3.バイトと霞の不安

 伊豆滞在二日目。

 いよいよ今日から本格的にバイトが始まる。

 天道、霞、澄生、由布子は、水着に着替え浜辺に集合していた。

「じゃあ、これきておくれ」

 海の家【よつわ】の店長である美香子からTシャツを渡される。胸には大きく、よつわ、と書かれていた。

 Tシャツを着ると、今度は配置決めだ。

「蓮實君は、調理のバイトしてるんだ?」

「おうっ」

「だったら、あたしと組んで裏方ね」

 それを聞いた天道は、嫌な予感がした。しかし、調理の経験があるのは自分だけなので断るわけにもいかない。チラッと霞を見ると、案の定、不安げな顔をしていた。

「残りは、接客だけど……経験は?」

「無いっす」

「無いよ」

「あたし……も」

 三人の答えに美香子は頭を掻いた。

「じゃあ、基本から教えるから」

 そう言ってから美香子は、天道を見た。

「あんたは仕込みに入っちゃって」

「うっす」

 天道は答えると店の調理場に入った。

 美香子が三人に注文の取り方を教えている間に、野菜などを包丁で切っていく。

 ちなみに海の家のメニューは、焼きそば、ラーメン、カレー、それにかき氷だ。普段のファミレスとは勝手が違うが、わからないレベルではない。

 仕込みを順調に進めていくと、霞、澄生、由布子のも終わり店は開店できる状態になった。

「ハイ、ハイ、着替えはこちらです」

 さっそく海水浴客が更衣室を借りに来る。それを由布子が案内する。

 まだ時間が早いので食事に来る客は皆無だ。

 しかし、天道は大きな鉄板の上で焼きそばを焼いていた。ステンレス製のミートターナーを両手に持ち、そばをひっくり返している。

 開店した以上、直ぐに客が来るとも限らないからだ。

 その横では、煮込んだカレーを美香子が味見していた。

「うん、こんなもんだね」

「ジャガイモは入れないんだな」

 満足そうな美香子に、天道は聞いた。このカレーも天道が仕込んだ物だ。指定で野菜はタマネギのみとなっていた。

「ジャガイモは足が速いからね。すぐ腐っちまうのさ」

 美香子の答えに天道はふーんと思った。美香子はこれでも短大で食物栄養学を学んでいる。海の家の開業に必要な食品衛生責任者の資格も持っていた。

 ラーメンの麺とスープ、それに具も用意してある。

 あとは客の来るのを待つばかりだ。

 最初のうちの客は更衣室を借りる客ばかりだった。

 だが、日が高くなり、十一時を過ぎた辺りからポツリポツリと客が入り始めた。

「ハイ、焼きそば二つとコーラー二つですね」

「こちらはカレー一つにラーメン一つ、それにジンジャエールを一つにオレンジジュースが一つですね」

 元々、接客向きの性格をしている澄生と由布子は、そつなく仕事をこなしていく。

「えーっと……焼きそば……一つと……カレーを一つ……です……ね?」

 それに対してバイトも初めて、接客も初めて、さらに基本的には内向的な性格の霞は、まごまごしている。

 昼が近づき、客も増えてきた。

「焼きそば一つとラーメン二つ、あとカレーを一つね!」

「こっちは、焼きそば二つに、ラーメン二つ、それにかき氷が四つだ!」

 次から次に入ってくる注文に、調理場の天道はてんてこ舞いだ。

ファミレス今のバイトでも、こんな忙しくねぇぞ」

 文句を言いながら、両手に持ったミートターナーでそばをひっくり返し続ける。外の暑さと鉄板の熱で天道は既に汗だくになっていた。

「えーっと……ラーメン二つに……カレーを二つ……」

「あいよ。ラーメン二つにカレーが二つだね」

 霞から注文を受けた美香子は直ぐに準備する。

「ラーメン二つにカレー二つ、上がったよ」

「は……い」

 それをトレイに乗せて、霞は客へと向かった。

 だが、

「そんなの頼んでないぞ!」

「え……っ」

 その言葉に霞は固まってしまった。

「かすみん、それこっち!」

 いち早く気付いた由布子がフォローする。

「も……申し訳ありませ……ん」

 辛うじて事前に教わった事を思い出した霞は、頭を下げると由布子が指さしたテーブルへと向かう。

「ふーっ……」

 そばをひっくり返しつつ、その様子を見ていた天道は、自分の事のように安堵の息を吐いた。

「心配?」

 と、美香子が天道の背中に胸を密着させて後ろから聞いてくる。

 Eカップの胸を押し当てられて、天道は一瞬、言葉を詰まらせた。

「そりゃあ、彼女だから」

 しかし、直ぐに投げやり気味に答える。

「あんた、あので満足してるのかい?」

 さらに胸を押しつけながら美香子は誘惑した。

「あたしなら、いろいろしてあげるよ」

 そう言って胸をゴリゴリと押しつけてくる。

 柔らかい物が背中を這い回る感触は、普通の男子高校生なら、一発で堕ちてしまうところだろう。

 だが、天道は違った。この手の攻撃は姉で慣れていたのだ。

「手が止まってるぜ」

 なので、ピシャとはねのける事もできた。

「つれないねぇ」

 その態度に残念そうな顔をした美香子は自分の持ち場に戻った。

「ヤレヤレ、だぜ」

 やっと拷問のような責めから解放された天道は肩をすくめると、再びそばをひっくり返す作業に戻った。

「…………」

 そのため、店の端から自分の方を見てムッとしている霞には気付かなかった。


「ふーっ……」

「これで一段落、かな?」

 お昼の繁忙期を過ぎてようやく客足も減った店の中で澄生と由布子は、テーブルの上でぐったりしてた。

「こんな忙しいなんて聞いてないよぉ」

 由布子が辛うじて残った元気で文句を言う。

「ははは……」

 それにから笑いで答えてから、美香子は由布子の前に焼きそばとかき氷を置いた。

「昼食、まだろう?」

 それから澄生と、同じくテーブルに座り休んでいた霞に同じ物を置く。

「いいの!?」

「賄いだ。遠慮無く食べな」

「ありがとう! みか姉ちゃん!」

 喜び勇んだ由布子は早速、焼きそばをパクパクと食べ始める。

「旨いっす!」

 同じく焼きそばを口にした澄生も感嘆の声を上げる。労働の後の食事は旨いと聞くが、それは本当だったようだ。

「…………」

 だが、霞だけは特になにも言わず、黙々と食べている。

 そんな霞の態度を天道は気にした。ちなみに天道の賄いは、焼きそばはもう結構、ということでラーメンを食べている。

「じゃあ、食べ終わったら今日はもう良いから、海で遊んでおいで」

「神……」

 美香子の言葉に、澄生は女神を見るような目で拝んだ。

「いや……初めからそういう約束だからね?」

 その態度が気に入らず、由布子はすかさず突っ込みを入れる。

「じゃあ、遊ぶか!」

 さっきまでの疲労はどこへやら、食事を終えた澄生はテーブルから立ち上がった。

「あっ! 待って!」

 まだ完全に食べ終えていなかった由布子が慌ててかき氷をかき込む。しかし、

「うっ!」

 頭がキーンとなって、身悶えた。

「焦りすぎだぜ」

 それを見た天道が、せせら笑う。

 結局、由布子が回復するまで待って、四人はTシャツを脱ぐと海の家を出て海辺へと向かった。

「海、冷た!」

「波が引く感覚、気持ちいい!」

 さっそく澄生と由布子が海へ入り、はしゃいでいる。

「……」

 天道も霞と一緒に海に入ったが、楽しそうな顔をしていない。はっきり言えば、不機嫌そうだった。

 そんな霞に天道はバシャッと海水を掛けた。

「!?」

 不意打ちを食らって霞はびっくりした様子で、天道を見た。

「なに、怒ってんだよ?」

 そんな霞を挑発するようにニヤリと笑った。

「怒ってなんかな……い」

 反論しながら、霞も天道に海水を掛ける。

「そうか?」

 それに対して天道はまたもや海水を掛ける。

「そ……う!」

 強く言いながら、霞も反撃する。

「なら、いいんだけど、よ!」

 天道も反撃の反撃に出る。

 いつの間にか二人は海水の掛け合いになっていた。

「……楽しそうだな」

「だね」

 そんな二人を澄生と由布子はヤレヤレという顔で見守っていた。


 その日の夜、夕食と温泉を終えた天道と澄生の部屋に美香子がやってきた。

「これから走りに行くけど、一緒に行かないかい?」

「いいぜ」

 美香子の誘いに、天道は二つ返事でOKした。それから、

「カスミにも声をかけるか」

 と、隣の部屋に行こうとする。

「あたし的には、二人っきりの方がいいんだけどね」

 天道の行動に、美香子は異論を唱えてした。

「その手には乗らないぜ」

 それを一蹴して、天道は引き戸越しに声をかけた。

「カスミ、が走りに行くって言ってるけど、一緒に行くか?」

 すると、部屋の中からドタバタする音が聞こえた。そして、ちょっと間を開けて扉が開く。

 中から浴衣姿の霞が顔を出した。

「行……く」

 それから即答する。

「肆輪は?」

 部屋の中をのぞくと、既に布団が引かれていて、同じく浴衣姿の由布子が寝そべっていた。

「銀矢は行くの?」

「いや、行かねぇ」

「じゃあ、あたしも行かない」

 多分、そう言うだろうと思った天道は、霞にだけ簡潔に告げた。

「なら、十分後に車の前で」

「わかっ……た」

 霞は頷くと、引き戸を閉めた。

「じゃあ、そういう事で」

「ああぁ、わかった」

 そして、十分後。

 天道、霞は旅館の駐車場に停めてるエキシージと458の前にいた。

 天道はTシャツにジーパンに着替え、霞は走る時にいつも着ている赤いジャージ姿だった。

「それ、持ってきてたんだな」

「うん……タカ君、きっと走るだろうと思っ……て」

 そうしているうちに旅館の奥にある従業員駐車場から美香子がR8RWSを引っ張り出してくる。

「おまたせ」

 それを見て天道とか霞も愛車に乗り込んだ。

 旅館を出た三台は、県道を上ると、伊豆スカイウェイの天城高原インターチェンジICまで来る。ここも芦ノ湖スカイウェイと同じく夜間は料金所に人がいない。無人の料金所を通り抜けると、天道が真っ先に飛び出した。

「えっ?」

 当然、地元の自分が先頭を切るものと思っていた美香子は慌てた。アクセルペダルを踏み込みエキシージを追う。霞の458は最後尾だ。

 既に行きでコースを覚えていた天道は、コーナーを理想のラインと理想のドリフトアングルで駆け抜けていく。

「速いっ!」

 それはここを主戦場ホームにする美香子も舌を巻くほどだった。

「来た時よりも速くなってないかい?」

 それでも地元の意地がある。美香子は天道に追いかけて、始めから限界ギリギリでコーナーを攻める。

「……っ……!」

 そんな二人に対してまだコースを覚えきっていない霞は、追走するがジリジリと遅れ始める。

「待っ……て」

 徐々に遠ざかっていくエキシージとR8RWSに、霞は手を伸ばしそうになった。

 結局、熱海峠インターチェンジICには天道が先着して、続いて美香子、少し遅れて霞が着く。

「いやぁ、本当、速いね」

 休憩のため路肩に停めたR8RWSから出てきた美香子は、感心するように言った。

「まぁな」

 同じく路肩に停めたエキシージから出てきた天道が答える。

「お姉さん、面目丸つぶれだよ」

「こっも箱根最速の看板背負ってるからな、負けられねぇよ」

 そんな会話を458から降りた霞は黙って聞いていた。

「じゃあ、そろそろ行くか」

「今度は負けないよ」

 数分、会話をして天道はエキシージに乗り込んだ。美香子もそれに習う。ただ、霞だけは458の横でなにか考え事をしていた。

「カスミ?」

 エキシージをUターンさせた天道は、左ウインドウを開けて心配そうに声をかけた。

「あ……っ」

 それで霞は我に返った。

「すぐ行……く」

 それから慌てて458に乗り込んだ。


 時間は午前零時を回っていた。

 旅館の部屋に戻ってきた霞は、既に寝ている由布子を起こさないようにソッとジャージから浴衣に着替える。

「んんん……かすみん?」

 そこで由布子が目を覚ます。

「帰ってきたんだ……」

「ごめんね……起こしちゃっ……た」

 霞は小声で謝る。だが、声が小さいのは深夜だからという訳だけではなかった。覇気が無い。そんな感じがした。

「元気ないね?」

 それを敏感に察した由布子が眠い目をこすって聞いてきた。

「どうしたの?」

 その問いに霞は少し躊躇した。だが、心配そうに自分を見る由布子に胸の内を明かした。

「タカ君と美香子さんが、楽しそうに走って……た」

 それを聞いた由布子は冷やせ笑いをした。

「ミカ姉ちゃんにも困ったもんだなぁ」

 それから優しげな目で霞を励ました。

「大丈夫だよ。蓮實が好きなのはかすみんだけなんだから」

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