5 事情を知る者

 その翌日から霞は変わった。

 まるで死霊ゾンビのようなだった歩き方には生気が宿り、憂鬱そうだった表情は不機嫌なものになった。

 他人に対して無関心なのは相変わらずだったが、ただ一人、天道だけは露骨に避けるようになった。

「なるほどね……そーいうことだったのかよ」

 アンパンを一口頬張ってから、澄生はシミジミと呟いた。納得していた。

「なにがだよ?」

 一人納得する悪友を牛乳パックのストローに口をつけようとした天道が怪訝そうに見る。

 昼休みの屋上でのことだ。

 主に姉のファンがウルサイという理由で、昼休みは誰もいない屋上で過ごすのが中学時代からの天道の習慣になっていた。

「司馬のことだよ」

 さらにアンパンを一口食べてから、澄生は言った。ここ最近の霞の変化を見て、先週、この場所で天道がとった行動の意図をようやく察したのだ。

 自ら悪役を買って出ることで霞に生きる目標を与える。

 単純だし短絡的でもあったが、霞は天道の思惑に見事にくれた。

「その事か……」

 が、当の天道はつまらなそうな顔をすると、ストローから牛乳を吸い出す作業に専念する。

「なんか、反応薄いな。狙ったとおりにうまくいきそうなのに」

「そーでもないさ」

 首を傾げる澄生に、天道はストローから口を離すと言い放った。

「えっ?」

 それは、この作戦が一歩間違えれば逆効果になりかねないからだ。だが、それを言えば澄生に怒られるのはわかっていたので、天道は黙ったまま、またストローから牛乳を吸い出す作業に戻る。

「しかし……」

 その態度で悪友がこれ以上説明する気がないことを悟った澄生は、話を変えることにした。

「まさかおまえが、司馬の為にそこまでするとはね」

「ちげぇーよ」

 感心するように頷く澄生に、天道は心外とばかりに反論した。

「言ったろう? これは俺自身の為だって」

「本当にそれだけか?」

「……どーいう意味だよ?」

 疑いの笑みを浮かべる澄生を天道は気に入らなそうに睨みつけた。

「本当は司馬に気があるんじゃないのか?」

「はっ!?」

 悪友の意外な言葉に、天道は本気で驚きの声を上げた。

「んなわけあるかよっ!」

 それから速攻で突っ込みを入れる。

「大体、俺の好みは……」

「速い女が好き、だろう?」

 さらに捲し立てようとする天道を制すように澄生は先回りした。

「だったら、司馬はモロ好みなんじゃないか?」

 一瞬、天道は言葉に詰まった。澄生の指摘が的を得ているように思えたからだ。だが、すぐに思い直すと、

「オマエはアイツの走りを知らないから、そんな勘違いをするんだよ!」

 と怒りの形相で澄生の目の前に人差し指を突き出す。

「アイツ、滅茶苦茶ヘタだし、どうしようもないぐらい遅いぞ!」

「ふ~~~ん」

 しかし、澄生はまったく動じない様子でニマニマと笑うだけだった。

「ふんっ!」

 その態度にますます腹を立てながら、天道は気にらなそうにそっぽを向いた。


 その夜。

 天道は、いつものように芦ノ湖スカイウェイを湖尻峠から箱根方面へエキシージで攻めていた。

 だが、その心中は穏やかではなかった。

(俺が司馬に惚れてるだって?)

 心の動揺は走りにも表れていた。今も立ち上がりのラインがいつもより1ずれてしまった。

(冗談じゃない……!)

 そう思った。

 自分が霞のことを構うのはあくまで自分が負けたくないから――自分自身の為に過ぎないのだ。

(だいたい、俺はアイツを異性として意識した事なんて一度もないぞ……!)

 厳密には違うのだが、階段で霞のうなじにドキッとしたことは既に記憶からすっぽり抜け落ちていた。

”キィィィッ!”

 少し長めのスキル音と共にフロントタイヤから微かに白煙が上がる。ブレーキを緩めるタイミングをミスって僅かにロックさせてしまったのだ。

「ちっ!」

 天道は口元を歪めて舌打ちすると、ヒール&トゥで車速を微調整してシフトダウンする。そのままステアリングを思いっきり切って、車体をドリフト体制へと持って行く。

(乗れてねぇ……!)

 イライラしながらアクセルを開けてコーナーを立ち上がろうとする。しかし、またもやリアタイヤが僅かに滑りすぎてしまう。

(それもこれも、澄生の奴が悪い……!)

 悪友に八つ当たりしながら、次のコーナーへとアプローチしようとした時、天道はサイドミラーに映る灯りに気が付いた。

「キタかっ!?」

 期待の籠もった目でサイドミラーを見る。だが、そのヘツドライトは特徴的なツリ目ではなかった。

「……違うか」

 そう呟いてから、天道は自分の滑稽さに気づき苦笑した。

「これじゃ、勘違いされても仕方ねぇな」

 自嘲してから、天道は改めてサイドミラーに目を凝らした。

 丸目の四灯のヘツドライトに縦長のフロントグリルは一見、単なるセダンのようにも見えたが、位置が明らかに低い。トレツドが広いのはフェンダーが張っている所為だ。フロントウインドウも斜めに寝ていてキヤノピーも低い。さらにリアにはまるで板をそのまま付けたようなリアウイングが見える。

「ランチア……ラリー……?」

 それは紛れもなく、イタリアのランチア社が八十年代にその名の通り世界ラリー選手権WRCの為に開発した、ラリーだった。モータースポーツファンの間では俗に037と呼ばれる競技用公認車ホモロゲーシヨンモデルだ。

「本物、初めて見たぜ……」

 驚嘆と羨望の眼差しでサイドミラーを見ながら、天道は以前雑誌で見たその性能を思い出そうとした。

 2リッターの直列4気筒にスーパーチャージャーという組み合わせは、エキシージとほぼ同じだが、パワーは205馬力psとエキシージよりも下で、車重もエキシージが910キロに対して1170キロと重い。さらに足回りの古さを加味すれば性能的にはエキシージの敵ではなさそうだった。

 なので、コーナーを三つもクリアすれば見えなくなるだろうと天道は踏んでいた。

 しかし……、

「詰めてくる!?」

 逆にラリーはコーナーをクリアするたびに距離を縮めてきた。特に直線ストレートの伸びは明らかに向こうの方が上だった。

「クソ! 改造チューンしてやがるなっ!」

 天道は毒づいた。その予想通り、ラリーは見た目こそ市販ロードバージョンのストラダーレだが、大部分を競技ラリー用のコンペティツィオーネの部品パーツに換装していた。長い間、修理やリストアを繰り返す内にそうなってしまったのだ。その為、馬力パワーも300馬力psを超え、競技ラリー仕様の足回りは高い路面接地力ロードホールディングを発揮していた。

「上等だっ!」

 天道の目の色が変わった。さっきまでとは打って変わって緻密なブレーキワーク、精密ななステアリングワーク、繊細なアクセルワークでコーナーを次々にコーナーをクリアしていく。

 それは、いつもの天道の走りだった。

 だが、それでもラリーを一気に引き離す事が出来なかった。徐々に距離は開いているが思ったほどではない。

「速い……!」

 それで天道は、前に紗里奈から聞いたラリーを駆る凄腕の最速屋ケレリタスの事を思い出した。

「バトラー……だっけ?」

 戦闘屋バトラーなどという物騒な通り名からもっと荒々しい走りを想像していたが、ラリーの走りはそれに反して沈着冷静で優雅だった。

「いいぜ……強い相手は大歓迎だ!」

 天道は嬉しそうな笑みを浮かべていた。まだ最速屋ケレリタスになって日は浅いが、その短い間でかなりの対戦バトルをこなしてきた。だが、ここまで興奮状態ハイになれたのは紗里奈との対戦バトルを除けば初めてだった。

 連続する小さなコーナーを二台は軽快な動きで疾走し、日本武尊ヤマトタケルノミコトの伝説に由来する泉を祭った赤い鳥居の横を通り過ぎる。その先は100R以上のコーナーが連続する中速区間だ。

 天道は意識して息を止めた。集中力が増す。

 荷重移動を発生させる為だけの僅かなブレーキング、そこからエキシージを右の100Rへとアプローチする。そのまま、左の110R、右の130R、左の210R、また右の130Rを高い速度を維持したまま、四輪を流しっぱなし――ドリフト状態のままで駆け抜けていく。

 ラリーも遅れまいとそれに続くが、三つ目の130Rでリアが流れすぎる。それはほんの数センチほどだったが、ラインを外すには充分だった。次のコーナへの理想的なアプローチラインを取れなくなったラリーは減速せざるを得なかった。

 それで勝負が付いた。

 その先のヘアピンを抜けて、山伏峠のヘアピンからやぎさんコーナーに差し掛かる頃にはラリーは完全にサイドミラーから消えていた。

 そのまま、箱根の料金所まできたところで天道はエキシージを道の脇に駐めた。

「ふーっ……」

 シートに体重を預けて今の対戦バトルの余韻を楽しむ。

 すると、しばらくしてラリーが表れ、エキシージのすぐ後ろに停止した。

 ラリーの左ドアが開いたので、天道もシートベルトを外した。こうやって対戦バトルが終わった後に相手と雑談することはよくあることなのだ。

 右のドアを開けてエキシージから出る。

(……?)

 で、眉を顰めた。

 ラリーの中から出てきたのは、二十台前半ぐらいの、ややクセのあるショートヘアに涼しげな目をした長身で細身の美男子イケメンだった。

 それだけなら別に驚きもしないが、問題は服装だった。

 その美男子イケメンが着ていたのは黒のスーツだった。仕立ての良さそうな高級品を崩すことなくキッチリと着こなしている。

 ビジネスマンが社用車を運転するならともかく、最速屋ケレリタスの格好としては不似合いに思えた。

 天道が驚きの眼差しで見ていると、美男子イケメンはゆっくりと近づいてきた。そして、落ち着いた口調で言った。

「蓮實天道様ですね?」

 それを聞いた瞬間、天道は身構えると鋭い目付きで美男子イケメンを睨んだ。

「誰だ、アンタ?」

 警戒心を露わにする天道に、美男子イケメンはスーツの内ポケットから名刺を差し出した。

 その物腰は見て天道は、一瞬、女っぽい奴だと思ったが、すぐに頭からのその考えを蹴り出す。それから、差し出された名刺をむしり取るように受け取った。

 そこには、『司馬家執事 御楯みたてあきら』と書かれていた。

(バトラーって、そっちかよ!)

 思わず声が出そうなるのをグッと堪えながら、天道は警戒を解かないまま聞いた。

「司馬の関係者がオレになんの用だよ?」

「霞お嬢様の事で少しお話があります」

 だが、そんな天道の態度も意に介さない様子で、晶は落ち着いた口調で言った。

「こんな所でかよ?」

 それでますます訝し気になった天道は、とりあえずそんな風に牽制してみる。

「ならば、場所を変えましょう」

 晶はそう言うと、天道のバイト先の店の名を告げた。

(ちっ……!)

 天道は心の中で舌打ちをした。どうやら晶は自分の事をかなり調べ上げているらしい。こうなると天道に出来るのは諦めて肩を竦めることぐらいだった。

「そこだけは、やめてくれ」


 天道の提案で二人は新国道を小田原方面に下るとその出口にあるファミレスへと入った。既に深夜と呼べる時間であったが、店の中は多くの客が食事や歓談をしていた。

 バイトの店員に案内されて天道と晶は窓際の席へと座った。天道はコーヒー、晶は紅茶を頼み、それが運ばれてきてから晶はおもむろに話を始めた。

「霞お嬢様に運転を教えていただけませんか?」

「はぁ?」

 その問いに天道は、思わず間抜けな声を出してしまった。

「なんだよ、それ?」

 あまりに唐突な話に天道は怪訝さを隠そうともせずに聞いた。

「オレとアイツは今、敵同士なんだぞ?」

「それは承知しております」

(そんな事まで知ってるのかよ……)

 天道は唖然とした。こうなると驚きよりも呆れのほうが先にくる。

「お二人が言い争った翌日から、お嬢様は速く走る為の練習を始められました」

「そーなのか?」

 晶の言葉に天道は首を傾げた。それにしてはアレ以来、蒼ざめた馬ペールホースの姿は見かけていない。対戦バトルで知り合った最速屋ケレリタスに聞いたりもしたが、やはり誰も見かけた者はいなかった。

「走っている時間が違うのです」

 と晶はその疑問をすぐに感じ取り補足した。

「今、お嬢様がお世話になっているお婆様が心配するからと、いつも朝早い時間に走っているのです」

 それで天道は合点がいった。だから、自分もあの時まで蒼ざめた馬ペールホースと遭遇しなかったのだ。

「芦ノ湖スカイウェイも毎日、走っています。ですが、ただ闇雲に走るだけなのでなかなか上達しません」

 そこで一端、言葉を句切って、晶は天道を真剣な目で見詰めた。

「誰かの助言が必要なのです」

 だが、天道は露骨に顔を顰めた。この話には明らかにおかしいところがある。

「それってさぁ……」

 なので、天道は、その疑問を真っ直ぐストレートにぶつけた。

「アンタが教えればいいじゃねぇか?」

 さっきの対戦バトルで晶の速さは確認済みだった。わざわざ自分がしゃしゃり出てくる必然が在るとは思えなかった。

「お嬢様の目には……」

 と、それまで涼しげだった晶の顔に、悲しみと苦悩が入り交じった表情が浮かんだ。

「既に私は写っていません…………」

 なるほど、と天道は思った。そこまで切羽詰まってるから、自分と霞の関係を承知の上で晶はこんなお願いをしているのだ。

 だが、それならやはり自分も知っておかねばならないのだろう。霞が何故、自分の存在を消そうとしているのか。

「……理由わけを聞かせてくれねぇか?」

「はい……」

 晶は深く頷いた。

「蓮實様は司馬ホールディングスをご存じですか?」

「名前だけは、な」

 司馬ホールディングスは世界でも有数の企業グループで、商業や工業は言うに及ばず、金融や情報、果ては農業や漁業までも手がける複合企業体コングロマリットだ。元々は小さな商社に過ぎなかったのだが、先代の代表取締役CEOが一代でここまで大きくしたのだ。

「って、まさか司馬って……」

 そこまで考えて、天道は慌てた。

「そうです。霞お嬢様は司馬ホールディングスの御令嬢です」

本当マジかよ……」

 天道は愕然としたが、同時に納得もしていた。霞がどうやって三千万円近くもするスーパーカーを手に入れたのか気になっていたからだ。

「そんなお金持ちの御令嬢様が、なんでなっちまったんだ?」

「それは……」

 天道の問いに、晶は一瞬、言葉を躊躇った。だが、その様子は、話すことそのものを迷っているというよりも、口にしたくないという感じだった。まるで嫌な事を思い出したくないかのように。

「霞お嬢様の夢が……ホールディングスを継ぐという夢が破れたからです」

 司馬ホールディングスの代表取締役CEOの娘として生まれた霞は、幼い頃より将来的に会社を継ぐ為に洋々な勉学に勤しんできた。学校の勉強はもちろん、スポーツや各種の習い事も精力的にこなした。また自ら立候補してクラス委員を務めたり、周りとも積極的にコミニュケーションを取ったりして人脈を築き上げようともしていた。

「お嬢様は、司馬ホールディングスの名に恥じない人物になろうと寝る間も惜しんで努力しておられました」

 そこで晶は一端、言葉を切った。それから哀しげに目を伏せる。

「ですが、それはお嬢様に大きな負担を掛ける結果になりました」

「頑張りすぎたってことか?」

「それもあります……ですが、問題はもっと根本的な部分で……」

 天道の推測を肯定しつつ、晶はしんみりと言った。

「本当のお嬢様は、穏やかで物静かで、ちょっと人見知りで、気が弱いところがあって……他人を疑わない素直なお方で……」

 今の霞しか知らない天道にはとっては、会社を継ごうと頑張る霞も、本当の霞もまったく想像できなかった。

「……なんか随分と脆そうだな」

 なのでそれは率直な感想でしかなかったが、ほとんど独り言に近い天道の言葉に晶は大きく頷いた。

「その通りです。ですから、本来は会社経営などには向いていないのです……」

 それでも、霞は自分の夢を実現しようと努力を続けた。しかし、そうすることで霞の体と心は徐々に疲労とストレスに蝕まれていった。

 生真面目で頑張り屋なところもそれに拍車を掛けた。

 高等部にあがる頃には、精神的も肉体的にもやつれて周りからも心配ほどになっていた。霞自身も自分の体調が悪さには気付いていたが、それを認めてしまうのが怖くて――一度立ち止まってしまうと再び歩けなくなる気がして――平気なフリをしていた。

「そんな無理が祟って、高等部二年の秋に、とうとう倒れられたのです」

 病院に運ばれた霞は一晩入院しただけですぐに学校に復帰した。

 しかし、その事が決定打となって、それまで静かに娘を見守っていた霞の父――現司馬ホールディングス代表取締役CEO司馬しばはじめは重大な決断をする。

「見かねた旦那様は、ホールディングスを霞お嬢様の従姉に継がせる決定をしました」

 そうすることで娘を救おうとしたのだ。

「けど、そんな事したら……」

 そこまで聞いたら、後の展開は天道にも予想が付いた。

「はい……」

 晶は沈痛な表情で頷いた。

「当然、霞お嬢様は旦那様に猛抗議しました」

 だが、霞の父は、怒る娘にいつものように優しく言った。

 ――おまえはもう自由なんだ。

 もちろん、父も、また周りの人々も霞がショックを受けることは充分予想していた。しかし、それは一時的なもので結果的にはこれでよかったと言える日が来るはずだとも思っていた。

 だが……、

「お嬢様の受けたショックは、我々の想像を遙かに上回るものだったのです」

 後悔の念を表すように、晶は僅かに声を震わせながら続けた。

「その日から霞お嬢様は自分の部屋に引き籠もるようになりました……」

 高等部三年の春のことだ。

 それ以前からのストレスも重なって、霞の心は急速に病んでいき、顔からは生気が消えた。学校へも行かなくなった。

「その間、お嬢様は何度も自らの命を絶とうとしたようです……」

 天道は霞の右手首の傷を思い出して、ゴクリと唾を飲み込んだ。

 予想外の展開に周りの人々は狼狽した。父は何度も娘を説得したが、既に霞の耳には誰の声も聞こえていなかった。

「見かねた私は、お嬢様の生きる糧になればと、夜の首都高速へと連れ出したのです」

 それを聞いた天道は、内心、苦笑いするしかなった。考えることは皆、同じなのだ。

「ですが……」

 そこで晶は一端、言葉を切った。今まで一番、痛々しい面持ちで口を付けいていない紅茶のカップをジッと見詰める。

「それは霞お嬢様に死に場所を与える結果にしかなりませんでした……」

 最初に首都高を攻めた翌日から、霞は自ら進んで晶のサイドシートに乗るようになった。当初晶は自分の試みは旨くいったのだと思っていた。だから、霞が免許を取りたいと言い出した時には心の底から喜んだ。

 だが、同時に不安も感じていた。それ以外の時の霞は相変わらず部屋に籠もりきりで誰の声も耳に入っていないように見えたからだ。

 そして、その不安は霞が免許を取り、買った458で初めて夜の首都高を走った時に現実になった。

「私は僭越ながらお嬢様に運転の基礎を教えようとしました。ですが……」

 霞はそれを拒否して、いきなりあの無謀な走りで首都高を暴走し始めたのだ。

「そこで初めて、私は自分の過ちに気付いたのです…………」

「なるほどねぇ……」

 苦悩に顔を歪める晶を見詰めながら、天道は息を呑んだ。

 ――自分を無に帰す……為。

 頭の中に屋上で霞の言葉が蘇る。

 霞はもう一年近く、あんな走りを続けていたのだ。

 その姿と手首の無数の傷跡が重なって、背中に冷たいものが流れる。

 あの走りはあの傷と同じなのだ。

「そこまではわかったけどよ……」

 そういう話であれば、乗りかかった船だ。協力するのもやぶさかではないと思った。

 が、

「アイツとオレは、今、敵同士なんだぜ?」

 天道はもう一度同じ事を言った。現実問題として、協力できるとはとても思えなかった。

「無理は承知しております」

 気を取り直すように、晶は瞳を閉じた。

「それでも、今は蓮實様に頼る以外に方法がないのです」

 それから、ゆっくりと目蓋を開くと真剣な顔で天道を見た。

「お嬢様の瞳に映る唯一の人物である貴方に」

「…………」

 それでもなお、天道は躊躇した。

「貴方も気付いているはずですよね?」

 その様子を見た晶は、探るような目で天道を見詰めた。

「霞お嬢様が、今、とても危険な状態であることを」

(チッ……)

 天道は、またも心の中で舌打ちせざるを得なかった。それこそがこの作戦の最大の懸念材料だったからだ。

 霞があれだけ無謀な走りをしてもここまで無事だったのは霞自身の人並み外れた反射神経や458の性能もあるが、なによりも霞自身が初めから死ぬつもりで走ってい事が大きい。

 初めから死ぬつもりで走っていた――限界を超えることを目的にしていたから、本当に限界を超えそうになった時も素早く対応できたのだ。

 だが、今の霞は自分を無にすることを封印して速く走ろうとしている。つまり死を意識していないのだ。

 それは危険だった。

 ましてや、霞は速く走るすべを知らない。

 車を速く走らせるのにもっとも重要なのは車の状態を常に把握することだ。そうすることで限界点に近づいたことも素早く把握でき、限界を超えるか超えないかのギリギリの線で走ることができるのだ。

 だが、霞はその事を知らないのだ。

 そんな状態で速く走ろうとすれば、今まで保ってきた均衡を簡単に破綻させてしまう可能性が高い。

 だから、誰かが教えなくてはならないのだ。速く走るということがどういうことかを。

「しゃーねぇなぁ……」

 天道は観念したように首を竦めた。この話を持ち出されては何とかせざるを得ない。なにしろそう仕向けたのは天道自身なのだ。

「それでは……」

 席を立った天道は、安堵と期待が入り交じった表情を浮かべた晶に困ったように唇を歪めて言った。

「一日、だけだぜ」

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