8.VS

 翌日の早朝。

 まだ日も昇っておらず、夜の闇が漂う中、天道が芦ノ湖スカイウェイの箱根側の料金所に着くと、既に蒼いフェラーリ・458が待っていた。

 458の後ろにエキシージを付けてると、すぐに左のドアが開いて霞が降りてきた。それに習って、天道も外へと出る。

「早ぇな」

 約束の時間まではまだ20分近くあるから、てっきり自分の方が先に着くだろうと思っていたので、天道は意外そうに聞いた。

「普……通」

 それに対して霞は、昨日の怒りがまだ収まらないのかそっけなく答える。

 霞は今日も前と同じく、よれよれのジャージを着て、ヘアバンドで前髪を上げていた。それが運転する時のスタイルらしい。

 この前も思ったことだが、素顔の霞は正真正銘の美少女だった。天道が思わず見とれてしまうぐらいに。

「……どうした……の?」

「いや……なんでもねぇ」

 、慌てて余計な思考を頭から蹴り出すと、天道は本題に入った。

「さっそく始めるか」

「うん……で……も」

 しかし、そこで霞が異論を挟んだ。

「スタートは……どうする……の?」

「あっ…………」

 それは全く考えてなかった。

(無理にでも澄生を引っ張ってくればよかったぜ)

 事情を知る澄生は当然、今回にバトルにも興味津々だったが、スタート時間が早いと同行を断った。元々、付き添いなんて必要ないと思ってたから天道的にも異論は無かったのだが、今となってはそれが仇になった。

「どーすっかなぁ……」

 天道が思案してると、

「私がやりましょう」

 どこからともなく声が聞こえた。

 見回すと、料金所の影から、高級そうなスーツをビッと決めた美男子イケメンが、ゆっくりここちらに向かって歩いてくるのが見えた。

 晶だ。

 なぜここに、とは天道は聞かなかった。晶が霞――と自分――を監視してるのは、既に充分すぎるぐらい知っていたからだ。

「お願……い」

 それは霞も同じだったらしく、特に驚いた様子も見せずにそっけなく言った。

 それぞれの愛車に乗り込んだ天道と霞は、道の真ん中に立つ晶を目印に左右に車を並べた。

 右がロータス・エキシージ。

 左がフェラーリ・458。

 ドクッドクッと心臓の音がいつもより大きく聞こえるのを霞は感じていた。

(焦っちゃ駄……目)

 自分に言い聞かせながら、ステアリング右のマネッティーノ設定ダイヤルを一番右にセットする。それから、センターコンソール左にある赤いボタンを押した。そして、左足でブレーキを踏みながら、右足でアクセルと目一杯踏み込む。

”ブォォォォォォォォォォォォォォォ!”

 背中で4.5リッターV8エンジンが唸りを上げる。

「さて……」

 一方、天道はいつも通りの手順で、クラッチを切ってギアを1速へと入れると、アクセルを吹かした。

 二人の準備が整ったのを見て晶は右手を挙げた。

 2台のエキゾーストノートがさらに高まる。

 そして、まるで手刀で中を切るように手が振り下ろされる。

行くぜSHOW TIME!」

 天道は、素早く、そして丁寧にクラッチを繋ぐとアクセルを若干緩めた。絶妙のクラッチワークでトラクションを余すことなく路面に伝えたエキシージは、スムーズに、そして勢いよくスタートを切る。

 それに対して458は、わずかにリアタイヤを空転ホイルスピンさせて、リアを控えめに左右に振りながらスタートする。

「……ん?」

 それでもパワー差で2台はほぼ並んで最初のコーナーへと突進していく。だが、天道はそんなことよりも今の458のスタートの仕方に気を取られていた。

「アイツ、CSTオフにしてるのか?」

 ほんの一週間前はそれでかなり酷いことになったが、今は酷いぐらいで収まっている。それは霞が車の制御コントロールをかなりのレベルまで上げた証拠でもあった。

「雪が降るまで待たせるつもりはない、は、ハッタリじゃないってことかよ……」

 天道は霞の成長ぶりに俄然興味がわいてきた。本当なら、最初の1コーナー目でつもりだったが、アクセルを緩めてわざと458を前に出す。

 最初のコーナー、右110Rが迫る。

 感覚的天道が覚えている場所で、458の砲弾型のテールランプが激しく点灯した。

 微かにフロントタイヤから白煙が上がり、グッとフロントノーズが沈み込む。それがサスペンションの弾力で元に戻る前にタイヤが右へと切られる。

 458はゆっくりとターンインを始めるが、フロントが流れて明らかにコーナーのRよりも大回りになる。

”キィィィィィィィィィッ!”

 そのタイミングで今度はリアタイヤが白煙を上げる。アクセルオンのよる意図的な空転ホイルスピンでブレイクしたリアは急激にアウトへと流れる。

 結果、458はノーズをインに向けながら、弧を描くように横滑りを始める。同時にフロントタイヤが左へと切られ、カウンターステアで姿勢を制御コントロールしようとする。

 しかし、コーナーの出口が見えてもリアが流れてノーズがインに回り込むのが止まらない。

「……くっ!」

 霞はさらにステアリングを左へ切った。そうしながら、アクセルを気持ち緩める。それでリアの流れは止まったが、ここで安心しては駄目なのは、既に経験上知っていた。

 止まったリアは直ぐにステアリングの方向に合わせて逆方向へと急激に流れ出す。それを予想していた霞は、流れるよりも早くステアリングを戻そうとするが、それでも間に合わずリアがインに流れる――ノーズがアウトを向いてしまう。さらに修正しようとステアリングを再び逆に切る。

 その動作アクションを2、3度繰り返してようやく458はまっすぐコーナーを立ち上がった。

「70点……ってところか……」

 それをでじっくり見ながら、天道は口の中で呟いた。

「まだまだ、荒削りだ」

 言いながら天道は同じコーナーを、ほぼカウンターを当てない――ゼロ・カウンターでクリアする。もちろん、リアはなんて貰ってない。

 だが、たった一週間前までロクに車を制御コントロールすることもできなかった霞が、あそこまでできるようになったのは賞賛に値するとは思った。

 そして、相手が思ってたよりもずっと手強そうなことも。

 それは決して奇跡なのではない。

 幼い頃よりこなしてきた習い事としてのスポーツは、霞の運動神経や反射神経を発達させた。

 加えて、今までの運転経験が上達を後押しした。

 首都高で、峠で、ありとあらゆる場面でスピンしまくったおかげで、身体が、車を流すという感覚を覚えてしまったのだ。

 ドリフトの練習のひとつに、まずスピンしまくる、というのがある。テールが流れる感覚を体得することで、制御コントロールをする感覚も会得しようというやり方だ。

 期せずして霞はそれをやっていたのだ。

 だからこそ、この短期間で及第点ギリギリとはいえ、ドリフトができるようにまで成長できたのだ。

 そのまま、458とエキシージは左の100R、右の30R、左の110R、左の65Rをテールツーノーズで駆け抜けた。

 そして、天道が霞にドリフトを見せた40Rをこの前とは逆方向からクリアする。

 ここからが霞にとっての勝負所だった。

 ここからやぎさんコーナーまでは登りの直線。このコースで車のパワー差が一番出る部分だ。

(車の性能に頼るのは……気が引けるけ……ど……)

 コーナーを立ち上がった霞はトラクションを意識しながら、慎重にアクセルを踏み込んだ。

「勝ちは……勝……ち」

 地を駆ける578馬力ps

”ブゥォォォォォォォォォォォォォォォーーーーーーーーン!!”

 ミッドシップMRフェラーリとしては初めて直噴ヘッドを採用した、4.5リッター、90度V型8気筒エンジンが唸りを上げ、ルームミラーの中のエキシージが徐々に小さくなっていく。

「イケ……る」

そのまま左85Rのやぎさんコーナーに進入しようとする。だが、ここは目一杯で行ってはいけない。コーナーを立ち上がると直ぐに40Rヘアピンが迫るからだ。ヘタに速く抜けすぎると、今度はブレーキングが間に合わなくなる可能性があった。

 なので、霞は感覚で覚えた適切なブレーキングポイントよりも手前でブレーキペダルを踏んだ。

 アクセルオンも控えめにする。皮肉にもおかげで458は理想的なドリフトアングルでやぎさんコーナーを立ち上がる。

 続いて40Rヘアピンへアプローチする寸前、霞はルームミラーでエキシージとの距離を確認する。

「……!?」

 そして、目を剥いた。

 エキシージがリアからコーナーの出口に現れたからだ。

 その勢いの良さから霞は、オーバースピードでスピンしたんだと霞は思った。

 だが、

「いしょっ、と」

 ドライバーズシートに座る天道は涼しげな顔でステアリングを思いっきり右へと切った。大きくカウンターがあたり、それまでアウトに流れていたリアが急激にインへと戻る。そして真ん中ニュートラルを通り越すとフロントを引きずるようにさらにインへ――すでにコーナーは終わっていたので、次のコーナーのアウトへと流れていく。

 そのままエキシージは車体を横向きに流したまま、40Rヘアピンへとアプローチした。

 フェイントモーション、または逆ドリフトと呼ばれる走法テクニックだ。

 天道は、やぎさんコーナーをわざとオーバースピードで回り、を利用して振り子の原理で通常では不可能な速さで車体を逆へ振り、ヘアピンへのドリフト体勢を整えて、やぎさんコーナーとヘアピンをとして駆け抜けたのだ。

 おかげで直線で遅れた分はこのヘアピンをクリアした時にはほぼ帳消しになっていた。

「…………!」

 あまりの出来事に霞は言葉を失った。スピンしたと思った天道が、40Rを抜けたら突然、真後ろに現れたのである。実際に何が起きたのか見ていなかっただけに、その衝撃はひときわだった。

 続く80Rからの短い直線では馬力パワー差で少し引き離すことができたが、その先の100Rで簡単に追いつかれてしまう。

(どうし……て……!?)

 霞は焦った。

(勝てない……の? わたしは……勝てない……の?)

 別にたった1週間の特訓で天道に追い着いたとは思ってはいなかった。それでも車の性能差も考えればすこしはと思っていた。

(やっぱりわたしは……なにもできない……の? いらないな……の?)

 だが、運転技術ドライブテクニックの差をまざまざと見せつけられて、霞の思考は暗黒面ダークサイトに堕ち始めていた。


「……やっぱ簡単には抜けそうにないな」

 右の30Rヘアピンをドリフトで駆け抜けながら、天道は思案した。ここまでの対戦バトルで霞の走りはだいたい把握していた。

 ブレーキングポイントは自分よりも2/3車身ほど遅いだけだ。これではブレーキング競争だけで抜くのは難しい。

 そうなると前回と同じく立ち上がりが狙い目になる。天道と霞の速さの差はまさにそこなのだ。

 一般的に舗装路ターマックでは、ドリフト走行よりもグリップ走行の方が早いと言われている。

 だが、その認識は誤りと言っていい。

 例えば、路面の摩擦係数μが低いダートや雪上なのでは、ドリフトの方が断然早いのだ。

 それでも一般的に舗装路ターマックではグリップ走行の方が速いとされるのは制御コントロールの問題があるからだ。

 摩擦係数μが高い舗装路ターマックでは、ブレーキのロックに頼らずにタイヤを滑らせるためにはかなりの速度が必要になる。それはつまり、一度滑り出してからタイヤが限界を超えて完全にグリップを失うまでの速度=時間も短いことを意味する。

 その僅かな時間で車を制御コントロールして、最適な姿勢とラインを保つことはかなりの高難度で、そのロスや、さらに失敗してスピンしてしまった時の危険性リスクを総合的に考えると、結果的にグリップ走行の方が速くなってしまうことが多いのだ。

 それこそがドリフトが高度な運転技術テクニックと言われる所以でもある。

 ドリフトが難しいのではない。

 速い速度でドリフトするのが難しいのだ。

 現に霞も滑り始めてからの制御コントロールに手を焼いて、結果として立ち上がりでかなりロスしている。

 だが、天道にはそれは当てはまらない。

 幼い頃からジェット戦闘機で時速900キロ近くの速度で飛んでいた天道は、速度の感覚が常人とは根本的に異なるからだ。

 1秒の感覚が長いのだ。

 普通の人が一瞬と感じる時間でも、天道にとっては欠伸が出るぐらい長く感じられるのだ。

 故に、車の動作も千分の数秒、千分の数ミリ単位で感じることができる。そのため、車の滑り出しを文字通り素早く察知して対処することが可能なのだ。

 加速世界はなにも仮想空間ヴァーチャルだけではない。現実リアルにも存在するのだ。

 もちろん、感覚だけでなくそれに対応できるだけの反射神経と身体能力も天道は幼い頃からの鍛錬トレーニングで充分身につけていた。

 そして、その差こそがつけいる隙でもあった。

 が……、

「さすがに隙がない」

 前回の対戦バトルで、458は後続車をまるで意識していなかった。だが、今の霞は明らかに後ろの天道を意識している。

 立ち上がりの制御コントロールに苦戦しながらも、しっかりとラインを塞ぐようにブロックもしているのだ。

「誰かが入れ知恵しやがったな」

 エキシージのコクピットの中で天道は詰った。もちろん、相手は誰かはわかっている。この短期間での上達も考えれば答えは明白だ。

 それそれで良い傾向なんだとは思う。だが、今はそれがマイナスに働いている。前に出なければ勝つことはできない。

「となると、やっぱ、あそこか……」

 だが、それでも天道にはまだ余裕があった。芦ノ湖スカイウェイここでのを天道は持っていたからだ。


 そのままロータス・エキシージとフェラーリ・458はテールノーズのまま、中速コーナーに時折低速コーナーが混じる区間を駆け抜けていった。

 その間も何度となくエキシージはブレーキングで458の横に並ぼうとするが、ギリギリのところで凌いでいた。

 それは充分善戦していると言っていいのだが、霞の心理状態は違った。

(抜かれちゃ……う…………!)

 エキシージが並びかけるたびに肝が冷える。

(抜かれちゃ……う……!)

 負けるかもしれないと思う。

(抜かれちゃ……う!)

 自分が存在価値無い者だという現実が突きつけられる。

 すでに霞に集中力は限界まで来ていた。

 そしてコースは三国峠へとさしかかる。連続する20Rから50Rの低速コーナーは、中高速コーナーに比べれば車の制御コントロールは容易なはずだった。それさえも今の霞にとってはとてつもなく難しいことに思えた。

(駄……目……もう駄……目…………)

 心がどんどん沈んでいくのが自分でもわかった。


「だいぶ集中力を切らしてるな……」

 それは後方から見ていてもはっきりとわかった。もっとも、そういう風にのは天道自身だ。

 抜けるわけもないコーナーでも、積極的にブレーキング競争を仕掛けていく。そうすることで相手に揺さぶりをかけたのだ。そして、その成果は確実に上がっていた。

「そろそろ決着ケリをつけるか」

 45Rの右コーナー。

 そこで天道は勝負に出た。テールを流しすぎてアウトへ膨らんだ458のインへ並ぼうとする。

「させな……い!」

 それに対して、ギリギリで集中力を留めた霞は半車身だけインに車体を振ってブロックする。

「かかったなっ!」

 が、それはフェイントだった。

 458の動きを見た天道はすかさずエキシージをアウトへ持ち出す。

 そこから先は短い直線になっていて、さらに外側に展望所の駐車スペースがあった。

「えっ……!?」

 迷わず天道はエキシージを駐車スペースまではみ出させる。

 これこそが、天道のとっておきだった。

 ここからなら次の60Rコーナーへより直線的にアプローチできるラインが確保できるのだ。

 つまり、458よりもブレーキを遅らせることができる。

「そん……な!」

 霞も位置関係で感覚的にそのこと悟った。

 迫るコーナー。

(負けちゃう……の!?)

 走り込みで覚えたブレーキングポイントを過ぎる。

(嫌……だ! 負けたくな……い!)

 その一心だけで怖いのを我慢してブレーキを堪える。

 その時、左隣にいたエキシージがフッと後ろに下がった。

 霞も慌ててブレーキを叩き踏む。

 フロントタイヤから激しく白煙が上がり、強烈な減速Gでシートベルトが平らな胸に食い込む。それでもお構いなしでブレーキを緩めてステアリングをおもいっきり右へ切る。

 だが、458は霞が望むより遙かにゆっくりとターンインを始める。既に木製のフェインスが目の前にまで迫っているのに。

 死んだ、と思った。

 このままフェンスを突き抜ければ崖下に真っ逆さまだ。

(でも……それでもいい……や)

 結局、自分は天道に勝てなかったのだ。そんな自分に生きる勝ちなんて無い。

 自分は最初からこうなることを望んでいたのだ。

(その時が来ただ……け……)

 そう思った時、

 誰かに背中を押されたような気がした。まるで目の前に迫るトラックから自分を守るように。

「!?」

 同時にリアが急激にアウトに滑る車体がターンインを始める。反射的に霞はカウンターを当てた。そのままドリフト状態になった458は横からフェインスに突進するが、タイヤが生み出す横方向のグリップ力で速度は急激に落ちていき……、

(ぶつか……らな……い!?)

 ギリギリのところで動きを止めた。

「助かっ……た?」

 すぐ左を見るとサイドの窓越しにフェインスとその奥の崖下が見えた。その光景に霞は心底、ゾッとして、心底、ホッとした。

 正面に目をやると今度はフロントウインドウ越しに道脇に止まったエキシージとそこからこっちに駆け寄ってくる天道の姿が見えた。

 天道は458のコクピットには脇目も触れずにリアへと回り込んだ。そして、なにやらテールのあたりを確認している。

 その間に霞は、サイドシート側のドアを開いて這いずるように458から降りた。

「一応、加減したつもりだったけど、キズ付いてなくてよかったぜ」

 それに気づいた天道は、ちょっとバツの悪そうな笑みを浮かべた。それで霞は何が起こったのか理解した。オーバースピードで旋回ターンインもままならない458のリアを天道のエキシージがノーズで押したのだ。

 あの一瞬で、天道はそれだけの判断をして実行したのだ。

 敵わないと思った。

「まだやるかい?」

 天道の問いに霞は首を横に振った。

「無理だ……よ……やっぱり……無理だったんだ……よ」

 そして、寂しそうに呟く。

「もうギブアップかよ?」

 うなだれる霞に天道は意識して挑発的に言った。

 それに対して霞はコクッと頷いた。

「もう……いい……よくわかっ……た……やっぱりわたしはいらないなん……だ。もう……生きててもしょうがないん……だ」

 涙目になった霞を見て、天道は困ったように頭を掻いた。

「結局、死ぬのかよ」

 これははっきり言って想定外だった。自分が霞に勝ち続けている限りは霞は何度でも挑戦してくる。少なくともその間は生き続けてくれると思っていたからだ。まさかたった一度で戦意を喪失するとは思わなかった。

(ちっ……澄生の口車に乗るのはシャクだが……この際、しゃーねぇか)

 仕方なく天道は、あの後で澄生から提案された作戦を実行することにした。

「……例の約束、覚えているよな?」

 その問いに霞はまたコクッと頷いた。それから、周りを見回して、

「ここです……る?」

 と首を傾げた。

「なにを想像したか知らんが、それは多分、違う!」

 怒鳴りつけそうになるのを必死で堪えながら、天道はツッコミを入れる。

「じゃあ……」

 何か言おうとする霞を、天道は真剣な眼差しで見詰めることで制した。

「もう二度と死のうなんて思うな」

「えっ……?」

「それが、俺の命令だ」

 驚く霞に天道はなるたけ感情を表に出さないように努力しながら言った。これこそが澄生があの後提案してきた作戦プランであり、あの時、あんなこと言い出した真意でもあった。

「でも……」

 が、

「わたしには……生きている価値なんてないの……に」

 それでも霞は、頷こうとはしなかった。

「存在する価値なんてないの……に」

 寂しそう呟く霞に、天道はいよいよ困り果てた。ここで霞がゴネるという想定は作戦プランには入ってなかったからだ。

「ああっ! もう! めんどくせぇーなっ!」

 なので、天道はもう全部、ぶちまけることにした。

「俺が困るんだよ! アンタに死なれると」

 じゃないと、自分は霞に負けたことになる。恐らくこの敗北感を背負ったまま一生過ごすことになる。それは我慢できないことだった。

「でも、生きる価値なんて……」

「存在価値がないっていうなら、俺がアンタに存在価値を与えてやる」

 だから、霞を生かすためならこの際、なんだって言ってやろうと思った。

「俺の為に生きろ」

「えっ?」

「たった今から、俺がアンタの存在価値だ」

 とは言え、口にしながらも、かなり無茶苦茶を言ってるとは思った。ただ負けたくなからこんなことを言ってしまう自分に対しても小さく嫌悪していた。

 しかし、その言葉を聞いた霞は、驚いたように目を見開くと頬を赤く染めて、それから消えそうなぐらい小さな声で、

「う……ん」

 と頷いた。

「へっ?」

 予想外の答えに天道は間抜けな声を上げてしまった。

本気まじで?」

 なので、もう一度、聞いてみる。

「う……ん……」

 それに対して霞は恥ずかしそうにうつむきながら、またコクッと頷いた。

(終わった……かな?)

 半信半疑ながらも、天道はホッと胸をなで下ろした。

 ここしばらく自分を悩ませてきた問題にようやく決着ケリがついたと。


 だが、その認識は誤りだった。

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