1 蒼ざめた馬《ペイルホース》

 朝の教室が騒々しいのは、恐らく全国共通であろう。

 県立御厨みくりや高校、三年七組も例外ではなかった。

 友達と昨日見たテレビのことを話す女子生徒や一時間目の授業が小テストと聞いて焦る男子生徒、携帯を使って違うクラスの友達と話している生徒もいる。

 しかし、全員が全員、口を開いているわけではなく、スマホを睨みつける生徒やメールを打つ生徒、真面目に教科書を開いて予習している生徒もいた。

 天道も、口を開いていない一人だった。

 窓際の席に座り、片手で頬杖をついてボーッと五月晴れの空を眺めている。

 さらさらの栗毛色の髪を後ろで小さく縛り、ややつり目がちな大きな瞳と小さく愛らしい唇、頬のラインが柔らかな輪郭。男子としては身長も低く華奢なので、見た目は完全に少女にしか見えない。が、その言葉は天道の前では禁句だった。

 言えば、即、拳が飛んでくる。

 髪は地毛で、日系アメリカ人である母の血を継いでいる。

 クォーターなのだ。

 もっとも、外人ぽいのは髪の色ぐらいで顔つきも瞳の色も普通に日本人なのだが。

「ふあぁーーーっ……」

 流れる雲を片目で追いながら、大きく欠伸をする。

「今日も寝不足か、タカ?」

 と、横から声を掛けられた。天道が振り向くと、そこには髪を茶髪に染めて凛々しい顔立ちをした美男子イケメンが爽やかな笑顔を浮かべていた。

 クラスメイトで悪友の銀矢かねや澄生すみおだ。

「まぁな」

 自分のところでもないのに前の席に横座りで腰を下ろす澄生に、天道はだるそうに応える。

「昨夜も走ってきたのか?」

「まぁ、な」

 天道が毎晩のようにエリアに出掛けているのを知っているのは、クラスでも小学校時代からの腐れ縁である澄生だけだった。

 他のクラスメイト達は、車自体にあまり興味がないのだ。

「相手は?」

「フェラーリ」

「勝ったのか?」

 もっとも、澄生も車に興味があるわけではない。天道の行動が気になっているだけだったりする。

「当然」

 それがわかっているから、天道もあまり話題を広げようとするつもりはなかった。こんな会話は朝の挨拶代わりに過ぎないのだ。

 が、

「それって、噂の蒼ざめた馬ペイルホースか?」

 その単語ことばに天道は、反応せずにはいられなかった。

「なんだ、それ?」

最速屋ケレリタスのクセに知らないのかよ?」

 澄生は呆れたような顔で天道を見た。最速屋ケレリタスの通り名であることはすぐにわかった。でも、聞き覚えがない。

 肩を竦める天道に、澄生は仕方ないとばかりに説明を始めた。

蒼ざめた馬ペイルホースっていうのは、その名の通り蒼いフェラーリを駆る最速屋ケレリタスだよ」

 何故、車に興味のないはずの澄生がそんな事を知ってるんだ、と天道は思った。

「去年の夏頃から首都高速で彗星のごとく現れて、物凄い走りで連戦連勝して一躍有名になったらしい」

 だが、すぐにコイツなら知ってても当然か、と思い直す。

「その強者が最近になって箱根にも現れたんだと」

 澄生は、校内は優に及ばず、学校外にも知り合いが多い。顔が広いのだ。

 主に女子に、だが。

 この話も恐らく最速屋ケレリタスを彼氏に持つ女の子からでも聞いたのだろう。

「既にこっちでも何人かの最速屋ケレリタス対戦バトルを挑んで破れてるらしいぞ」

「ふーん」

 天道は、腕を組んで考え込むような仕草をした。

「昨日のフェラーリは確か黄色だったから、多分、違うな」

 それから睨むような目で澄生をじっと見る。怒っているわけではない。元々、目付きが悪いのだ。真剣になればなるほど、それが露骨に出てしまう。

「それに、俺は毎晩のようにエリアを走ってるけど、まだ出会でくわしたことがねぇぞ」

 首を傾げた天道だったが、すぐに口元に楽しそうな笑みを浮かべると、

「でも、そんなに速いなら、一度、対戦バトルしてみてぇなぁ」

 と付け加えた。

「あっ、そういえば……」

 と、突然、澄生が何かを思いだしたように鞄の中をまさぐり始めた。

「あった、あった」

 それから一冊の雑誌を取り出す。

 それがグラビア雑誌であることに気付いて、天道はげんなりした。

 澄生が机の上に雑誌を置く。案の定、表紙には、軽くウェーブのかかったさらさらでふわふわの栗毛色の髪を肩につかないぐらいまで伸ばして、ややぽっちゃり気味の頬にちょっと垂れた優しげな目、小さく愛らしい唇をした美女、というより美少女という形容詞ことばが似合う清楚そうな女性がやわらかく微笑んでいた。

 今、人気絶頂の癒し系グラビアアイドル、Kwoクゥだ。

「いつ見ても可愛いようなぁ」

 言いながら、澄生はページを捲った。そこから始まる巻頭グラビアもKwoで、ビキニの水着姿で、岩場を瀬にして両手を挙げ足をM字に開いて座っている。

 明らかに布の面積が少ないトップからは、Gカップの胸が下だけでなく横からもはみ出し掛かっていた。ハイレグのボトムも布が小さく、今にもがはみ出そうな勢いだ。

 それは表紙の笑顔からは想像も出来ないほど大胆なポーズだった。このギャップがKwoの人気の秘密なのだ。

「相変わらず、凄いなぁ!」

 澄生は興奮気味で次々にページを捲っていく。そして、四つん這いで尻を突き出して挑発するような格好や砂浜で手足を投げ出して寝転がり切ない目で見詰めたり姿に歓声を上げた。

「…………」

 しかし、天道はそんな澄生を冷めた目でうんざりそうに見ていた。

「ほら、おまえも見てみろよ!」

 その視線に気付いた澄生は、本を持ち上げると見せつけるように天道の前で広げた。

「だぁ、かぁ、らっ……!」

 その瞬間、天道の中で何かが切れた。

「姉キが載ってる雑誌を買ってきて、俺に押しつけるのはやめろって言ってんだろ!」

 掴みかからんばかりの勢いで澄生を怒鳴りつける。

 そう、今、目の前であられもない姿をしているのは、天道の姉、蓮實はすみ空子くうこ、その人なのだ。

「そんなこと言ってぇ、本当は嬉しいんだろう?」

 が、そんな天道の行動リアクシヨンなど慣れっこになっている澄生は、意味ありげな笑みを浮かべて軽くいなす。

「姉キの水着姿なんか見たって嬉しくねぇ!」

「なに、贅沢、言ってんだよ」

 キレる天道に、澄生は呆れ顔で言った。

「空子先輩って言えば、在学中は全生徒の憧れの的だったんだぞ」

 姉もまた、二年前まで同じ御厨高校の生徒だった。清楚で可憐。温厚で誰にでも優しく、ちょっとドジなところもあるが、真面目でしっかり者。そんな空子は男女学年を問わず、人気者だった。

「お陰で、俺は大迷惑だったけどな」

 その頃の事を思い出して、天道は露骨に顔をしかめて吐き捨てた。姉とお近づきになりたい男子生徒達から紹介しろとしつこく迫られていたからだ。空子が卒業した時は本気でホッとした。

「そんなこと言うなよ……」

 だが、空子が在学中に弟に迷惑を掛けていた事をかなり気にしているのを知っていた澄生は、そんな天道の態度に憤りを覚えたように溜息をつく。

「だいたい、今、おまえがエリアを走れるのも、空子先輩のお陰だろう?」

「うっ……」

 天道は言葉を詰まらせた。それを言われると弱い。

 毎晩のように乗り回しているロータス・エキシージCUP260は、実は空子の車なのだ。ナンバーが練馬なのもその為である。車好きの友人の勧めで買ったのだが、とある事情で姉は現在、事務所から運転を禁止されていた。なので、今は代わりに天道が乗り回しているのだ。

「だから、そんなに嫌がるなよ」

「それとこれとは、別だ!」

 勝ち誇った顔で小言を言う澄生を気に入らなそうに睨みつけてから、天道は雑誌のページをパラパラと捲った。もちろん、形勢不利なこの戦線から離脱する為だ。

「おっ……!」

 そして、一枚のページで手を止める。

 そこには、ノーズに跳ね馬をいただいた赤いスーパーカーが載っていた。

 大きく開いたフロントエアインテーク。そこに取り付けられた二本の弾性ウィングレット。長く低いボンネット。ッリ目のヘッドランプ。緩やかなに盛り上がったキヤノピー。柔らかなサイドライン。ウイングの無いリア。

 308GTBから続くV8フェラーリの伝統を受け継ぐ2ドアクーペベルリネッタ、フェラーリ・458イタリアだ。

(今日は、フェラーリに縁があるな……)

 そんな事を思いながら天道はその美しいフォルムに見とれていた。澄生はそんな天道をヤレヤレという感じで眺めている。

「……?」

 ページを捲ろうとした天道は、すぐ横に人の気配を感じて手を止めた。

 のっそりと顔を上げる。そして、すぐに不機嫌そうに左眉を跳ね上げさせた。

 そこには女子生徒がボーッと立ち止まっていた。

 髪はクシを全然入れていないかのように寝癖だらけで、背中に掛かるぐらいの後ろ髪は無造作に輪ゴムで二つに結んでいる。顔は蒼白く長い前髪に隠れて目元を見ることは出来ない。身体は棒のように細く、纏った制服はよれよれで、ブレザーはだらしなく着崩れて、スカートもシワだらけ、リボンも曲がっている。

 同じクラスの司馬しばかすみだ。

「おはよう!」

 同じく霞に気付いた澄生がとっておきの笑顔を浮かべて挨拶する。

「……」

 しかし、霞はなにも言わずにフラフラとした足取りで自分の席へと歩き出した。

「変わっただよな」

 完全に無視スルーされ、澄生は肩を竦めた。

「転校初日から、あんな調子だもんなぁ」

 一ヶ月半前、三年生になると同時に転校してきた霞は、その時から今のように蒼白い顔で俯き、辛そうな顔をしていた。クラスメイトが話し掛けてもまるで聞こえてないかのように生返事で、会話が成立しない。その為、教室でもすぐに孤立してしまい、今や話し掛けるのは澄生ぐらいになってしまった。

「相変わらずお節介だよな」

 自分の時の事を思い出して、天道は呆れたように言った。

「別にお節介じゃないさ。単に気に入らないだけ」

 澄生はこういう状況を嫌う。曰く、クラスに一人、孤立して奴がいるのは陰湿で楽しくないから。だが、いくら爽やかな笑顔で話し掛け続けても霞にはまったく効果が無く、正直、お手上げ状態だった。

「司馬って、東京にいた時は私立に通ってたらしいぜ」

 それは澄生が、女性教諭にちょっと聞き出した情報だった。

「私立から公立って、転校できたっけ?」

「基本的には駄目らしいけど、向こうの方がレベルが上ならOKになることもあるらしい」

 素朴な疑問を口にする天道に、澄生は、やはり女性教諭からもらった情報を教えた。

「ってことは、実はお嬢様学校に通ってた、とか?」

「充分、あり得るね」

「そんな風には見えねぇけどなぁ」

「それは多分、転校した理由が関係してるんだろうけど……」

 そこまで言って、澄生は口を噤んだ。

「なんか知ってんのか?」

「いや……詳しいことを聞いたわけじゃないんだけど…………」

 そして、言葉を濁す。

「アイツ見てるとさぁ……」

 不穏な空気ものを感じた天道はそれを意図的に聞き流して、普段から感じてる事を口にした。

「なんか、イライラすんだよなぁ」

「……だから、さっき、あんな態度とってたのか?」

「あんなって?」

 非難するような目で見る澄生に、天道は本気でわからないような顔をする。

「露骨に嫌そうな顔してたろう?」

 まったく無自覚な反応リアクションに、澄生は呆れるような素振りで指摘した。

「気に入らない奴に対してなら、普通だろう?」

 天道は、さも当然とばかりに応える。いつも直球勝負で好き嫌いがはっきりしている。それは女子に対しても変わらない。それが天道だった。

 おかげで、小学校以来、多くの女子を泣かしてしまったりしているのだが。

 それでも、むやみやたらに感情を相手にぶつけるような奴ではないことも澄生も知っていた。

「けど、あの態度は大袈裟すぎないか?」

 だから、ちょっと意外そうに理由を聞いてみる。

「なんで、そんなにイライラしてるんだよ?」

 すると天道はチラッとだけ霞の方を見た。それから投げやり気味に、

「今にも死にそうだから」

 と言い放った。

「あっ……そういうこと」

 それの答えには澄生も納得せざるを得なかった。霞には、まるで生気が感じられないのだ。

 だが、納得した理由はそれだけはない。

「おっと!」

 その時、澄生は自分の座っている席の本当の主が教室に入ってきたことに気が付いた。同時、予鈴が鳴る。

「また後でな」

「おうっ」

 自分の席に戻る澄生に軽く手を上げてから、天道はさっきのグラビア雑誌が机の上に置きっぱなしになっていることに気付く。

(野郎っ……!)

 突っ返しに行こうと立ち上がろうとした時、教室の前の扉が開き担任が入ってきた。本令はまだ鳴っていないのに。

 仕方なく、雑誌を自分の机の中に押し込む天道だった。


 澄生が置いていった雑誌は結局、放課後まで返せなかった。休み時間の度に引き取りを要求したが、拒否された。そして、帰りのショートホームルームが終わると同時に引き留めようとする天道を無視して、澄生は部活へと姿を消した。

「くそっ!」

 仕方なく天道は雑誌を鞄の中に入れて――さすがに机の中に放置するはなかった――不機嫌さ全開で教室を後にした。

(…………ムッ!)

 長い廊下を歩き、階段へと向かう途中、天道のさらに不機嫌さを増した。

 前に霞の姿を発見したからだ。

 俯いた霞は、生徒達が行き交う中をあいかわらずフラフラとした足取りで廊下をわずかに蛇行しながらのっそりと歩いていた。

 それはまるで生きる屍ゾンビのようにも見える。

「ちっ……!」

 舌打ちをした天道は足を早めた。一刻も早く目障りなモノを視界から消す為だ。

 階段の手前で霞に追いつく。そのまま追い抜きオーバーテイクして階段を降りようとした時、

「きゃっ……!」

 小さな悲鳴とともに、不意に霞が前へと倒れ込んだ。その先には階段がある。このままだと転げ落ちてしまう。

「くっ!」

 天道は手を伸ばした。気に入らない奴ではあるが、この状況では助けないわけにはいかない。

 何処を掴むか考える。腰に手を回して引き寄せるのが確実そうだったが、相手は女子だ。下手なところを触ったら、後で何を言われるかわからない。手首では、この勢いだとこちらまで一緒に転げ落ちる可能性がある。

(なら……)

 この間、僅か千分の数秒。

 天道は、霞の二の腕を掴むと力一杯、自分の方へと引き寄せた。胸に霞の華奢な背中がぶつかる。

 結果的に天道は霞を後ろから抱き留めるな姿勢になった。

 見下ろすと、霞のうなじが見すぐ目の前までくる距離まで接近して、天道はドキッとなった。

「!?」

 慌てて、霞から離れる。

「……なにやってんだよ」

 それから呆れたように天道は言った。動揺を隠そうとして、口調が必要以上にぶっきらぼうになる。

「…………」

 しかし、霞はのっそりと振り返ると、不思議そうな様子で天道を見た。今、何が起こったのかもわかったない、そんな様子だった。

 その態度に、天道はイラッとなった。

「言っとくが、こんな階段から落ちたぐらいじゃ死なねぇぞ?」

 そして、皮肉を込めて言い放った。

 一瞬、霞の体がビクッと跳ねる。

「……そうだよ……ね」

 それからゆっくりと顔を前に戻して俯くと、歌うように呟いた。

「死ねないよ……ね」

(コイツっ……!)

 天道は心の中で舌打ちをした。

 そのまま、霞は御礼も言わずにフラフラとした足取りで階段を下り始めた。かなり危なっかしかったが、これ以上、どうこうする気にはなれなかった。

「真性かよ…………」

 そのまま見送りながら、天道は気に入らなそうに吐き捨てた。


 学校を出た天道はそのまま自転車ママチヤリでバイト先のファミレスへと向かった。

 ここでのバイトを始めたのは高校へは行ってすぐのことだ。バイト仲間の間では既に古株になっている。

 夜の九時まで厨房で調理に勤しみ、終わると再び自転車ママチヤリで、学校を挟んで丁度反対側に位置する家へと走った。

「ただいま……」

 鍵を開けて中へと入る。誰もいないのはわかっていたが、それでも習慣でそんなことを口にしてしまう。

 天道の家は5LDKで、道路よりも数段高いところに建っていた。元々は父が祖父の為に建てた家だったが、今は天道しか住んでいない。

 部屋で制服から、デニムのパンツと長袖のTシャツに着替え、その上から愛用のCWU-36フライトジャケットを羽織る。

 それから玄関を出て階段を下りるとリモコンを突き出して、ちょうど庭の真下にあたる掘り込みガレージのシャッターを開けた。

 中へ入り、最近になってLEDに変えた裸電球を点ける。闇の中からエキシージの純白のボディが浮かび上がった。

 とりあえずキーロックを解除してから、いつも通り、天道はゆっくりとエキシージの周りを歩き始めた。そうしながらタイヤの傷がないか、溝の減りはどうか、空気圧は正常か、床におかしなシミは出来ていないかを点検していく。

 それからリアハッチを開けてエンジンを目視する。

 特に異常がないことを確認して、ようやく右のドアを開けてドライバーズシートに乗り込む。

 イモビライザーを解除して、スターターボタンを押す。セルモーターの音に続いてすぐに低いエキゾーストが聞こえてくる。

 エキゾーストに混じって背中から聞こえてくる機械音に耳を澄ます。

 こちらも異常はないようだ。

「よし……」

 天道はシフトレバーを1速に入れて、エキシージをゆっくりと前進させた。

 一端、車を止めてガレージをリモコンで閉めてから、再び前進させる。

 細い路地を抜けて国道に出る。この御厨バイパスを西に進めばすぐに箱根だ。

 天道が住む御厨市は、静岡県の東部、神奈川県との県境にあり、回りを富士山と箱根山、それに丹沢と愛鷹山に囲まれた高原都市である。

 つまり天道にとって箱根は、目と鼻の先、地元なのだ。

 ゆっくりと御厨バイパスを進み、東名のインターを通り越す。そうしながら、水温、油温の上がり方を確認する。

 同時に、ミッションの感覚フィーリングやステアリングの切れ具合、サスペンションやダンパー、それにブレーキの状態にも気を配る。

 箱根の静岡県側の入り口、早乙女峠を昇り始める頃には、ほぼ全ての部品パーッが暖まっていた。

 早乙女峠の途中で右折し、永峡峠へと入る。ここはテレビ番組で『いつもの山道』として使われていたことで有名な道で、狭く曲がりくねっている。そこを70%程度の速度で流し、続く箱根スカイウェイを90%で疾走する。

 箱根スカイウェイは芦ノ湖スカイウェイに比べると中高速コーナーの比率が高い。その為、速度もかなり乗るのだが、天道はその爽快感が好きだった。

「ん?」

 コースも2/3を過ぎた頃、天道はサイドミラーに写るヘッドライトの灯りに気付いた。

 その灯りはミラーの中でどんどん大きくなってくる。

 チカッ、チカッ、とライトが点滅する。

「上等……」

 天道は舌舐めづりした。それから車種を確かめようとミラーを凝視する。

「げっ!」

 で、目を剥いた。

 F―117ステルス戦闘機を彷彿させる直線で構成されたボディ。スーパーカーの中でも極めて低く流れるようにリアへと続くキヤノピー。両サイドに大きく空いた空気エアインテーク。豪快ダイナミックさを感じさせるその黒い車は、間違いなく、ランボルギーニ・アヴェンタドールLP700―4だった。

本当マジ!?」

 念の為、ナンバーも確認する。ナンバープレイには、横浜と書かれていた。

「嘘だろ~っ!」

 毒づいてから天道は真剣な顔になり、ステアリングをグッと握った。

 高速コーナーを、アクセルの開閉でリアタイヤの荷重を抜き、ステアリングできっかけを作ってドリフトに持ち込み、猛スピードで駆け抜けていく。それは誰が見ても正気の沙汰とは思えないほどの速度だった。

 にもかかわらず、エキシージとアヴェンタドールとの差は、ジリジリと詰まっていた。

 「くそっ! やっぱ、速ぇ!!」

 泣きを入れながらも、とりあえず今、自分が出来る最高の運転ドライビングで必死になって逃げる。 この先は、ここでも一番Rがきついヘアピンだった。

 フルブレーキングからロック寸前でブレーキを抜きつつ、ヒール&トゥでシフトダウン。ステアリングを左に送って、エキシージをドリフトに持ち込む。

 フロントノーズをガードレールに擦らんばかりまでインに寄せて、理想的なアウトインアウトのラインでコーナーを抜ける。

 それは渾身の一撃のような完璧なドリフトだった。

 一方、アヴェンタドールは、エキシージよりかなり手前でブレーキングすると、ブレーキを残したまま、ステアリングを切る。

 ロック寸前だったリアタイヤが即ブレークして、テールが勢いよく滑り始める。車体が急激にターンインを始め、同時にフロントタイヤも外へと流れていく。

 ブレーキングドリフト、だ。

 アヴェンタドールのドライバーが、ステアリングを戻しながら、アクセルを微かに踏み込む。

 フロントタイヤが今、同じ場所を駆け抜けたエキシージよりも速い速度でアウトに流れていく。コーナーへの進入速度はアヴェンタドールの方が遅いにもかかわらず、だ。

 それは、アヴェンタドール自身が、リアタイヤのブレークとテールの流れを察知してトラクションの一部をフロントタイヤにも送っているからだった。その為、縦方向にグリップを取られて、横方向のグリップが低下しているのだ。その弊害でターンイン速度も鈍くなる。

 それをアヴェンタドールのドライバーは、左足ブレーキングで補正する。アヴェンタドールのブレーキランプが、引っ切り無しに点滅し、その度にフロントタイヤの流れが遅くなり、車体のターンイン速度が回復していく。

 結果、アヴェンタドールは、エキシージよりも早くノーズをコーナーの出口へと向ける。

 そこでアヴェンタドールのドライバーは、一瞬、アクセルを抜いた。

 リアタイヤがグリップを取り戻して、フロントタイヤのトラクションが全て《リアタイヤ》へと戻る。同時にフロントタイヤのグリップも回復して、横滑りが収まっていく。

 そのタイミングで、アクセルを一気に踏み込む。

 6.5リッター、V型12気筒から絞り出される700馬力psというハイパワーはリアタイヤだけでは受け止められず、再びアヴェンタドールはフロントタイヤにもトラクションを割り振る。

 そのままアヴェンタドールは、四輪でトラクションを余すことなく路面に伝えて、まるでロケットのように加速してコーナーを立ち上がった。

 立ち上がりの速度差で一気に差を詰めたアヴェンタドールは、接触せんばかりの勢いでエキシージのテールにノーズをくっつけてくる。

「くっ……!」

 負けた、と思った。

 もうすぐ芦ノ湖スカイウェイとの分岐点だ。諦めた天道は、素直にハザードランプを出してアクセルを緩めた。

 アヴェンタドールも同様にハザードを点灯させてスローダウンする。

 二台は、そのまま湖尻峠の分岐点で道路の左端に停止した。

 天道がエキシージを降りると、ちょうどアヴェンタドールの左ドアが跳ね上がってドライバーが出てくるところだった。

 降りてきたのは、赤に近い茶色に染めたウェーブの掛かった髪を肩まで伸ばして、豹のようなつり目に紅く熟れた唇。ほっそりとした頬から顎のライン。大人の色気を発しながらもワイルドな印象の美女だった。

 女性としては長身で、細身だが出るところは出ている体に、寸が短くへそが丸出しになったタンクトップとデニムのショートパンツ、足には黒のストッキングという出で立ちで、上から首の周りにふわふわな毛が付いた革のジャケットを纏っている。

「ばんわーっ、紗里奈ぇ」

 すぐに天道は、軽く頭を下げた。

「おうっ! 元気そうだな」

 それに対して牛来ごらい紗里奈さりなは、人懐っこい笑みを浮かべる。それからゆっくりと天道のところへ歩き出した。

 その動作、一つ一つが、動きのッボを心得ていて格好良く決まっている。

 それもそのはずだった。彼女こそ、十代の頃からレースクイーンとして活躍し、今もグラビアモデルやタレントとして絶大な人気を誇る『Sarina』なのだ。

 そして、天道にとっては走りの師匠でもあった。

 紗里奈は空子の事務所の先輩で、その繋がりで知り合ったのだ。

 エキシージを買うよう空子をそそのかしたのも紗里奈だ。

 忙しい仕事の合間を縫って頻繁に箱根こつちにも走りに来ているのは知っていたが、こうして合うのは一ヶ月ぶりだった。

 エキシージのところまで来た紗里奈は開けっ放しのドアから中を覗き込んだ。そして、ハンドルの付け根を横から覗き込む。

 そこには、ダイヤル式のつまみと後付けされたスイッチがあった。

 ダイヤルはトラクションコントロールTCSの調整つまみ。もう一つはこの車の唯一の改造箇所で、アンチロックブレーキABSをカットするスイッチだった。

「関心、関心」

 その両方がオフになっているのを確認して紗里奈は満足そうに頷いた。

「ちゃんとあたしが言ったこと、守ってんだな」

 それは紗里奈が天道に運転のイロハを教えている時に言いつけたことだった。

 曰く、こういうのはもっと旨くなってから使うもの、だそうだ。

 ちなみに、紗里奈のアヴェンタドールも横滑り防止装置ESCをオフにしてある。

「もっとも、旨さならもう充分なんだろうけどな」

 エキシージから顔を抜いた紗里奈は、そう言ってから天道にウインクした。

「そんなことねぇよ」

 と即、天道はその言葉を否定する。

「そぉかぁ? 先週だって、大暴れだったんだろう?」

 先週とは、五月の大型連休ゴールデンウィークの時の事だ。

 連休中とあって、エリアには全国から最速屋ケレリタスが集まり、いつもとは比べものにならないぐらい賑わった。そこで天道は、腕自慢達を相手に連戦連勝したのだ。

「おまえがまだ免許を取って二ヶ月も経ってないって教えたら、みんな、驚いてたぞ」

天道の誕生日は四月二日。その日に地元の運転免許センターで免許を取得した。実はまだ初心者なのだ。理由を知らない者達から見ればこれは驚異だった。

「あれは……相手が遅かっただけ」

 しかし、天道は意に介さないという表情だった。

「今だって、敵わなかったし……」

 それが引っかかっているのだ。負けた相手に褒められても、ちっとも嬉しくない。

「あたしに勝とうなんて、十年早い」

 ふて腐れる天道に、紗里奈は偉そうに胸を張った。Fカップの胸がプルンと揺れる。

 紗里奈の腕は最速屋ケレリタスの中でもトップクラスと言って良かった。それは、闘牛士マタドールに例えられるランボルギーニ使いの中でも、最高位の闘牛士フィグラの通り名を持つというだけでも計り知れる。

 とはいえ、先ほどの対戦バトルでも、もし車が同じだったらあんな風に肉薄することは出来なかったかも知れない、と紗里奈は思っていた。

 天道は既に自分と同等かそれ以上の速さを手に入れているのだ。それは師匠としては嬉しくもあり、悔しくもあった。

 だから紗里奈は、ちょっとだけ意地悪した。

「まぁ、そうむくれるなよ、コーナーの魔法使いウィザードさん」

「紗里奈ぇ!」

 その通り名を聞いた瞬間、天道は血相を変えた。

「それ、本気マジでやめて」

 それから、眉間にしわを寄せて顔を顰める。

 コーナーの魔法使いウィザード

 それは天道にいつの間にか付いていた通り名だった。天道自身がそれを知ったのも先週の話で、最初に聞いた時は正直、恥ずかしいと思った。

 特に魔法使いという響きがよくない。これではまるで自分が……、

「……ったく」

 忌々しそうに天道は吐き捨てた。

「いったい誰がこんな通り名、つけたんだよ……」

「あたしだよ」

「アンタかっ!」

 シレッとぶっちゃけた紗里奈に、天道は相手が年上であり師匠である事も忘れて、ツッコミを入れてしまう。

本気マジ、勘弁してくれ!」

 それから怒りと困惑が入り交じった表情で抗議する。

「そうかぁ? あたしはぴったりだと思うけどなぁ」

 紗里奈の言葉を聞いた天道は、初めて紗里奈を乗せてドリフトした時のことを思いだした。

 ――まるで魔法みたいだな。

 車を巧みに制御コントロールし、高速ドリフトでコーナーを駆け抜ける天道の走りを紗里奈はそう評価した。

「だから、コーナーの魔法使いウィザードか……」

「そういうこった」

 天道はまだ不満そうだったが、紗里奈はそれを豪快に笑い飛ばしてから、

「そういえば、おまえはもう遭ったか?」

 と、全然別の話題を振ってきた。

「なにと?」

 それが誤魔化しなのはわかっていたが、これ以上、怒っていても一度浸透して通り名が変わるわけでもなかったので、天道はそのまま話に乗ることにした。

蒼ざめた馬ペイルホースと、だよ」

 途端に、天道の目の色が変わる。

「いや、まだ」

 今日、聞いたばかり、とは言わなかった。

「相当速いらしいね」

 それから、指を鳴らす仕草をしながら、嬉しそうな笑みを浮かべる。

対戦バトルするのが楽しみだぜ」

「やめとけ」

「へっ?」

 紗里奈の言葉に、天道は思わず間抜けな声を出してしまった。

「悪い事は言わないから、蒼ざめた馬ペイルホースとの対戦バトルはやめとけ」

 天道は眉を顰めた。機会があればどんどん対戦バトルすることを推奨し、自分自身も対戦バトル好きな紗里奈が、そんなことを言うなんて普通じゃない。

「……なんで?」

 なので天道は、伺うように聞いた。

「その名の通りの走りをするからだよ」

 天道は思案した。

 蒼ざめた馬ペイルホースとは、ヨハネの黙示録で第四の騎士、『死』を運ぶ馬のことだ。

「それって、つまり……」

 単に蒼いフェラーリに乗っているからというだけで付けられた通り名ではないということになる。

 ということは……、

「死ぬほど速い、とか?」

「違う、違う」

 天道のトンチンカンな答えに紗里奈は、笑みを零した。

「あたしも実際に対戦バトルしたわけじゃないんだが……」

 言いながら紗理奈は珍しく神妙な面持ちになった。

蒼ざめた馬対戦バトルした奴は、必ず事故ってるらしい。大怪我をして病院送りになった奴も少なくない」

 本当に死んだ奴はいないらしいけどな、と紗理奈はわざとおどけるような仕草で肩をすくめたが、さすがに天道も神妙にならざるを得なかった。

「つまり、相手がついていけないぐらい速い……?」

 だが、心の中は違った。紗理奈には悪いが、そこまで速いならますます対戦バトルしてみたくなる。

「そうとも限らんけどね」

 思惑とは裏腹に弟子の最速屋魂ケレリスタスピリッッに火を付けてしまった事を感じ取った紗理奈は、ため息混じりに警告した。

「やるなら慎重に、な」

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