3 姉、帰ル

 結局、その日一日、天道は霞の事が頭から離れなかった。

 昨夜の事。

 自分とは正反対にある霞の考え。

 それに反論できなかった自分の不甲斐なさ。

 澄生が言っていた、失いないたい気持ちと失いたくない恐怖。

 お節介な自分の行動。

 負けたくないという気持ち。

 それらが複雑に入り交じって、授業中も、澄生と昼食を取ってる時も、バイトをしている時も、頭の中をグルグルと回っていた。

(司馬は、いったい何を失ったんだ……?)

 そして、バイト帰りに暗い田舎道を自転車ママチヤリを走らせている今も、考えるのは霞の事だった。

(俺は、司馬のことを何も知らない……)

 なのに、偉そうに口上を垂れた挙げ句、結局、怒らせることしかできなかった。

 もう何度目かわからないぐらいその事実にぶち当たって、天道は再び不機嫌になった。自然とペダルを踏む足に力が入る。

 だが、すぐに力を抜く。

「……ん?」

 遠くに見える自分の家に灯りがともっているのが見えたからだ。

「まさか……」

 嫌な予感がした。

 とりあえず家まで辿り着き、自転車ママチヤリをガレージの隅にぶち込んでから、天道は恐る恐る階段を昇って玄関をそっと開けた。

 途端、

「お帰りー!」

 廊下沿いの脱衣場から弾むような声が聞こえてきた。

「やっぱり……」

 予想通りの展開に天道はげんなりした。

 思わず、このまま回れ右して外へ出てしまおうかと思ったが、それよりも先に脱衣場から空子が飛び出してきた。

「遅かったねっ!」

 慢心の笑みを浮かべた空子は、風呂上がりだったらしくバスタオルを身体に巻いただけの格好だった。天道と同じ色の髪がしっとり濡れて、普段は透き通るように白い肌も紅色に染まっている。

 その艶姿に、天道は一瞬、ドキッとなった。

「仕事、どうしたんだよ?」

 だが、すぐに邪念を払うと、靴を脱ぎながら不機嫌な声で尋ねた。

「明日、こっちでロケがあるから先に現地入りさせてもらったの」

 そんな弟の態度など気に止めずに、空子はほんわか笑顔で答えた。

 高校を卒業してから東京暮らしの空子だったが、仕事が少しでも空くとこうして戻ってくるのだ。

「だ、か、らっ……」

 しかも、いつも突然に。

「来る時はメールぐらいよこせって言ってんだろう!」

「だってタカ君、先に知らせたら、家に戻ってこないでどっか行っちゃうじゃない」

 怒鳴る天道に、空子はぷにぷにの頬を膨らませて反論した。

「どっちにしろ行くけどな」

 そんな姉の言い分にますます腹を立てた天道は、吐き捨てるように嫌味を言った。

「どうせ、今日も紗里奈ぇに送ってもらったんだろう?」

 それもまたいつものパターンだった。箱根を攻めに来る紗里奈に便乗して戻ってくる。時間が合えば帰りも乗せてもらうが、大抵は高速バスか新幹線になる。

「うまくすれば対戦バトル出来るかもしれないし、な」

 溜まっているイライラフラストレーションも、師匠と本気で対戦バトルすれば少しは晴れるかも知れない。

 が、

「今日は、エリアに行くのは禁止!」

 そんな天道に空子は、腰に手を置き上から宣言した。

「はぁ?」

 しかし、天道は方眉を跳ね上げると半目で姉を見た。

 なに言っんだコイツ? という表情だった。

「あの車は、お姉ちゃんのなんだから、勝手に乗り回さないで」

 その態度が気に入らなかったのか、空子はますます頬を膨らませてお説教する。

「スーパーカーは精密機械だから、ずっと走らせないでおくのは良くないって言ったの姉キだろう?」

 それを正論で撥ね付けながら、天道は空子の横を通り過ぎるそのまま二階へと上がろうとした。

「せっかく久しぶりに帰ってきたのに……」

 それを見た空子の眉がシュンとハの字に曲がる。

「お姉ちゃん、一人にしちゃうんだ……」

 それから、すがるような目で天道を見た。顔は曇り、目尻には微かに涙が溜まっている。

「お姉ちゃん、タカ君に会うの、とっても楽しみにしてたのに……」

 ふて腐れる姉を見て、天道は心の中で冷汗笑いをするしかなかった。

 だいたい久しぶりと言っても、前回ここに戻ってきたのは、大型連休ゴールデンウィーク前の四月の終わり。つまり、まだ一ヶ月も経っていないのだ。

(……ったく!)

 天道は心の中で毒づいた。

 これもまた、いつもの流れだった。

 この弟大好きブラコン姉は、甘やかすといろいろ調子に乗るのでここはきっぱりと拒絶したいところだが、まるで捨てられた子犬のような目で見られるとさすがに罪悪感がムクムクと心の奥から沸いてくる。

「わぁーったよ!」

 結局、観念する以外に選択肢はなかった。

「今日は、エリアには行かねぇ」

「本当!?」

 やけくそ気味に吐き捨てられた天道の言葉を聞いた空子の顔に、パッと鮮やかな花が咲いた。

「ありがとう、タカ君!」

 そのまま嬉しさを炸裂させながら、天道に抱きつこうとする。

「待てっ! 先に服を着ろ!」

 それを天道は慌てて止めた。今抱きつかれたらいろいろ大変な事になるような気がしたからだ。

「あっ……」

 弟の指摘で自分がどんな格好をしてるか思いだした空子は、ちょっとだけ照れ笑いを浮かべた。それから慌てて脱衣場へと逃げ込んだが、すぐに思いだしたように顔だけ戻る。

「お姉ちゃんが着替えてる間に出掛けちゃ駄目だよ」

「しねぇーよっ!」

 天道の答えに、空子は満足そうな微笑んでから再び脱衣場へと消えた。

「……ったく」

 残された天道は、そんな姉に呆れたように溜息をついた。


 天道が自室で部屋着に着替えてからリビングに戻ると、台所キツチンの冷蔵庫に空子が首を突っ込んでいた。

「なにが、あるかな~♪」

 それ自体は何の問題もない。問題があるのは空子の格好だった。

 立ったまま腰を折った姉は、素肌に薄手のセーターという姿だったのである。その為、セータの裾からショーツに包まれた臀部おしりが丸出しになっていた。

「……」

 天道は呆れたように首を横に振った。

 こういう場面シーン出会でくわす度に天道は思う。この姿を澄生に見せてやりたい、と。

 真面目でしっかり者で全校生徒の憧れの的も、家ではこの有様なのだ。

 良く言えば大らか、悪く言えば大雑把で無頓着、他人の目も余りに気にしない。それが本来の空子なのだ。

 天道にしてみれば既に慣れっこになっているのだが、在学中に姉を慕っていた人達が見たらきっと卒倒するだろうな、といつも思っていた。

「姉キ」

 とは言え、目のやり場に困る光景であることも事実だった。仕方なく、天道はムスッとした口調で指摘した。

「ぱんつ、見えてるぞ」

「えっ? いやっ!」

 それで初めて天道の存在に気付いた空子は、頬を赤くすると慌てて両手を後ろに回した。

「タカ君の……えっち」

 それから上目遣いで天道を静かに睨む。ガードは甘いクセに、見られるのは恥ずかしいらしい。

(それでよく、グラビアアイドルとかやってられるよなぁ)

 それも天道がいつも思うことだが、聞いた話だと、撮影時は自分がどんな風に写るのかわからずカメラマンの指示リクエストに応えて、後から写真グラビアを見て赤面することもよくあるらしい。

「なにしてんだよ?」

 今度はちゃんとセーターの裾を伸ばしながら膝を折ってしゃがみ、再び冷蔵庫の中を見た姉に天道は聞いた。

「お腹すいちゃったから、何か作ろうかなぁって……あっ、焼き豚発見」

「喰ってこなかったのかよ?」

「うん……早くタカ君に逢いたかったから……ご飯は……あるね」

 天道の問いに生返事で答えながら、空子は冷凍室の中から冷凍保存された白米を取り出す。それから、あらためて天道を見て、

「お姉ちゃん、炒飯作るけど、タカ君も食べる?」

 と、尋ねた。

「いや、イラ……」

 ネ、と言いかけて天道は自分も夕飯がまだだったことを思いだした。

 いつもはバイト先で済ますのだが、今日は休憩時間も霞の事を考えていた所為で食べるのを忘れていた。

「やっぱ、食べる」

「うん、じゃあ、作るからちょっと待ってて」

 ほんわかと微笑んだ空子は、嬉しそうにエプロンを被ってからシステムキッチンへと立った。

「ふっふふん~ふぅ~ん~♪」

 ウキウキと全身でリズムを取り、鼻歌を口ずさみながら包丁を使い始める。身体が揺れる度に後ろで結んだエプロンのリボンと、その下のセーターの上からでもはっきりわかる豊満な臀部おしりが揺れる。

 それを一瞥してから、天道はダイニングテーブルの椅子に座った。両手を頭の後ろに回しながら、体重を背もたれに預けてそのまま前足を浮かせ身体ごと斜めにする。

 そして、また霞の事を考える。

(司馬と……もう一度、話してみるか……)

 自分に今必要なのは、多分、霞を知ることだ。そうしなければ、とても説得など出来ない。

 とは言え、自分は正直、霞の事をあまり快く思っていない。例え、最初はその気がなくとても、話の流れでまた口論になりかねない。それは避けたかった。

(どーするかなぁ……)

 澄生にも立ち会ってもらうというのが一番なのだろうが、それはそれで自分の無能さを認めているようでシャクだった。

”トン!”

 テーブルに皿を置く音で、天道は我に返った。

「出来たよ」

 慌てて椅子を戻すと、空子が向かい側に座るところだった。

「……どうしたの?」

 夢から覚めたばかりのような顔をしていた天道に、空子は少し心配そうに聞いた。

「なんでもねっ」

 自分を見詰めるその瞳に全てを見透かされるような気がして、天道は避けるように視線を湯気を上げている炒飯に視線を移しながらスプーンを取った。

「いただきます」

「……いただきます」

 その為、姉の表情が訝しげに変わったことには気付かなかった。


 食事が終わって、空子と一緒に洗い物を済ませて――まるで新婚さんみたいだね、という姉のいつものボケは無視した――から、天道はリビングのソファへと座る。

 遅れて、二人分のコーヒーを入れた空子もソファーへと座る。

「あっ」

 そこで空子はガラステーブルの上に無造作に放り投げられた雑誌に気付いた。

 数日前、澄生に押しつけられたグラビア雑誌だ。

(げっ……)

 天道は思わず心の中で呻いた。姉に見つかるといろいろ面倒なので、自分の部屋のベットの下に保管するのだが、霞の件に気を取られていて持ち帰ったことさえ忘れていた。

「これ、もう出てたんだぁ」

 焦る天道を尻目に、空子は雑誌を自分の手元に引き寄せた。

「タカ君が買ってくれたの?」

 そして、ちょっと嬉しそうに聞いてくる。

「澄生」

 それに対して天道は、吐き捨てるように答えた。

「俺が買うかよ」

 それからワザと不機嫌そうにリモコンを手に取るとテレビのスイッチを入れる。

「ふ~ん」

 そんな弟の態度にほんわか笑顔を浮かべながら、空子は自分が写っている表紙を捲った。

「う~~ん」

 そこから続く自分のグラビアに時折、唸り声上げながらさらページを捲る。

 そんな姉の行動を意識的に無視しながら、天道は無造作にリモコンを操作して次々にチャンネルを変えていく。

「ねぇ、タカ君」

 と、不意に空子に声を掛けられる。

 来たな、と思った。

「ん?」

 テレビから顔を動かさず、天道は意図的に気のない返事をした。

「なんかコレ、太って見えない?」

 案の定、空子は雑誌を天道の方へ差し出しだす。

「そぉかぁ?」

 やはり視線はテレビに向けたままで、天道はどっちでもいいよな口調で返事をした。

「最近、トレーニング、サボってんじゃねぇの?」

「そんなことないよぉ」

 そんな弟の態度にムッとなった空子は、不意に天道の頭を両手で挟み込むように掴んだ。

「ちゃんと見てよっ!」

 それから強引に顔をテレビから自分の方へと向けさせる。

「ちょっ……!」

 流石にこれは予想外だったので、天道は慌てた。視界が急激に横方向に回転してすぐ目の前に空子の顔が迫る。

「!?」

 その近さから逃れようと視線を下に向けると、今度は大きく空いたセーターの首回りの奥にある豊かな胸とその谷間が飛び込んできた。

「!!」

 空子がもう少し前のめりになれば胸の先まで見えそうだ。姉は、寝る時はブラを外す派なのだ。

 それが天道の動揺に拍車を掛けた。しかし、逃げようにも空子が頭をがっちり掴んでいるので逃げられない。

「わぁーった! 見るからっ!」

 悲鳴に近い声を上げて、空子はようやく天道から手を放した。

「ほら、ここ、お腹とか、ぷにぷにに見えない?」

 天道に寄りそうにしながら、空子は二人の間に置かれた雑誌を指さした。必然的に空子の豊満な胸が天道の腕やら身体やらに押しつけられる。

 こんなのは既に慣れっこになっているはずなのに、それでも天道はその柔らかさに心臓をバクバクさせた。

 姉はいつもこうなのだ。

 自分のグラビアの感想を天道に求めて来る。まだこの家にいた頃、サンプルを持ち帰っては、嫌がる天道を強引に隣に座らせて一緒に見せられていた。

 澄生にはああ言ったが、天道も年頃の男子である。女性が水着姿で大胆なポーズを取っているのを見れば、ドキドキもするしワクワクもする。

 それが例え姉であっても。

 しかも、隣にはその本人が居て身体を自分に密着させている。

(いったいなんの罰ゲームだよ……)

 天道は心の中で毒づいた。

 ただでさえ、女子の前でこういう雑誌を見るのは恥ずかしいのに、それが姉で、さらにグラビアの中であられもない姿をしているのもまた姉なのだ。

 こんなわけのわからない状況で冷静を保てるほど天道は賢者ではない。

「別に、ぷにぷになんかしてねぇぞ」

 それでも天道は、極力自分の動揺を悟られないように全身全霊を込めて、ぶっきらぼうに言った。ここでヘタに照れているところやドギマギしているところを空子に見せたら、負けだと思ったからだ。

 姉はワザとこんな事をやっている。自分をからかう為に。それはかなり前から天道が確信していた事だった。その証拠に、今も嬉しそうな笑みを口元に浮かべながら、チラチラと天道の様子を伺っている。

「そぉかなぁ?」

「それより……!」

 ページを捲ってさらに感想を聞こうとする空子の声に被せるように一段声を大きくして、天道は言葉を遮った。

「明日、何時に出掛けるんだよ?」

 さすがにいろんな意味で限界だったので、これ以上は戦線を維持できそうにない。ここは強引に話題を変えるのが常套じようとう手段だ。

「うーんと、ね」

 空子はまだ名残惜しそうだったが、雑誌から視線を外すと天道を見てほんわかと微笑んだ。

「湯河原の駅前に朝の5時に集合」

「ちょっと待てっ!」

 すかさず、天道はツッコミを入れた。

「どーやって行くつもりだよ!?」

 既に答えはわかっていたが、それでも聞かずにはいられなかった。

「送ってて、タカ君」

 と、空子は顔の前で両手を合わせると小首を傾げて上目遣いでお願いしてきた。

「俺、明日も学校なんだけどなぁ……」

 案の定の展開に頭を抱えるしかない天道だった。


 翌朝。

 滅多に起きないような時間に起きた天道は、その原因を作ったのにもかかわらず、まだベットで熟睡していた空子をたたき起こしてからエキシージで家を出た。

 御厨市から湯河原まではいくつか路順ルートがあるが、天道はいつも走っているエリアで箱根の山をまっすぐ突っ切る路順ルートを選択した。

 早乙女峠までは車全体を温め、そこからは全開で永峡峠、箱根スカイウェイを駆け抜けていく。

 霞の事、それにここ二日ばかり走りに行ってなかった事が重なって今日は最初から飛ばしたい気分だった。

 それでも、自分がいつもとは違う時間を走っていることを忘れてはいなかった。周りの環境――路面状態や朝靄――を見極めながらコーナーをクリアしていく。

 芦ノ湖スカイウェイを抜けて、県道に出てから湯河原パークロードへと入る。

 ここは元々、観光バス専用道路として整備された道で、勾配が急な上にRの小さなコーナーが続く為、下りダウンヒルはかなり度胸がいる。

 しかし、天道はそこを臆することなく責め立てていく。ここを走るのはまだ二度目だったが、天道にとってはそれで充分だった。

「ねぇ、タカ君……」

 と、最初のヘアピンを抜けた辺りで、それまで珍しくサイドシートでおとなしくしていた空子がおもむろに口を開いた。

「なにか、あった?」

「別に……」

 内心、ドキッとしながらも天道は嘯きながら、ブレーキを叩き踏む。

「嘘ついたって、お姉ちゃんにはわかっちゃうんだから」

 しかし、空子は疑いの眼差しでジッと天道を見る。

「だって、今日のタカ君、いつもより運転が荒いもん」

 ステアリングを左に勢いよく切って、エキシージをドリフト状態に持ち込みながら、天道は心の中で溜息をついた。

(お見通しかよ……)

 自分ではそんなつもりはなかったし、実際、普通の人ならその違いはほとんどわからないだろう。

 しかし、幼い頃から一緒に過ごしている姉にはバレてしまうのだ。

「昨日、食事の時もボーッとしてたよね?」

 横Gに髪と胸を揺らしながら、空子は心配そうな顔をした。

「なにがあったの?」

 なんでもない、と誤魔化すのが本当は正しいのだろうと、アクセルをじんわりと開けながら天道は思った。話の内容が内容だからだ。

「姉キはさぁ……」

 だが、この煮詰まった状態を打破するには話してみるのもアリなのではないかとも思った。

「親爺とお袋が死んだ時……そのぉ……」

 さすがに全部話すわけにもいかないので天道は言葉を選ぼうとした。

「なんて……言うか……」

 しかし、すぐに諦めた。遠回しな言い方オブラートに包むなんぞは天道が一番苦手としている行為なのだ。なら、ここはもう直球勝負ストレートに行くしかない。

「姉キは自分も死にたいって思ったか?」

「……えっ?」

 それを聞いた空子は、驚いたように目を大きく開いて眉を顰めた。けれども、すぐに柔らか笑顔を浮かべると穏やかに言った。

「思ったよ……」

「えっ!?」

 予想外の答えに、天道は思わずブレーキを踏みすぎる。フロントタイヤがロックして白い煙が上がる。慌てて、足の力を抜きながらヒール&トゥ時にいつもより低めに回転数を合わせて車速を微調整する。

「……本当マジ?」

 ドリフト状態のエキシージを立ち上がり体制に持ってきながら自分の顔をまじまじと見た天道に、空子はコクッと頷いた。

「だって、本当に哀しかったから……」

 その時の事を思い出して、空子は目を伏せた。長い睫毛が微かに震えている。

「だから、わたしもパパとママのところに行きたいって思ったの……」

 姉の意外な告白に、天道はただ驚くしかなかった。

 確かに、あの時は天道も哀しかったし、姉が延々と泣いていたことも覚えている。だが、そこまで想っていたとは想像もしていなかった。最初の質問だって、話のきっかけとして聞いたに過ぎなかったのに。

「でもね……」

 そんな弟の動揺を察した空子は、さらに表情を柔らかくして天道を見詰めた。

「わたしが死んだら、タカ君が一人ぼっちになっちゃうから……」

 それから、まるで子供を諭す母親のように優しく言った。

「だから、死ねなかった」

 その視線が眩しくて、天道は顔を背けながらぶっきらぼうな口調で言い放った。

「……別に、俺は一人でだって生きていけたぜ」

「あ~ぁっ! そういうこと言うのぉ!?」

 それを聞いた途端、空子は眉を釣り上げて頬を膨らませると天道をギロッと睨みつけた。

「日本に帰ってきた時、いつもクラスの子と喧嘩ばかりしてたクセに!」

 そして、生意気な口を聞く弟に、怒気の籠もった声で火が点いたように捲し立てる。

「いつもお姉ちゃんが謝りに行ってあげたのに!」

 両親が亡くなってから、姉弟は日本で来て祖父のところに見寄せた。天道が十二歳。空子が十四歳と時の事だ。

 その頃から既に祖父は床に伏せがちで、天道の面倒は主に空子が見ていた。

 空子自身はそんなことはなかったが、天道はクォーター&帰国子女ということで周りからかなり好奇な目で見られ、からかわれたりもしていたらしい。それを天道は両親譲りの自衛隊式と米海軍式の格闘術で黙らせた。その度に中学生の空子が小学校の赴いて謝っていたのだ。

「いや……それは……」

 さすがに天道はしどろもどろになった。こうなるともう姉には逆らえない。普段はぽやぽやでふわふわな空子だが、本気で怒ると天道でさえ手がつけられなくなるのだ。

 それに、今のはどう見えも自分の方が悪い。だが、素直に謝るのは負けを認めているようでシャクだった。

「…………悪かったよ」

 なので、謝罪の言葉もおざなりに投げるつけることしかできなかった。

「わかればよろしい」

 しかし、そんな弟の性格を充分すぎるほど把握している空子は、それを見て勝ち誇ったように頷いた。

 その間もエキシージは急勾配の峠道やまみちを猛スピードで下っていた。にもかかわらず、二人はまるで街中を流している時のように普通に会話を続けていた。

「わたしは、タカ君に感謝しないといけないのかも……」

 横に流れる景色をフロントウィンドウ越しに眺めながら、空子はぽつりと呟いた。

「はぁ?」

 アクセルをグイッと踏み込みながら、天道は怪訝そうな声を上げた。

「なんで、今の話からそーいう流れになるんだよ?」

「だって……」

 すると、空子は少しはにかむように俯く。

「タカ君がいてくれから、わたしはパパとママのところに行くことを思い留まれたから」

 それから、一言一言を噛みしめるように言った。

「タカ君がわたしの生きる目的になってくれたから、わたしは今もここにいるんだよ」

 そして、弟の横顔を見てほんわかと微笑む。

 やはりその笑顔が眩しくて、天道は思わず憎まれ口を叩きたい衝動に駆られたが、今度はグッと堪えた。

「生きる目標……か」

 代わりに姉の言葉を自分でも繰り返してみる。

(司馬も、なにか生きる目的が見つかれば、死のうなんて思わなくなるのか……?)

 ぼんやりと、そんな想いが頭に浮かぶ。

「お姉ちゃんの言うこと、なにか参考になった?」

「おうっ」

 空子の問いに天道は軽く頷いた。なんとなくではあるが、自分にも出来そうなことがあるような気がしてきた。

 そのまま、エキシージをヘアピンへとアプローチさせる。

 ロック寸前の強く短いブレーキングからヒール&トゥでシフトダウン、荷重の抜けたリアタイヤを勢いよく切ったステアリングで流す。クリツピングポイントまではアクセルで積極的に後部リアを流して、そこから先は車体が前に進むようにトラクションを意識しながらアクセルを踏み込む。

「うん、完璧~♪」

 天道の走りがいつも通りに戻ったことをサイドシートで体感して、安心したように微笑む空子だった。

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