな事もあったね」
それはまるで他人事のような口調だった。なので、天道はイラッとした。
「あの頃は、空子を追いかけて
そんな弟子の態度に紗理奈は、さらに補足した。
「覚えて無くても無理はない」
「そうなのか!?」
「首都高で
驚愕する天道に、紗理奈は言って聞かせた。
そう言われて、霞も首都高を走ってる時、
「
天道は真剣な目で空子を見詰めた。
「なんとかならねぇか?」
「そう言われても……ね」
空子は困ったような顔をした。珍しく天道からお願いしてきてるのだ。なんとかしてあげたいとは思う。でも……、
「お姉ちゃんが、事務所に免許、取り上げられてるのは知ってるでしょ?」
それは一年ちょっと前の事だ。東京に遊びに来ていた天道を乗せて空子は首都高を走っていた。その時、
それに憤慨したマネージャーは、空子から免許を取り上げたのだ。
「だから、
空子もいつの間にか真剣な目になっていた。
「タカ君に悪いんだけど、お姉ちゃんの代わりに
「空子、そろそろ戻る時間だ」
紗理奈の言葉に空子は席を立った。
「頼んだわよ」
空子は念を押すように言った。
「でも、無理はしないでね」
そして、紗理奈と共にロビーを後にした。
「……」
天道はしばらくソファーから立ち上がれなかった。どうしたものか、そう考えていたからだ。
それでも結論が出ず、とりあえず部屋に戻る事にした。
「どうだっ……た?」
出迎えた霞の問いに天道は首を横に振った。
「駄目だった」
「代わりに
「それしかねぇだろう」
天道は応えたが、顔は晴れないままだった。
夕食を済ませた沙織は、千歳に手伝ってもらいながら入浴を済ませた。同性とはいえ他人に裸を見られるのは恥ずかしかったが、もう慣れた。
それから外着に着替え、ガレージまで車椅子を押してもらう。
手慣れた仕草でセナへと滑り込み、車椅子もサイドシートに収納する。そして、特注の六点式シートベルトを締める。足で踏ん張りが効かない分、こうしてしっかりシートに固定しないとコーナーの横Gで身体がずれてしまうのだ。
オーバーヘッドコンソールに配置されたイグニッションボタンを押す。
”ブォーン!”
M840TRに火が入り、ターボ独特のくぐもったエキゾーストノートがガレージ内に響き渡った。
アクセルリングに指を掛け、ソッと手間に引く。セナは千歳に見送られ、ゆっくりとガレージを出た。
一般道を走り、荏原の入り口から
一ノ橋
時間はまだ夜の十時を回ったぐらいだったが、一般車両はかなり少なかった。誰にも邪魔されず、沙織はアクセルリングを手前に引いて、快調に飛ばしていく。
すると、江戸橋
「いましたわね」
天道のエキシージだ。
チカッチカッとパッシングする。
「来たな」
それをサイドミラーで確認した天道は、短くハザードを出した。
アクセルペダルを目一杯まで踏み込む。2ZZ―GEが唸りを上げる。
沙織もアクセルリングを一番手前まで引いて、セナを加速させる。
二台の
神田橋
それに対して沙織は、コーナー手前でアクセルリングを離して一番内側のブレーキリングを押す。そうしながら、シフトレバーを手前に引いてシフトダウンした。
適切な速度に減速したセナは、高速コーナーをオンザレールでクリアする。
しかし、そのおかげでエキシージとの差は開いてしまった。
「やはり、速いですわ」
沙織は感嘆した。今のコーナーも、
竹橋
沙織も同じように
そのまま二台は、北の丸トンネルを通過する。エキシージとの差は徐々に広がり始めていた。
それでも沙織に焦りはなかった。まだ逆転できる場所はある。
千代田トンネル手前の中速コーナーに突入する。
天道はこの
「落ち着くのよ、沙織」
横になってコーナーへと侵入していくエキシージを見ながら、沙織は自分に言い聞かせた。ここで焦ってペースを乱されたら、それこそ墓穴を掘りかねない。
適切な位置でアクセルリングを離し、ブレーキリングを押す。ロック寸前で指の力を抜いて、そのままシフトレバーを二回、手前に引く。適切な速度まで減速できた事を確認してからステアリング切った。
強烈なダウンフォースで路面に
千代田トンネルの高速コーナーを天道はアクセルワークだけでドリフトに持ち込む。
「凄……い」
それを隣で見ていた霞が改めて息を飲んだ。前に首都高を走っていた時は、
「わたしには無……理」
「そうかい?」
だが、天道は異論を唱えた。
「霞だって大分腕が上がってるんだ」
言いながら霞ヶ関の高速コーナーを高速ドリフトでクリアする。
「もうちょっと練習すれば、出来るんじゃね」
それは伊豆での
こうして
エキシージの遅れて沙織も霞ヶ関の高速コーナーをクリアする。
この先は上りの直線だ。差を詰めるならここしかない。
「車の性能に頼るのは不本意ですが……」
アクセルリングを手前に引いて、沙織はセナを加速させた。
地を駆ける800
グイグイとエキシージとの差が詰まる。遠かったエキシージのテールが迫ってくる。もう少しでスリップストリームに入れると思った時、不意にエキシージのブレーキランプが点灯した。谷町
「クッ!」
沙織も慌ててアクセルリングを離すと、ブレーキリングを思いっきり押しつけた。
セナのフロントタイヤから白煙が上がる。さらに慌てた沙織は、ブレーキリングを押さえる指の力を抜いた。そうしながら、右手でシフトレバーを手前に二回引く。
それでもオーバースピード気味にコーナーに突入したセナは、ラインを外して大回りしながらコーナーをクリアする。
「なんて
エキシージを追いかけるのに夢中になりすぎて、ブレーキング・ポイントを忘れるなんて、まるで初心者だ。
直線で詰めた差もこれで帳消しになったしまった。
「まだ……ですわ!」
それでも沙織は闘志を失う事はなかった。
麻布の緩やかに曲がる高速コーナーを天道は、アクセルワークだけでドリフトに持ち込み駆け抜けていく。
沙織も速度を適切に保ちながら、グリップ走行でコーナーをクリアしていった。
続く一ノ橋
それに対して沙織は、エキシージよりも遙か手前でアクセルリングを離すとブレーキリングを押しつけた。そうしながらシフトレバーを手前に引く。
今度はコーナーの手前でちゃんと減速したセナは、理想的なライン取りでコーナーを加速しながら回っていく。
だが、エキシージとの差はまた少し広がってしまった。
短い直線では差は詰められる。しかし、コーナーでそれを帳消しにするぐらいの差がつけられるのだ。
芝公園の高速クランクコーナーで、差がまた広がる。
それでも天道は手を緩める事はなかった。
浜崎橋
「この程度で……!」
それに沙織は、必死になって食らいつこうとする。同じコーナーを完璧なグリップ走行で走り抜けた。
汐留
ジリジリと遅れだしてはいたが、闘志を失う事はなかった。
とにかく直線で差を詰めたい、と沙織は思っていた。それ以外に勝てる道はない。馬力差に頼らないというプライドは、既に捨てていた。
ここから京橋
次々に迫る橋脚の間を怖いのを我慢してフルスロットルで駆け抜ける。
エキシージとの差が少しずつ縮まっていく。
宝町の上りの直線に差し掛かった。セナはここぞとばかりに、差を詰める。
だが、天道としては
その事は沙織もわかっていた。なので、決意した。いつもはコーナリング時に保っている
それは
エキシージのブレーキングランプが点灯したのを見て、沙織はアクセルリングを離し、ブレーキリングを思いっきり押した。ベンチレーテッド型6ピストンがカーボンセラミックブレーキをしっかり押さえて、タイヤの回転を急激に下げる。だが、耐えられなくなったタイヤが、路面を滑りそうになった瞬間、ブレーキリングにかけた指の力を僅かに抜く。それだけでタイヤは路面をしっかり捉えて
「間に合って……」
シフトレバーを手間に引いてシフトダウンしながら、沙織は祈った。
その祈りが通じたのか、セナはコーナの入り口寸前で減速を完了した。
怖いのを我慢しながら、イン側のコンクリート壁を
理想的なアウト・イン・アウトでセナは中速ヘアピンをクリアする。
エキシージとの差は開いたが、思ったほどでもない。
「これなら、行けますわ!」
続く神田橋
エキシージとの差は、ほんの僅か開いた程度だった。
「
サイドミラーでその様子を見ていた天道が目を見張った。
霞もサイドミラーをのぞき込み、セナの動きを観察する。コーナーをクリアするごとに差が開いてはいくが、先ほどまでのように大きくは開かない。
竹橋
「まずいな……」
千代田トンネル手前の中速コーナーをドリフトでクリアしながら、天道は眉をひそめた。
「どうした……の?」
「これだと、次の直線で抜かれる」
霞の問いに、天道は簡潔に答えた。
その間にも、エキシージはトンネル内にある三宅坂
このままでは、霞ヶ関の直線で
二台は千代田トンネルを抜けた。
ここぞとばかりに沙織はアクセルリングを目一杯引いた。4リッターV型8気筒DOHCツインターボが唸りを上げて、セナを爆発的に加速させる。
グイグイとエキシージのテールが迫る。
「これで……!」
しかし、天道も黙ってやられはしなかった。セナが横に並ぼうとした直前、エキシージは突然、車線変更した。ブロックしたのだ。
「させませんわっ!」
それを見た沙織も避けるように車線変更する。すると、エキシージは再び車線変更した。
結果、二台は蛇行しながら直線を駆け抜けていった。
レースでは直線での車線変更は回数が決められている。だが、
「何度も何度も……!」
既にエキシージの速度は頭打ちだった。だが、
車線を変更するふりをして、沙織は右へと移ろうとする。案の定、エキシージは右車線へと移った。
「掛かりましたね!」
その直後、セナは車線変更をやめて左に戻った。滑り込むようにエキシージの隣に並ぶ。
この先は左コーナーだ。イン側のセナの方が有利にハズだった。
だが、
「しまっ……!」
いざブレーキングの段階になって沙織は自分の
エキシージは、セナのノーズを掠めるようにアウトからインへとドリフト状態で切り込み、そのままアウトへと横向きになって流れていく。
完璧なアウト・イン・アウト。
それに対してセナは、イン側を小回りしなければならず、コーナリング速度を落とさなければならない。せめて立ち上がり時にアウトへ向かいたいが、そこにはエキシージがいる。
結果、エキシージが先にコーナーを立ち上がり、遅れてセナが立ち上がった。
「そんな……」
沙織は自分の
「クッ……!」
しかし、ギリギリすぎた。明らかなオーバースピードで突っ込んだセナはフロントをアウトに流してアンダーステアになる。
焦った沙織は、コーナリング中にも拘わらずブレーキリングを押した。途端、リアタイヤが跳ねて、
「停まって……!」
それを沙織はカウンターを当ててなんとか
だが、そんな調子だから、エキシージには大きく水を開けられてしまった。
「ふーっ…………」
大きく息を吐いた沙織は、アクセルリングを緩めた。
「今夜はここまでですね……」
反省点の多い
セナがついてこない事をサイドミラーで確認してから、天道はペースを落とした。
「速かったな」
「う……ん」
ほとんど独り言だったが、霞はコクッと頷いた。
「特に後半は、コーナリングの鋭さが増してた」
もし、始めから
「本当に手だけで運転してるのかよ」
もし、沙織が五体満足だったら、
そう思った天道は、唇に笑みを浮かべた。強い相手は大歓迎だ。
「次の
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます